今日は仕事が休み。のんびり昼過ぎまで寝てようと思っていたのに、朝日は予想以上に眩しくて、結局いつも通りの時間に目覚めてしまった。
顔を洗い、服を着替え、コーヒーとトーストを朝食にする。
もうちょっと眠れたのにとも思ったけれど、慌ただしく出勤の支度をしなくて済む朝も、結構好きかもしれない。


「くぁ……おはよ」
「おはよう」

大きな欠伸をしながら、彰が寝室からのっそりと現れた。
彰の寝起きと風呂上がりは、いつも立てている髪がぺったんこに寝ていて、まるで別人みたいに見える。

「華梨さん今日は休み?」

洗面所から出てきた彰の髪は、もうしっかりと立ち上げられている。

「うん。ちょっと早起きしちゃってさ。予定ないし、散歩がてら陵南行こうと思って」
「学校に行くの?」
「うん」

せっかく近くに家を借りたのに、わたしはまだ一度も母校を訪れていなかった。

「あ、俺今日練習試合なんだよ」

ふと思い出したかのような口ぶりで、彰は言った。

「それなら試合に合わせて行こうかな」

ただ校内をぶらぶら歩くよりも、バスケの試合を見るほうが充実的だ。

「試合は何時から?」

わたしの問いに、彰は壁掛け時計に目を走らせる。

「あ」
「どうしたの?」
「やべ、寝坊したかも」
「ちょ……大丈夫なの?間に合う?」
「うーん……。走ればギリギリ?」

試合において、走ってギリギリ間に合うのが宜しくない事態であることぐらい、わたしにも判る。
けれど当の本人は判っているのかいないのか、余裕たっぷりだ。

「もう!なんでそんなマイペースなわけ?ほら!突っ立ってないで着替え!持ちものは?準備したの?」

せき立てるように一気に喋る。

「なんか華梨さん、母親みたいだな」
「そんなこと言ってないで支度しなさいって」

暢気極まりない口調の彰に、わたしは半場呆れながら言った。
それから彰は制服に着替えを済ませ、スポーツバッグを抱えて玄関に立った。

「いってきます」
「いってらっしゃい」

彰はニコリと笑って玄関のドアを開け、わたしは彼の大きな背中を見送った。
彰が走ってギリギリ間に合う位なら、わたしはのんびり歩いて試合開始にちょうど間に合う位だろうか。
必要最低限の物を小さな鞄に入れて、玄関のドアを開ける。
それにしても、なんてマイペースな子なんだろう。鍵穴に鍵を差し込みながら、そんな事を思った。
彰の母親だなんて、絶対御免だわ。
強くそう思い、カシャン、と音をさせて鍵を回した。



東京に居た頃は、休日といえばタツヤと会うか、友達と遊んでいた。高校時代に仲の良かった子達は皆地元を離れてしまっていて、こっちよりも、むしろ東京の方が会いやすかったのだ。
予定のない休日。久しぶりの母校に一人で向かうのは、なんだか少し寂しかった。
共に青春時代を過ごした仲間と、昔話なんかしながら訪れていれば、きっと寂しさなんて感じなかっただろうな。

家から陵南高校までは歩いて十分少々の距離にある。数年ぶりに訪れた母校は、わたしの記憶にあるそれより、色彩が薄れていた。
校門を潜り、体育館へ向かう。
どうやら試合はもう始まってしまったらしく、ボールの弾む音が中から聞こえてくる。


「見えないし……」

扉から館内に入ったわたしは、ひとり呟いた。中にはギャラリーらしき人が多数いて、その人だかりに阻まれてしまう。
爪先立ちでどこかに空いてるスペースがないかと探し、見つけたのは二階だった。
二階へと上がる階段は、壇上の両脇と更衣室の隣にある。すぐに更衣室隣の階段へ向かい、久しぶりに登る階段を、一段一段ゆっくり踏み締めた。
しかし練習試合ってこんなにギャラリーが集まるもんだったっけ?昔、バレー部の練習試合の時は友達数人が応援に来てくれてただけだった気がする。
そんな事を思い出しながら、二階へたどり着いた時だった。

「キャー!仙道さーん!」

生徒らしき女の子が黄色い声を上げる。
彼女が叫んだ名前に反応して、コートを見下ろしたその瞬間、白いユニフォームを着たツンツン頭がダンクシュートを決めた。
‘ワッ’と大きな歓声に包まれる館内。
その歓声は、わたしがよく見知った少年に向けられている。

コート上を凄いスピードで駆ける彰は、わたしがよく知っている少年であり、全くの別人だった。
生き生きした表情で、今朝まであんなにのんびりしていた子は一体何処へ行ってしまったのか。そう思ってしまうくらい。

わたしはバスケなんて体育の授業でやったことしかなかったし、NBAの試合なんかもわざわざテレビで見たりするようなこともなかった。
けれど、今目の前で行われている高校生のバスケの練習試合から目が離せなかった。
ラスト二分、相手チームが彰一人に二人がかりでディフェンスについた。ここまでマークされる彰は、やっぱりそれだけ凄い選手なんだろう。


この練習試合は接戦の末、陵南が勝った。
陵南の勝利を決めた最後の得点は彰のシュートで、わたしはそのシュートが決まった瞬間、年甲斐もなく大きな声で叫んでしまった。
コートでは試合を終えた選手達が挨拶を交わしている。

そろそろ帰ろうかな。そう思った時だった。

「華梨!」

名前を呼ばれ、柵に手を掛け下を覗くと、立っていたのは彰だった。

「帰るの?」
「うん。試合終わったし」
「俺も今日はこれで終わりだからちょっと待ってて」

わたしを見上げてニコリと笑った彼は、そう言い残し更衣室へ向かった。

『待ってて』ってことは、『一緒に帰ろう』ってこと?
わたしの横で試合を見ていた生徒らしき女の子二人組が、こちらを見ながらひそひそ小声で話している。
気まずさに耐えきれず、わたしは逃げるようにして体育館を出た。

『待ってて』と言われてしまったからには一人で帰るわけにもいかず、出口から少し離れた所で待っていると、制服を着た男の子たちがぞろぞろと出てきた。さっき試合をしていた相手チームの選手達と、陵南のバスケ部の子達だろう。
彰が一人の男の子に手を差し出すも叩き返され、もう一人、赤い髪の子と握手している。
やがて相手チームの子も帰宅の途に着き、陵南バスケ部もその場で解散となったようだ。円になった部員達が「お疲れさまでした」と大声で挨拶しながら頭を下げている。
彰は、頭を元の位置に戻すとすぐにこちらに振り向き、仲間達に軽く挨拶をしてからわたしの元へやってきた。

「おまたせー」

小走りでやってきた笑顔の彰。なんか犬っぽい。

「お疲れさま」
「ほんとくたくただよ、俺」

眉毛を下げて、少し情けなそうに言う顔は、家にいる時の彰の顔だ。

「なんか試合中と普段の顔、全然違うよね」
「俺が?そうかなぁ……」
「そうだよ。別人かと思ったもん」
「そんなに?」

そんな話をしながらのんびり歩き出した。
せっかくだから海沿いを歩いて帰ろうとわたしが言うと、家までは少し遠回りになるにも関わらず、彰は快く了承してくれた。


「そういえば、さっき体育館でわたしのコト呼び捨てにしたでしょ」

堤防の横を歩きながら、さっきのことを思い出した。

「あ、ゴメン」
「ううん、別に呼び捨てでいいけど。わたしも彰って呼んでいい?」

そう言うとわたしを見下ろしながら口端を持ち上げる彰。
こうして並んで歩くと、彼の長身さを改めて感じる。

「よっ」

勢いよく堤防に手を着いて、体と足を乗せる。
ゆっくり立ち上がると、目の前には何処までも広がった海が見えた。

「やっぱ海っていいな」

いい大人のくせして人目もはばからず堤防に乗り上げてしまったけれど、この光景を拝めるなら安いもんだと思えた。
浜辺に打ち寄せる波も、水平線も、高く上った太陽も、何もかもが綺麗。

「わたし今なら海に向かって叫べるかも」
「なんて?」
「『高校生に戻りたーい!』とか?」

さっき見た試合のせいかもしれない。部活に一生懸命な子達を見て、自分もあんな風に過ごせてたらなって思う。

「『好きだー!』とかじゃなくて?」
「それは彰が叫べばいいじゃん」
「俺は遠慮しとくよ」

いつもは見上げてる彰の顔が、わたしの頭より下の位置にある。なんか気分がいいかもしれない。

わたし達は再び足を進めた。
わたしは堤防の上、彰はそんなわたしの隣を歩く。

「彰さ、ほんとバスケ上手いんだね。さすが特待生。女の子にモテるでしょ?」
「さぁ……どうだろ」

いや、きっとモテる。この子顔いいし、あれだけバスケが上手いんだもん。モテない筈がない。だから女慣れしてるのよ、きっと。

「今日の試合、彼女応援に来てたりしなかったの?」
「来てないよ」
「ふーん……」
「華梨こそ、彼氏とデートは?」
「デートの約束があれば試合見に行ったりしてないわよ」
「はは、それもそーか」
「そんなことよりさ、次の試合とかっていつなの?」

彰に痛い所を突かれてしまったので、話題を変える。

「試合……いつだったかな」
「次の試合も見に行ってもいい?」
「うん。華梨、バスケ好きなんだ?」
「好きっていうか……好きになりそうな感じかな」

わたしがそう言うと、彰は嬉しそうに笑った。

「あ、行き止まり」

暫く続いていた堤防は、数メートル先でいったん途切れている。

「華梨」

彰は微笑みながらわたしに手を差し伸べてくれていた。

「ありがとう」

わたしはその手に自分の手を重ねて、堤防から飛び降りた。