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「沖田さん」 すっかり日の落ちた時刻。 八木邸の門を潜ろうとした沖田の名を呼んだその声は、男所帯には似つかわしくない、実に清涼なものであった。 「僕に何か用?」 沖田は振り向き、自分を呼び止めた人物へと視線を向けた。 沖田に視線を向けられ思わず身を硬くしたその人物は、男と言うには華奢で、少年と呼ぶにもどこか頼りない姿をしている。 「あの……土方さんが沖田さんを探しています」 「それで僕を呼びにきたの?すっかり土方さんの小姓が板についてるね」 「いえ、土方さんには部屋で大人しくしているよう言われたんですけど、ただ籠っていても手持ちぶさただったので……」 「いいんじゃない?ただ居候でいるよりも役に立ったほうが。でも悪いけど僕はこれから出掛けるから」 「えっ?どこに……?」 「島原だけど……あ、なんなら君も一緒に来る?」 沖田のその問い掛けに、少年は勢いよく首を横に振った。 そんな少年に沖田は、土方さんには上手く言っといてねと言いながら微笑むとその場を後にする。 「珍しいな、総司が島原通いなんてよ」 沖田が段々と小さくなっていく様を見送っていた少年の背後でそう口にしたのは、永倉であった。 その隣にいた原田も「確かにな」と、永倉の言葉に相槌を打つ。 「よし!なら俺も総司と一緒に飲みに行くとするか!」 「止めとけ新八。そりゃ野暮ってもんだろうが」 嬉々として足を踏み出した永倉の肩に手を置き、そう制したのは原田であった。 そんな彼に永倉は不満げな視線を投げて寄越し、原田はやれやれと言いたげに溜め息を吐き出した。 「千鶴、野暮な奴は放っておいて戻ろうぜ」 「えっ……あ、はい」 原田と永倉のやり取りをただ見ていることしか出来なかった少年は、そう声を掛けられ原田の後に続き屋内へと足を向ける。 少年が見た門の向こう側に沖田の姿は既に無かった。 * * * 「唄月」 座敷に揚がる支度を整え、禿が自分を呼びにやって来るのを部屋で待っていた唄月は、名前を呼ばれ顔を上げた。 部屋の襖を開き自分を見下ろしていたのは禿ではなく桜田太夫であった。 芸妓達が皆座敷に向かうこの時刻に桜田太夫が自分の元へ訪れるなどとは露ほども思っていなかった唄月は、やや慌て気味に頭を下げた。 「すまへんな、これから座敷に行かなあかんのに」 桜田はそう言いながら敷居を跨ぎ襖を閉めると、唄月の真正面に腰を下ろした。 「今夜の座敷……新選組の沖田はんに呼ばれとるんやったね。なんや最近唄月のこと贔屓にしたはるようやけど、どないな風の吹き回しやろか」 桜田は思案顔でそう口にする。 桜田が言葉にした通り、沖田に始めて座敷に呼ばれて以来、唄月はその後も何度か沖田の座敷に揚がっていた。 芸妓遊びを然程好まぬ沖田が島原に来る度に唄月を座敷に呼ぶので、他の芸妓から沖田とは恋仲なのかとからかわれ気分を害したのはつい先日の出来事である。 沖田の名を耳にすれば自然と蘇ったその記憶に、唄月は思わず眉を寄せた。 「さあ……なに考えてはるのか、わてにもようわからんお人どす」 些か投げやりになった唄月の言葉に桜田は、「そうか」と呟き口を閉ざした。 そんな桜田の様子を訝しく思いながらも素知らぬふりで、唄月は話題を変えることにした。 「……こったいは、今夜座敷に揚がられへんのどすか?」 座敷に呼ばれ着飾った自分とは対照的に、桜田の頭には簪もなければ顔に化粧も施されておらず、身に纏っている着物とて座敷に揚がる際のきらびやかなものではなく、普段着ているものそのままであったのだ。 芸妓として最高位の太夫である桜田が座敷に揚がらぬなど、唄月はついぞ見たことがない。 彼女の身に余程の事があったのではと不安げに顔を歪める唄月の前で、桜田はふっと力無く笑った。 「唄月……わてな、落籍するんや」 このことはまだ他の子らは知らんから、あんたも暫く黙っといておくれやす。そう続けた桜田の言葉に、唄月は黙って頷いた。 落籍とは芸妓として退くことである。 ただし落籍するには金が必要となり、それは芸妓自身がどうこう出来る金額ではなく、大抵は芸妓の旦那である男が金を出し、置屋から芸妓をもらい受けるのが常である。 落籍するために置屋に出す金は、その芸妓の位が高ければ高いほど、比例して跳ね上がるのもまた常であった。 太夫である桜田を落籍させるのも名の通った武家の者で、桜田が太夫上がりする際の多額の支度金もその男が出したと、唄月は記憶していた。 「唄月……わてが落籍した後に菊乃屋背負うてくのはあんたや。あんたほどの芸妓やったら、旦那になりたいゆうお客はんかて多いはずや」 真剣味を帯びた桜田の視線と言葉に、唄月は身を硬くした。 「芸妓の道は厳しいもんや。太夫上がりするんやったら、もっと厳しいこともある」 桜田の言わんとすることが理解出来きずにいる唄月は、黙ったままでいた。 「……自分の大切なもん捨ててでも、それでも芸妓として生きてかなあきまへんのや」 桜田は強い眼差しで唄月にそう告げる。 まるで、乞うような、祈るような、そんな切迫感のある眼差しは、唄月を戸惑わせた。 「なんや座敷に揚がる前にすまへんかったな。けど、これだけはあんたに言うときたかったんや」 「……へえ……」 先程まで見せていた表情とは一転した、唄月のよく知る桜田の顔に戻り、ほっと安堵する。 部屋を立ち去る桜田の背に向かって深々と頭を下げながら、唄月は桜田の言葉を脳内で繰返していた。 自分の大切なものを捨ててでも、芸妓として生きてかなければならない。 桜田のこの言葉は、一体何を意味するのであろうか。 太夫に上がるとなると、捨てなければならぬものがあるという、桜田からの警告だったのだろうか。 しかしそれならば自分にはいらぬ警告だと、唄月は思った。 身寄りもなく、身売りされて島原にやって来た唄月には、芸妓になる前から何も持ち合わせてはいない。 生き抜くために必死で芸妓という道にすがり付き、身を粉にしてきたのだ。 そんな自分に大切に思うものなどあろう筈がない。 ただひとつあるのは、この道の途中で手に入れた、島原芸妓としての誇りのみ。 この誇を捨てなければならぬ時とは、芸妓としての道を絶つ時だけであろうと、唄月はそう思っている。 「今日は随分元気がないね」 顔を覗き込むようにして首を傾げた沖田の声で、唄月は我に返った。 この座敷へ揚がる前の桜田とのやり取りを思い出していたせいで、客である沖田を前にしながらも呆けていたことへ詫びを述べた。 「えらいすんまへん。……お酒、お酌します」 沖田の手の中にある猪口はいつの間にか空になっていた。 それに気付いた唄月は慌てて酌をする。 そんな彼女の様子を黙って見ていた沖田が、口を開いた。 「やっぱり今日の君、凄く変」 「変……?」 「うん。君が僕に謝ったりするなんておかしいじゃない」 「……」 客を前にしながら呆けていたのは唄月で、それは芸妓としての作法から外れたものであり、詫びを入れねばならぬのは当然のこと。 しかし沖田は唄月のことを、自身に負があっても詫びも入れぬ不遜者とでも思っているような口ぶりで、唄月は苛立ちを覚える。 けれど沖田に対しいつもの様に直ぐ様食って掛からず沈黙した唄月。 そんな彼女を、沖田は不思議そうな目で見た。 「本当にどうしたの?唄月ちゃんらしくないね」 「……そないなことあらしまへん」 「そう?いつもの君なら強気で僕に突っ掛かってくるところじゃない?」 この男は一体、自分のことをどんな目で見ているのだろうと、怒りよりも飽きれが唄月の感情を支配した。 「……変や言うんやったら、そら沖田はんの方や」 「僕はいつも通りだけど?」 「せやかて……わてを座敷に呼びはって……。なんや企んどるのかと思えば、いつも話して帰るだけやなんて……おかしいやないですか」 沖田は数回唄月を座敷に呼んでいたが、いずれも初めて座敷に呼ばれた時と同じ様に、踊りを見るわけでも歌を聴くわけでもなく、ただ唄月と言葉を交わし、酒を飲むだけであった。 交わされる言葉は何気無いものばかりで、時折やって来る沈黙さえも、沖田は楽しんでいる様で。 他の客であれば、そんなやり取りに不審感を抱いたりしない。 けれども相手は沖田総司。 微笑みを称えたその下の真意を読めぬ相手であるからこそ、唄月にはどうしても解せなかった。 訝しげな視線を向ける唄月に対し、沖田は困った様に笑いを漏らした。 「君、それでも本当に芸妓?男がここまで島原に通いつめる理由なんて、ひとつしかないんじゃない?」 口端を持ち上げて言う沖田の言葉は、唄月からすればひどく曖昧で、まるで霞がかっている。 加えてその自分をおちょくった様な口振りが気に食わず、思わず顔をしかめた。 唄月の不機嫌な表情を見て、沖田は明るく笑った。 「やっといつもの唄月ちゃんらしくなった」 僕はそういう唄月ちゃんのほうが好きだよ。 そう口にした沖田の笑顔を見ると、唄月はそれ以上彼と視線を合わせることが出来なくなる。 次の言葉を紡ぐことさえままならず黙り込む唄月と、そんな彼女を目を細め見詰める沖田。 不意に訪れた沈黙を、どちらが破るべきなのか。 沖田の様子をちらと窺うが、彼は変わらず笑みを称えたまま唄月を見るばかりで、口を開く素振りはない。 言葉の無いまま沖田の視線を受けていると、どうにも体がむず痒い感覚になる唄月は、自ずと口を開いた。 「……沖田はん」 「なに?」 「その……そない見んといておくれやす」 「どうして?」 「……沖田はんにじいっと見られとったらなんや落ち着かへんのどす……」 蚊の鳴くような声で漏れた唄月の言葉に、沖田は笑って 「そんな顔でそんなこと言われると余計目が離せないんだけど」 などと口にするから、唄月は顔に熱が集中するのを自分自身で感じていた。 沖田の言う『そんな顔』とは、一体どの様な顔なのであろうか。 常日頃座敷に揚がる際の表情とはまた別の顔をしているであろうことは、唄月自身理解していた。 ただ、どんな座敷に揚がろうとも芸妓としての表情を忘れぬ自分が、何故沖田の前では芸妓としての顔を保っていられぬのか。 そればかりは唄月自身理解出来ずにいた。 |