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座敷から戻った唄月は、月が雲に隠れ淡い光が降り注ぐ街並みを、置屋の自室で一人見詰めていた。 唄月の脳に甦るのは、『唄月ちゃん』と、笑いながら自分の名を呼ぶ沖田の顔。そして人を斬ることになんの迷いもない、冷酷な瞳で自分を見下ろす沖田の姿。 『殺す』と、そう告げられた唄月は、その心の中で何かが崩れ去ったのを感じた。 自分が恋慕っていた沖田は、あんな冷たい瞳をする男ではない。 沖田の笑顔を見る度に高鳴る胸の鼓動。あの夜も、自分の姿を見た沖田は優しい声で名を呼んでくれると、そう信じていたのに……。 唄月はそこで、自分の思考を否定するかのように、首を小さく振った。 忘れると決めたのだ。あの夜見た血を啜る人の姿も、自分に向けられた刀の輝きも。 そして、沖田のことも。 「唄月」 不意に呼ばれ、慌てて顔を上げた唄月。 視線の先、部屋を仕切る襖の向こうから女将が姿を見せた。 女将は目はを吊り上げ、ぐっと唇を噛んでいる。その表情は、何かを必死に堪えているようであった。 「……おかあさ――」 唄月が口を開いたのとほぼ同時、素早く歩み寄った女将が、彼女の頬を思い切り叩いた。 じんじんと痛む頬に手をやりながら、女将を見上げる。 突然の出来事に、側に控えていた禿が、戸惑いの目で女将と自分とを交互にみやっているのを、唄月は視線の端でとらえた。 「……なんで殴られたのか、わかってるんでっしゃろな」 怒りが収まりきらぬのか、女将は荒い息を漏らしながら、そう問い掛ける。唄月は言葉を発することが出来ず、ただ頷くだけであった。 そんな唄月に、女将は再び平手打ちで彼女の頬を叩く。 部屋に木霊する乾いた音に、禿はぎゅっと目を瞑っていた。 今宵唄月が揚がったのは、太夫となって初めて、自分の旦那に呼ばれた座敷であった。それが何を意味しているのか、唄月は充分理解していた。 水揚げ。旦那となった男と寝所を共にしなければならぬその習わしは、芸妓にとって避けられぬ道であり、唄月自身、享受していた。 好いてもいない男と床を共にすることに、嫌悪も恐怖も抱いてはいない。何事もなく受け入れることが出来ると、唄月は、そう思っていた。 だが、寝所で男に力強く引き寄せられた時、唄月の身体は鉛のように重くなり、嫌な汗が流れた。気が付いた時には、男の身体を力任せに押し退けて、部屋の角で肩を震わせていたのだった。 芸妓として、自分の旦那に対する態度には似つかわしくないことは、唄月自身重々理解している。それでも、全身を支配した嫌悪感と、心を襲った恐怖に、逆らうことが出来なかったのだ。 「――申し訳おまへんどした」 芸妓として不遜な態度であったと、罪悪感を抱く唄月は、女将に頭を下げた。 唄月を見下ろしたまま、暫く黙っていた女将が、大きなため息と共に言葉を紡ぐ。 「……旦那はんがええ人でよかったわね、唄月。旦那はんがお怒りになられてへんさかい、今回はこれで許します」 「……」 「せやかて、本来であれば折檻を受けねばならぬことをしたんやと、忘れへんように」 「……へえ」 深々と反省の色を見せる唄月に満足したのか、女将は表情を幾分和らげ、正面に腰を下ろした。 「今日、道中で新選組の人らと鉢合わせしたそやね」 女将の言葉に、唄月の脳裏に甦ったのは沖田だった。 まるで自分のことなど何も存ぜぬ他人のような顔ですれ違った沖田。 「聞けばあんさんらに道も譲らへんかったとか。ほんま、どこまでも失礼な人らや。……唄月、あんた新選組の人らになにもされてへんやろね」 「……いいえ」 「そんならええんや。うちの看板太夫になにかあってからでは、取り返しが付けへんからな」 気を付けなはれ。女将はそう言って、部屋を辞した。女将が姿を消した襖をじっと見詰めながら、唄月はそっと吐息を漏らす。 自分に傷の1つでも付いてしまえば、芸妓として座敷に揚がることが出来なくなる。それは菊乃屋の儲けの減少を意味し、女将はそれが気掛かりで仕方ないのであろう。 自分という存在は何処までも商品なのだ。唄月は、そう思った。そして、それでいいのだとも、彼女は思う。 島原芸妓として生きるということは、普通の女子として生きてはいけない。自分の身を買い取った置屋に対し、何処までも奉公するのがその定めであり、どこか別のところへ心を向けるなど、もっての他だ。 最初から、解っていたことだった。島原芸妓として生きていく為には、恋心など、抱いてはならぬのだと。 全てが過ちだったのだ。沖田との出逢いも、交わした言葉も、見詰められた瞳も。全てが幻で、今となっては抱いた恋慕の情さえも、酷く不確かなものになっている。 視線を合わすことさえしなかった沖田の態度が、それを物語っているではないか。唄月は、そう思った。 * * * 「おまえさんの病は労咳だ」 「なんだ、やっぱりあの有名な死病ですか」 自分の身の内に巣食う病魔の存在に、沖田はいつの頃からか気付いていた。それでもこうして医者から病名を告げられれば、否が応にも意識せざるをえない、死。 恐れているわけではない。ただ、生きられる時間が限られたからこそ、自分のすべきことがさらに明確になる。 今までと変わらず、新選組の、近藤さんの敵を斬るだけだ。沖田は、強くそう思った。 医師である松本良順がその場を後にしても、沖田は屯所の中庭で1人腰を下ろしてぼんやりと空を見上げていた。 他の人間よりも短く終えるであろう沖田の命。そんな自分を憐れむつもりも、悲観的になるつもりもない。 ただ、自分が労咳を患っていると知ったなら、彼女はどう思うだろう。 沖田の脳裏に浮かぶ、唄月の姿。自分の姿を認めながらも、決して目を合わすことなくすれ違った唄月。 芸妓として美しく飾った彼女は、誇り高く、ただ真っすぐに前だけを見詰めていた。 空を見上げたまま、沖田は小さく息を吐き出した。 「もういいよ千鶴ちゃん。出ておいで」 他に人の姿がない中庭で、沖田の声が響いた。 名を呼ばれた少女は、それまで身を隠していた物陰から姿を現し、申し訳なさそうな、神妙な表情で、沖田を見遣った。 |