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ドアの横に付いたインターフォンを人差し指で、少し長めに押した。ドアの向こうから小さく、「ピンポーン」と鳴っているのが聞こえる。
やがて鍵を開ける音がして、ドアがゆっくり開く。そこには小柄な女性が立っていて、俺を見上げる。
「おはよう仙道くん。また来たの?」
「毎日遅刻して先生に怒られない?」と、制服姿の俺に意地悪な言葉を吐く彼女。
その言葉とは裏腹に、彼女は楽しそうに笑っている。
「遅刻なんていいんだ、なまえさんの顔が見れれば」
「ふふ……こんなオバサン相手にお上手ね」
彼女はそう言いながら、俺を自分の部屋の中に招き入れてくれた。
自分をオバサンだなんていうけれど、なまえさんのきれいな丸顔には大きな皺なんてないし、ショートカットにした黒髪は艶やかだ。
何より、くりっとした大きな目はいつもキラキラしていて、俺より幾つも年上の人なのに、子供の様だと思う。
「どうせまた朝ごはん食べてないんでしょう?」
部屋のリビングに通され、彼女はそう言いながらキッチンへ向かうと、コップに並々と注がれたミルクとクロワッサンを皿に載せてテーブルの上に置いた。
「さ、どうぞ」
にこやかに笑うなまえさんに促され、俺はテーブルに腰を下ろした。
出してくれたクロワッサンにかぶり付く俺を満足そうな笑顔で見守り、彼女は再びキッチンへと舞い戻った。
流しから流れる水の音。カチャカチャと食器がぶつかり合う音。常に動くなまえさんの背中。
キッチンの食器棚にはペアのマグカップ。ベランダに干された洗濯物には、男物のワイシャツと下着。
「――でね……って、聞いてた?わたしの話」
クロワッサンを頬張りながら、ぼんやりとしていた俺に、なまえさんがキッチンから声を掛けた。
どうやら何か話していたらしい。俺は惜しくも聞き逃してしまったようだ。
「ごめん、ちょっと寝てた」
「目を開けながら?器用ね、キミは」
可笑しそうに笑う彼女を見ると、胸が締め付けられる様に痛い。
どうにかしてその笑顔を俺だけのものにしたいと思っても、叶わない。彼女の左手の薬指には、細い銀色の指輪がはまっているから。
人妻だなんていうと、なんかエロくて、少し年増な感じだけど、なまえさんはそんなイメージとは離れた、まるで少女の様な人だと思う。
俺の住むアパートにほど近い場所にあるマンションに住むなまえさん。
学校へ向かう途中、ゴミ出しやスーパーへ向かう彼女と時々顔を合わせ、いつの間にか、すれ違えば「おはようございます」と声を掛け合う様になり、いつだったか彼女の方から「いつも遅刻なんじゃない?」と、笑いながら話掛けられた。
それからは顔を合わせる度に会話を交わす様になり、俺が一人暮らしであることを話すと、「朝ごはんくらい食べて行ったら?」と、彼女の部屋に招き入れてくれた。
始めからわかってた事だったのに、なまえさんの暮らす部屋に初めて通された時、その生活感溢れる部屋から漂う、もう一人の存在が、俺の胸を痛めた。
そしてその時初めて気付いたんだ。
俺は、この人が好きだってことに。
「いってらっしゃい」
朝ごはんをもらって、他愛もない会話をして、そして学校へ向かう俺を、彼女はいつも見送ってくれる。
いつもと変わらない、可愛い笑顔で。
なまえさんの部屋のドアを開けて外に出ると、冬の空気がツンと顔を差す。
夢のような時間から、現実に引き戻される感覚。
「どうしたの?」
玄関先から動かない俺を訝しんだなまえさんが、そう声を掛けた。
振り向けば、彼女は不思議そうに首を傾げ、俺をじっと見上げていた。
「なんでもない。……ただ」
「ただ?」
「……寒みぃなー、と思って」
俺がそう口にすると、なまえさんは「へんなの」と、クスクスと笑う。
『ここから動きたくない』と、『あなたを俺だけのものにしたい』と、そう俺が言ったなら、あなたはきっとその笑顔を見せてくれなくなるんだろう。
「……なまえさん」
「ん?」
「俺……」
――もうここには来ないから。
たった一言なのに、そう口に出来ないのは、たとえ望みのない想いだとわかっていても、それでも彼女と少しでも近づいていたいから。
なまえさんはそんな俺の気持ちなんて知る由もなく、キラキラした瞳で真っ直ぐ俺を見る。
「……また来るよ」
「うん。いつでもどうぞ」
なまえさんは言って、優しく笑う。
俺はそんな彼女の笑顔に送り出され、学校への道のりをのんびり歩いた。
なまえさんの瞳に見つめられると、足が地面から浮いてしまいそうになる。
だから、きっとやめられない。
午前10時の密会
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