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恋慕う。その気持ちに気付いてしまったが最期、次々溢れてくる想いを止めることは出来ない。それは、どの女子にも共通するであろう。 武家の女でも町娘でも、そして、芸妓であっても。 日の暮れた花街島原。唄月は菊乃屋の二階にある自分の部屋の格子窓のすぐ側に腰を下ろし、外の通りを見下ろしていた。 太夫となることが決まった今、旦那以外の客の座敷においそれと揚げる訳にはいかぬと、菊乃屋の女将は唄月に寄越された逢状に対し、全て断りを入れていた。 その為唄月は他の芸妓たちが出払った置屋で、何をするでもなくぼんやりと外を見つめている。 この時間になれば通りはいつも賑わう。 芸妓を求めて目当ての揚屋へと足早に歩く客。各々の店に雇われている男衆。そして、客が待つ座敷へと向かう、きらびやかな着物を纏った芸妓たち。 賑やかな通りの中で尤も唄月の目を引いたのは、彼女の姉さん芸妓である桜田太夫だった。 桜田は太夫道中を歩んでいる。桜田の芸妓としての仕事は今宵で終わり、翌朝にはもう武家の男の手へと落ちるのだ。 そんな桜田の最期の太夫道中は、菊乃屋の男衆、禿を多数伴った実に見事なものである。 唄月の視線が桜田ばかりへ向かうのも、同じ置屋に身を置いている者としての贔屓目だけではなかったであろう。現に、通りにいる周りの人々も、桜田の太夫道中のきらびやかさに目を奪われている。 が、唄月は、ただ単純に桜田の太夫道中に魅入っているわけではなかった。 桜田太夫の次は、自分だ。唄月は、迫ってきた太夫昇格を目の前に、桜田太夫の姿を自分の未来として重ね見ていた。 幼い頃から憧れた、芸妓の最高位、太夫。島原芸妓だけでなく、客である武家の者や公卿、町人までもが羨望の眼差しを向ける太夫という存在。唄月が幼い頃から見てきた太夫は、何時も誇り高く、美しかった。 しかし、と、唄月は思う。 美しく、眩いばかりであったかつての太夫たちは皆、どんな気持ちで道中を歩んだのであろう。 生きる術として必死に芸を磨き、皆が皆、喜び勇んで太夫になったのであろうか。 長い歴史の中で生まれた多くの太夫の中には、恋慕う者がいながら、それでも何の感情も寄せぬ相手を旦那とした者もいたのではないだろうか。 唄月はふと我に返り、自分自身の思考を否定するように小さく頭を振った。 馬鹿らしい。 身売りされ 、芸妓としてしか生きていける道のなかった自分に、他の生き方など有りはしない。そう理解しているのに、頭に浮かぶのは沖田の顔で、ふとした瞬間に、もし芸妓ではなく町娘として沖田と出会っていたのなら……と、下らぬ未来を描いている自分に気付く。 これから先、太夫となる唄月を待っているのは、好いてもいない男を旦那とし、床を共にし、容易に他の客の座敷には揚がらぬようになるという現実。 『……自分の大切なもん捨ててでも、それでも芸妓として生きてかなあきまへんのや』 何時だったか、桜田太夫が唄月に語ったこの言葉が、今になって痛いほど胸に滲みる。 芸妓として誇り高く生きる。それ以外に大切なものなど、身寄りのない自分にはないし、これから先だってそんなものは存在しない。桜田の言葉を聞いた当時は、そう思っていたのに。 唄月は、遠くで明るい光を灯す提灯を、ただ見詰めていた。 * * * 月が浮かぶ夜空。男たちは室内に灯りを灯すこともなく、膝を寄せあっていた。 「……で、奴等は見つかったのか?」 八木邸の広間でそう口にした土方の黒髪が、月の光を受けている。 他人が見れば美しいと思うであろうこの男のこの姿。今は全身に緊張感をみなぎらせていた。 「……この辺にはもういないのかも知れない。新八っつぁんと左之さんがもう少し範囲を広げて探すっつってたから、俺も今から追うよ」 土方に声を掛けられた藤堂は捲し立てる様に喋ると、息を整える間もなく再び八木邸の門から外へ駆け出していく。 藤堂の背中を見送りながら、土方は深い溜め息を漏らした。 「副長……我々も――」 「あぁ……奴等屯所付近にはもういねぇようだ。探す人数は多い方がいい」 広間の端で腰を下ろしていた斎藤の声に答えながら、土方が立ち上がる。 「総司、斎藤、お前らはここから島原方面に向かって奴等を探せ」 立ち上がると同時、土方は同じく広間内で待機していた沖田に目を向けた。 沖田の翡翠色の瞳が土方へ向けられる。その瞳の中に、焦りや恐怖の色が微塵もないことに土方は気付いた。 「彼らを見付けたら、斬っちゃっていいんですよね」 「……奴等はもう俺達の命令なんぞ聞かねぇだろうからな」 そう口にした土方の表情が僅かに歪む。沖田はそんな土方の表情を素知らぬ振りで、広間を出ていくのであった。 * * * 何故自分がこんなことをしているのか、唄月には解らなかった。 彼女は今、月明かりのみが頼りの暗い路地を、たった一人足早に歩いている。桜田の最後の太夫道中を飾る為に禿や男衆が出払った菊乃屋は人影も疎らで、脱け出すには容易かった。 尤も、唄月が無断で姿を消したことに気付くのにそう時間は掛かるまい。 今頃は騒ぎになっているかも知れぬと思えば後悔の念にも襲われるが、引き返すつもりはなかった。 何故菊乃屋を脱け出したのか。唄月自身にも、解らない。 ただ、何もしないままで太夫上がりすることは出来なかった。 沖田に逢いたい。その想いが唄月を衝動的に動かしている。 沖田に逢ったところで、どうすべきなのかはわからない。 それでもこのまま、沖田に何も告げずに、好いてもいない男を旦那とすることなど、今の唄月にはできなかったのだ。 島原から少しばかり離れたこの通りに人影はなく、静まり返った中で唄月の耳に聞こえてくるのは、少し乱れた自分の呼吸と足音だけだった。 新撰組屯所への道程を歩きながら、唄月は思った。 見たこともないような悔しそうな表情を浮かべるだろうか。 泣き出しそうなくらい悲しい顔をするだろうか。 それとも、好いてもいない男と床を共にせねばならぬ自分を救うべく、共に何処かへ逃げようとしてくれるだろうか・・・。 実にくだらない望みだと、唄月は自分の思考に溜め息が出る思いだった。 現実を見詰めれば、太夫となる自分を菊乃屋の女将が容易く見逃すようなことはないであろう。 沖田とて、彼の勤めである新選組を捨ててまで唄月と逃げるなどという選択をするとは思えない。 そう理解はしているのに、沖田に逢うことが出来れば何かが変わる。そんな期待をせずにはいられない。 今の唄月にとって、沖田のみが唯一の希望。その思いが、今の彼女を突き動かしている。 一心不乱、辺りに注意を払わず進んでいたせいか、唄月はその異変に気付くのが遅れた。 月が雲に隠れ、町が闇に包まれる。唄月は小路の曲がり角に差し掛かり、そこでつと足を止めた。 角を曲がったその先に、人の気配がある。こんな闇の中で人に出会すなど、それだけでも戸惑わせる事態だった。 だがそれ以上に唄月の足を踏み止どませたのは、今は目に見えぬ人影から漏れてくる声が、およそ人のものとは思えぬものだったからだ。 聞こえてくるのは、何かを啜るような音と、その合間に漏れる甲高い声。 風に乗って運ばれてくる鉄の匂いに、唄月は嫌な予感がした。 小路の壁にぴたりと背をつける。 物音を起てぬ様摺り足でじりじりと、壁づたいに足を進め、曲がり角まで来ると、唄月は恐る恐る先を覗いた。 その時、月を隠していた雲が流れ、唄月の視界を淡く照らす。 月の灯りの下、目の前の光景に、唄月は思わず声を上げそうになる。 彼女の視線の先、曲がり角の向こうに、人が踞っていた。 腰に刀を差した男は膝を付き、もう一人の・・・路上に横たわった人間の胸元に口を寄せて、喉を鳴らしている。 横たわった人間はぴくりともしない。 辺りに滴る黒い液体は、横たわった人間から流れ出たもので、きっともう、魂はその体から抜け出ている。 何より異様だったのは、死体から流れる血を、屈み込む男が無我夢中で啜りあげている姿だった。 この世のものとは思えぬ光景に、唄月は激しく震える脚を抑えることも、動かずことも出来なかった。 |