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♢ 壁外調査から数週間が経ち、兵団内は落ち着きを取り戻し始めた。兵士たちには休暇が与えられたようで、兵舎内は俄に浮き立っている。 しかしそれらはアンナにとって無関係な物事であった。他の兵士たちが休暇を満喫している間も、アンナには通常と変わらぬ訓練が課せられている。……が、彼女自身は特に不満はない。 壁外調査に参加していなかった自分が休暇を与えられるのはおかしな話だし、与えられたところで、やることもなければ帰る場所もない。アンナはそう考えている。 休暇を与えられた兵士たちは、帰省したり体を休めたりと、各々の過ごし方をしているようだ。 通常よりもほんの少し空気が軽くなった感のある兵舎の食堂で、アンナはマリウスと向かいあって昼食をとっていた。 「マリウスは帰らないの」 「え?」 「休暇」 「ああ、うん。こっちでやりたいことがあるんだ」 「ふうん」 アンナはパンをちぎり、口の中に放り込む。彼女の様子を眺めていたマリウスは、ほんの少し目尻を下げた。 「それに、アンナは休暇中も訓練をしてる」 「私には休暇がないだけ。……というか、なぜそこで私の名前が出る。マリウスの休暇と私の訓練にはなんの関係もない」 「まあそうなんだけど……君が訓練を頑張ってるのを見てると、僕も頑張ろうっていう気持ちになるんだ」 「……そういうものかな」 「そういうものだよ」 「……じゃあマリウスは今日も訓練をするのか」 「そうだね。この後は訓練場に行こうと思ってる」 「なら、一緒に訓練しよう」 「……いいの?アンナにはリヴァイ兵長が付いてるのに」 「かまわない。リヴァイはいないから」 ここ数日、リヴァイがアンナの訓練を見ていることはなかった。訓練するよう命令はするが、彼自身は会議に出たり、部屋にこもって書類との睨み合いを行っているだけだった。 見張っている人間がいないことは、少なからずアンナをリラックスさせた。その反面、どこか物足りない気がしてならない。 「……いてもいなくても一緒だと思ってたけど、いないと気が抜ける」 「うん。自主練習だと緊張感は多少欠けてしまうからね」 「それに、やってることが正しいのかどうかわからない。だから、マリウスに見てほしい」 「もちろん」 マリウスが穏やかな笑みを浮かべる。アンナは昼食の続きに取りかかった。 アンナとマリウスの腰掛けるテーブルに、ふと影が差す。アンナが視線を上げると、見慣れぬ兵士がふたり、傍に立っている。 「よう、マリウス」 兵士のひとりがマリウスに声を掛けた。一瞬、兵士の視線がアンナへと向けられる。あからさまな好奇の目に、アンナは不快な気分になった。 「これから街へ行くんだが、お前もどうだ?マリウス」 マリウスに問いかける兵士たちの口元に下卑た笑いが浮かんでいることに気付き、アンナはますます不愉快になる。 「いや、僕は遠慮しておく」 「ま、そうだろうな」 兵士たちが踵を返す。振り向き様、彼らの視線が再びアンナに向けられた。 「……なんなの、アイツら」 「さあ……」 「私のことなんか気にせず、街に行きたかったら行っていい」 「いや……僕は……」 なぜかしら歯切れの悪いマリウス。アンナは訝しく思い、彼の顔をじっと見つめた。マリウスはアンナの視線に気付き、バツが悪そうに目を逸らす。 「……街って……女を買いに行くのか、アイツら」 「……さ、さあ……」 「べつに隠さなくてもいい」 「……」 マリウスはついに黙りこんでしまった。どうやらアンナの考えは当たっていたらしい。 気まずそうに目を伏せるマリウスがいっそ憐れに思えてきて、アンナは遠ざかって行くさっきの二人組の背中を見やった。 2人が食堂を後にする。その時、彼らの話声がアンナの耳に届いた。 「マリウスのヤツ、やるよなぁ」 「ああ。兵長のお気に入りだろ?そんな女に手出しできねぇよ」 「どうせ身体使って調査兵団に入ったんだ。誰に対しても脚開いてんだろう」 微かに響く下卑た笑い声。アンナは素早く立ち上がる。 「アンナ!?」 マリウスが声を上げた頃、すでにアンナは駆け出し、テーブルを離れていた。 止すんだ!叫ぶマリウスの声を聞きながら、アンナは床を蹴り、大きく跳躍した。 前方を歩いていた兵士たちの下卑た笑い声が止む。アンナの足が彼らの背に激しくぶつかり、手を付く間もなく、二人揃って前のめりに倒れたのだった。 〇 「……説明しろ。俺がわかるように」 「……言いたくない」 アンナはリヴァイの部屋で、机を挟んで彼と向かい合っていた。 椅子に腰を下ろしたリヴァイが厳しい目をしてアンナを見上げる。その視線にめげることなく、アンナは口を一文字に結んだ。 食堂で兵士二人に蹴りをくらわせた後、乱闘寸前の騒ぎに発展した。 アンナに蹴られた兵士たちは、突然の出来事になにがあったのか理解できず、呆然としていた。目の前に立つアンナの姿を目にし、倒されたことを理解すると当然のように拳を振り上げた。アンナはそれをするりとかわす。相手の顔が怒りで真っ赤に染まる様子を冷静に見ていた。 マリウスがアンナの肩を押さえ、止めに入る。たまたま居合わせた兵士数名も、アンナに殴りかかろうとする兵士を押さえていた。 騒ぎを聞きつけた上官のひとりが慌てた様子で食堂にやってきた。睨み合うアンナと兵士ふたりを交互に見やった後、当事者である3人以外は解散するよう命じた。マリウスが心配そうな顔でアンナを振り返っていた。 アンナたち当事者は各々直属の上官の元へ行き事態の報告、必要であれば処罰を受けるようにと指示された。 指示に従い、兵士ふたりは各々の所属班の班長の元へ。アンナはリヴァイの元を訪れたのだった。 「……街へ行くと言ったら、お前に蹴られた。向こうはそう証言してるそうだ」 「チッ……あの嘘つき野郎……」 思わず漏れたアンナの悪態。リヴァイが僅かに眉間に皺を寄せる。 「アイツらが街に行って女を買おうがどうしようが私には関係ないし、どうでもいい」 「ならどうしてあんなことやったんだって聞いてんだ」 「……」 核心に迫ろうとすると頑なに口を閉ざすアンナ。リヴァイの口からため息が漏れる。 「……正直に話せ。さもなければお前を処罰する。……不当な処罰でも大人しく受け入れるつもりか?」 「……私に落ち度がないような言い方だな」 「お前は短気ですぐ手が出るが……理由なく相手を傷付けるとは思っていない」 「……」 「わかったらさっさと話せ」 リヴァイの目が真っ直ぐにアンナに向けられている。 アンナは薄く開いた口許から小さく息を吐き出した。 「……身体使って調査兵団に入ったって……」 「……」 「リヴァイとセックスしてるって思ってる、アイツら」 「それでか……」 「リヴァイとだなんて気持ち悪い。想像されるのも腹が立つ」 「同感だな……誰がてめぇみてぇなガキ……」 「そうか。それなら安心だ」 「安心?」 「リヴァイに犯される心配はないってことだ」 「はっ」 一瞬浮かべたリヴァイの嘲笑は直ぐに消え失せ、急に真面目な顔になる。なにか思案しているようだった。少しの沈黙の後、リヴァイが静かに口を開いた。 「……アンナ、お前――」 リヴァイの言葉は途中で途切れる。彼にしては珍しく、躊躇しているらしい表情。 途中になった言葉が紡がれるのを待っていたアンナだったが、痺れを切らし口を開いた。中途半端にされるのは性に合わない。 「――犯されたことはない」 「……そんなこと聞いてねぇだろうが」 「聞こうとしたくせに」 地下街という場所に溢れる犯罪。強姦とて珍しいことではない。アンナのような少女が、傷付かずにいられることは奇跡としかいいようがないほどに。 リヴァイはそういう場所であることを理解している。 「……いつも未遂で終わった。私を犯せる男なんていない」 「……」 「それでも腹は立ったからやり返した。おそらく二度と勃起できないだろう」 「同情するな……男のほうに」 「同情されるべきなのは私のほうだ」 軽口をたたきながらも、アンナの脳裏によみがえる、あの時の情景。 地下街で暮らすようになったばかりの頃、休むこともままならず辺りを彷徨いていた数日間。疲労感と空腹、そして強力な睡魔に襲われ、路地の片隅で微睡んでいた。軽い睡眠のなか、人の気配を感じて目を開くと、見知らぬ男が覆い被さっていた。 男の吐く荒い息は、熱く湿っていた。全身から発散される汗と汚れが混じった臭いが鼻についた。男もまた、地下街で生きる人間だったのだろう。 両腕を拘束する、男の骨ばった手の冷たさ。太股の辺りに押し付けられた硬いぺニス。欲情に駈られ揺れる瞳は、正気を失ったようにしか見えなかった――。 その出来事は、アンナに少なからず衝撃を与えた。理由なく振るわれる狂気と欲望。そして、自分が欲望の対象になるのだという事実。 「――アンナ」 リヴァイに名前を呼ばれ、過去の記憶から現在へと引き戻される。 「……聞いてなかった。なに」 「事情はわかったからもう下がれと言ったんだ。……ボンヤリしやがって」 「これから訓練に行ってもかまわない?」 「ああ。相手の班長には俺から話しておく」 アンナは小さく頷いた。リヴァイは既に机の上に乗せられた書類に視線を落としている。 そういえば、とアンナはふと気付いた。あの出来事のあとから、生理がきていない。 その日暮らしがやっとの地下街で、栄養が行き渡らなかったからなのか、精神的なものか。理由はアンナ自身にはわからない。だからといって、不都合もない。彼女はそう思っている。 これから先どんな人生を歩んでいくことになるのか、アンナに明確なビジョンはない。はっきりしているのは、自分が生きていく道に安息などありはしないということ。命を宿し子を成すなど、そんな穏やかな人生とはかけ離れた場所にいる。 リヴァイの部屋を出たアンナは、通路の窓から見える訓練場のほうに視線を向けた。 訓練場では、マリウスが待っているだろう。自分から訓練を見てほしいと頼んだのだ。しっかり励まなければならない。 アンナは足早に、訓練場へと続く兵舎の長い通路を歩いていった。 |