高い木を多く茂らせた、調査兵団の訓練場。太陽が登り始め、空が薄紫色に染まっている。
 アンナは空中にいた。なるたけガスを消費しないよう注意しながらアンカーの標準を定め、ワイヤーの巻き取りを行う。その繰り返しで素早く移動していく。
 移動中にふと上空を見上げる。木々の隙間からのぞく、ちっぽけな空。
 そういえば空を見上げるなんてずいぶん久しぶりだと、アンナは思う。今リヴァイに見られていたら「余所見をするな」と叱責されていたかもしれないが、幸運なことに彼はこの場にいない。好きなだけ空を見ることができる。

 木に身体を接触させないよう意識しながら、立体機動を続けた。こうして空中を移動しているとアンナは不思議な気分になる。
 人という生き物が宙を舞うことは、そう簡単にできるものではない。それを可能にしたこの装置は、巨人を倒すための道具であるという事実。
 不自由から生まれた装置を身に付け飛んでいると、なんだってできるし、どこへだって行ける気がしてくる。

 太陽の位置が高くなり、空が白さを増してきた。アンナは慣れた動作で地上に降り立つ。
 ふと、人の気配を感じて振り向く。近くに立つ木の下に、リヴァイの姿があった。背を木の幹に預け、腕を組んでこちらをじっと見ている。

「会議があるんじゃなかったのか」

 会議があるから訓練はひとりで行うように。昨夜、アンナはリヴァイにそう指示されていた。

「会議はこれからだ」
「そう」

 呆けたように空を見上げながら立体機動を行っていた自分の姿を、リヴァイは見ていたのだろうか。アンナは叱責の言葉を貰う羽目になることを覚悟した。しかしリヴァイは黙ったまま、アンナの顔を見つめている。

「……私は朝食をとりに兵舎に戻る」
「ああ」

 アンナの言葉を聞き、リヴァイが先だって歩き出す。向かっている先は勿論兵舎だ。アンナはしかたなく、リヴァイの後に続く。

「……リヴァイ」

 歩いている間も沈黙を守るリヴァイ。その背中に向かって声を掛ける。

「見てたんだろう?私の訓練」
「ああ」
「なら、なぜ何も言わない?いつもなにかしらケチつけるくせに」

 リヴァイが頭だけを振り向かせ、アンナを見やった。ぶつかる視線。アンナは少し動揺する。
 視線がぶつかったのは僅か一瞬で、リヴァイはすぐにその視線を正面へ戻した。

「……言うことはない」

 呟くような、小さな声だった。アンナは思わず「え?」と、漏らしてしまう。

「立体機動……完璧ということ?」
「悪くはない」
「……珍しい。リヴァイが私を誉めた」
「誉めてはいねぇ。調子にのるなクソガキ」
「べつに調子になんかのってない。訓練と実戦が違うことも理解してる」

 兵舎にたどり着き、リヴァイがアンナを振り返る。

「……なに」
「いや……」

 自分の顔をじっと見つめるリヴァイ。なにか言いたいことでもあるのかと問いかけてみたものの、リヴァイはなにを言うでもなく、会議室へと向かっていった。
 遠ざかっていくリヴァイの背中を見送って、アンナは食堂へ向かう。





 夜になり辺りが闇に包まれる。アンナは訓練場から兵舎を見た。会議室には灯りが点っている。まだ会議が続いているのだろう。
 視界が大分狭くなってきた。アンカーを見定められない以上、訓練を続けられない。アンナは訓練場を後にする。

 自室に戻る道すがら、資料室に立ち寄った。資料室には、今まで行われた壁外調査の報告書から巨人の研究資料、少数ではあるが架空の物語までを揃えている。
 アンナが手に取ったのは、近年出版された詩集だった。詩の内容は理解できなくとも、簡素な文字を組み合わせたそれらは、言葉を覚えるのに都合が良い。


「……アンナ?」

 背後で自分の名前を呼ばれ、振り返る。そこにはマリウスの姿があった。

「やっぱりアンナだ。君も本を借りに?」
「そう。読み書きできるようになりたいから」

 未だ満足に読み書きできるわけではないが、新しい言葉に触れ、覚えていく感覚はアンナにとって心地よいものだった。

「訓練の後で本を読むんだろう?休む時間が少なくて大変なんじゃない?」
「べつに……睡眠時間はもともと少ないし、本を読むことは嫌いじゃないから」
「好きなことをしてると疲れも忘れるんだよね。僕も本を読むのが好きだから、よくわかるよ」

 マリウスも目的の本を手にした後だったらしい。ふたりは揃って資料室を後にし、並んで通路を歩いた。
 しばらく歩いたところで、正面からこちらに歩いてくる人影に気付く。徐々に距離が縮まって向かい側からやってきた人物の顔をはっきり捉えると、アンナの隣を歩いていたマリウスが姿勢を正し、俊敏な動きで敬礼をした。

「やあアンナ。それと……マリウスだったね?」
「はっ!」

 団長であるエルヴィンに声を掛けられ、マリウスの背筋が益々伸びる。エルヴィンはマリウスに小さく頷いてみせた後、視線をアンナに向けた。

「ちょうど会議で君の話をしていたんだ」
「……私の話?」
「話の内容は後でリヴァイに聞くといい」

 そう言って、エルヴィンはその場を後にする。小さくなっていくエルヴィンの背中を訝しげに見つめるアンナ。彼女の隣で、マリウスは姿勢を崩さない。

「……私も敬礼すべきなんだろうか」

 エルヴィンの背中が見えなくなっても敬礼を続けるマリウスに、アンナは問い掛ける。

「上官に対して敬礼をするのは規律のひとつだけど……」

 左側胸に添えていた拳を下ろしながら、マリウスが続ける。

「この敬礼の意味を、君は知ってる?」

 アンナは首を横に振る。敬礼の意味など聞いたこともないし、意味があるものだと考えたこともない。


「左胸に拳を添えるこの敬礼には、公に心臓を捧げることを表しているんだ」

 マリウスが再び、敬礼をとる。真剣な眼差しで、アンナを真っ直ぐに見つめている。

「……知らなかった。リヴァイはそんなこと教えてくれなかったし……」

 調査兵団で訓練を始めてから、敬礼をする兵士を見かける機会は多くあった。(それらのほとんどはリヴァイに向けられていたのだけれど)
 兵士たちはみな、敬礼の意味を知っている。自分の命を公に捧げるという覚悟の意。
 自分には、そんな覚悟があるだろうか。命を賭けることに怯えはないけれど、公なんていう漠然としたもののために戦うつもりはない。自分が戦うのは、あくまで自分のためなのだ。
 出口の見えない掃き溜めから抜け出すために。本物の、自分が生きるべき場所を見つけるために戦う。

 アンナは暫しの間、眉間に皺を寄せて考えこんでいた。そんな彼女を見かねて、マリウスは朗らかな笑みを浮かべてアンナの顔を覗く。

「そういえば、さっき持ち出した本はどんなものなんだい?」
「え……ああ」

 マリウスからの問い掛けに、思考の糸がプツリと切れる。アンナは手にしていた本の表紙をマリウスに向けた。

「詩集。わかりやすい文字が多いから覚えやすい」
「その著者、物語も書いてるよ。読んだ?」
「読んでない」
「物語のほうもわかりやすい言葉で書いてあるし、話の内容も良い」
「どんな話」
「僕らくらいの年頃の人間を主人公にしてて、友情とか……恋愛とか、悩みながら成長していく話だよ」
「友情と……恋愛……」
「恋愛ものは好きでよく読むんだ。……女みたいだって馬鹿にされるんだけどね」

 照れ臭そうに笑いながら、マリウスが言う。

「別に女みたいだなんて思わないけどな」
「よかったらアンナも読んでみてくれ」
「私には恋愛なんて関係ないから、マリウスのようには楽しめないと思うけど」
「……アンナには好きな人とかいないの?」

 マリウスの問いに、アンナは小さく肩をすぼめた。これまで一度も、他人に対して恋愛感情というものを抱いた記憶がない。

「そうか……でも、関係ないってことはないよ、きっと」
「……?」
「君はとても魅力的だ」
「……は?」
「君が好きにならなくても、君を好きになる人間はいるだろうから」

 にこりと笑うマリウスに、どう言葉を返せばいいのかわからない。魅力的などと言われたのは生まれて始めてで、アンナはただ戸惑うばかりだ。

「……そんなの言われたことない。だから……どう反応していいのかわからない……」

 弱々しい声で紡がれるアンナの言葉を聞いて、マリウスは一層目を細めた。

「正直なところも、君の魅力だよ」

 いよいよなんと言葉にしていいのかわからなくなり、アンナは俯く。
 もしかしたら顔が赤くなっているかもしれない。そう思ったら、さらに顔が上げにくかった。


「アンナ」

 自分の名前を呼ぶ声は、マリウスのそれではない。
 顔を上げると、通路の向こうからやってきたリヴァイが目の前で立ち止まった。彼の後ろにはハンジの姿もある。

「話がある。後で俺の部屋に来い」

 リヴァイはそれだけを言い残し、その場を去っていく。いつもより不機嫌そうだったのは気のせいだろうか。
 すれ違いざま、ハンジが笑みを浮かべて意味ありげな視線をアンナに送る。ハンジがなにを伝えたかったのか、アンナは理解できず首をかしげるばかりだった。





「では、会議はここまでにしよう」

 エルヴィンの声が会議室に響いた頃、外はすっかり闇に包まれていた。
 午前中から始めた会議ではあったものの、予算や人員不足問題、次回の壁外調査に関する事項などを話し合っているうち、いつのまにか時間が流れていた。
 リヴァイは窓の外に目を向けながら、同じ姿勢でいたせいで凝り固まった肩を鳴らす。
 つくづく自分は会議には向かない。巨人相手に飛び回っているほうが性に合っていると、リヴァイはそう思っている。


「リヴァイ……次回の壁外調査の日程も決まったことだ。次はアンナを出すのだろう?」

 エルヴィンからの問いに、リヴァイは頷く。

「そのつもりだ」
「彼女を全体訓練には参加させていないな?それで周囲との連携はとれるのか?」
「次回の遠征では俺の班に入れる。俺の目の届く範囲に置いて勝手な行動は抑える」

 壁外調査において、他の兵士たちとの連携は重要だ。だがリヴァイは、ひたすらアンナの個人技を伸ばす訓練を続けさせた。周りとの連携を疎かにしてでも、アンナ自身の力を伸ばすことが戦力に繋がると、リヴァイは確信している。周囲との連携は実戦で覚えさせていけばいい。

「次回の壁外調査への参加も、君が彼女に伝えてくれ」

 エルヴィンはそう言って、会議室を後にした。リヴァイが続いて立ち上がり、彼の後にハンジが続く。

「知らなかったなぁ。あなたがそんなに熱血だなんて」

 ハンジの声に含まれる揶揄に、リヴァイは眉を潜める。

「……どういう意味だ」
「アンナのことに決まってるだろ?憲兵から隠したり、付きっきりで訓練したり」
「……」
「それだけの能力があるんだってことはわかるんだけど……壁外に出すことを躊躇したりしないのかい?」
「なに言ってやがる……あのガキを巨人と戦わせなくてなんの意味があるってんだ」
「そりゃそうだろうけど……あれだけ長い時間一緒にいるんだ。情が移ったりもするだろ?」

 ハンジの問いには答えない。無視するなよ、というハンジの呟きを耳にしながら、リヴァイはふと足を止めた。
 リヴァイの視線の先に、アンナの姿がある。アンナはひとりではなく、兵士と言葉を交わしている。あの兵士はたしかマリウスという名前だった。アンナを地下牢に閉じ込めた際、見張りをするよう命令していたことをリヴァイは思い出していた。

「アンナと……マリウスだっけ。あのふたり仲良いんだ」

 リヴァイの見ているものと同じものに視線を向け、ハンジが呟いた。
 アンナとマリウスは、いまだリヴァイとハンジの存在に気付いていないようだ。
 ふたりが交わす言葉はリヴァイの耳には届かない。だが、いつもは仏頂面を顔に張り付かせているアンナが、珍しく戸惑っている様子だけは見てとれる。
 そわそわと視線をさ迷わせながら俯くアンナ。その頬が僅かながらに紅潮しているのは、気のせいではないだろう。
 アンナのあんな表情は初めて見る。アンナは常に感情の読めない顔と抑揚を欠いた声で自分と対するばかりだと、リヴァイはそんなことを考えていた。


「……嫉妬かい?リヴァイ」

 ハンジがリヴァイの顔を覗き込む。その口許に浮かんだ笑みに、リヴァイの苛立ちが募る。

「ふざけたことばかり言いやがって……嫉妬なんかしてたまるか」
「そんなこと言うけど、ここに皺ができてるよ」

 ハンジは自分の眉間を人差し指で押さえながら言った。
 リヴァイの眉間の皺が、ますます深くなる。そんな彼を見て、ハンジはくつくつと笑う。

「……くだらねぇな」

 なおも笑いの止まぬハンジに構うことなく、リヴァイは歩き始めた。足音に気付いたマリウスが視線をリヴァイに向ける。慌てて敬礼をするマリウス。

「アンナ」

 名前を呼ばれ、アンナは顔を上げた。彼女の顔にはまだほんのりと赤みが差している。

「話がある。後で俺の部屋に来い」

 人の気配に敏感に反応するアンナが、声を掛けるまで自分の存在に気付かなかった。
 腑抜けた面しやがって。リヴァイは内心毒づきながらも、アンナに苛立ちをぶつける訳にもいかないと自制心を働かせる。アンナの反応に対して苛立っていることを、彼自身うまく受け入れることができていない。

 リヴァイは足早にその場を離れた。まるでなにかから逃げているようだと、自嘲的な気分になりながら。



「話ってなに」

 アンナがリヴァイの部屋を訪れたのは、それからまもなくのことだった。
 ノックもなしに入室するアンナ。何度言ってもきかないので、リヴァイは注意することすら諦めている。
 もっとも、リヴァイ自身もアンナの部屋を訪れる際にノックをしない。最初のうちこそ不服そうにしていたアンナだったが、彼女もまた諦めたのだろう。リヴァイが突然ドアを開けても、眉ひとつ動かさなくなった。

 今目の前に佇むアンナは、見慣れた仏頂面をさげている。先ほど廊下で目にした戸惑いの表情は、すっかり影を潜めていた。


「……次回の壁外調査が決まった」
「私も行くの」
「そうだ」

 アンナは頷いた。目に宿る光。臆する様子は全くない。

「……お前はまだ正式に調査兵団に所属しているわけじゃない」
「……」
「自分で決めろ。お前の命を賭けるかどうか」

 巨人と対峙することは、自分の命を危険に晒さざるを得ない。
 地下街から強制的に連れてきたとはいえ、自らが命を掛けることを決断しなければならない。壁外から一歩外に出れば、生半可な覚悟で戦い続けることができるような世界はないからだ。
 アンナ自身が決め、進まなければならない。残酷で無慈悲な世界を。


「……くだらない質問だな、リヴァイ」

 静かに、力強く、アンナは口を開いた。

「リヴァイに従うと決めたのは私。でも、それはリヴァイの力に屈したからじゃない……自分が望んだからだ」
「……」
「命を掛ける覚悟はある。誰でもない、自分のために」

 闘志をみなぎらせた瞳が、真っ直ぐリヴァイに向けられていた。