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♦ 848年。ウォール・マリア内に隊列を組んで馬を駆けさせる調査兵団の姿があった。 トロスト区から出発し、既に数時間経過していた。目標とした地域に達するまで、まだ幾分か距離がある。 目標地点へと進んでいる間にも複数の巨人と遭遇した彼らの隊列は、やや乱れていた。 「兵長!右方向より巨人接近中!奇行種かと思われます!」 そう叫んだのはリヴァイの右後方を駆ける兵士だった。隊列が乱れ、索敵が上手く機能していない。 リヴァイ率いる小隊は前衛の班が黒煙弾を発したのを確認し、その増援に向かっているところだった。右側の班が戦闘不能になったのだろう。右方向より現れた奇行種をここで食い止めなければならない。 リヴァイは馬に揺られながら、正面の上空を見上げた。再び黒い煙弾が上がっている。 「私がいく」 静かな声が、馬の蹄の音に紛れて響いた。 リヴァイは左後方に視線を向ける。しかし声の主――アンナは、既にリヴァイの隣に並び、あっという間に小隊の先頭に躍り出ていた。 呼びとめる間さえ与えず、アンナは右方向から現れた奇行種目掛けて駆けだしていく。リヴァイは小さくなっていくアンナの背中を黙って見つめていた。 「アンナひとりで大丈夫ですか?自分が補佐に――」 右後方を駆ける兵士が隊列を離れようとするのを、リヴァイは手で制した。 「俺たちはこのまま前の隊の救援に向かう。真っ直ぐ進め」 連発される黒い煙弾。前方の班は厳しい状況に追い込まれているのだろう。 一刻を争う事態を前に、必要以上に戦力を削ることはできない。しかし突如現れた奇行種を捨て置くことができないのも事実。奇行種をここで食い止めなければ、他の班との接触は免れないだろう。 巨人1体を仕留めるのに補佐役と討伐役、最低でも2人がかりで挑まねばならない。今の状況で戦力を分散させることは惜しかった。それはアンナも理解していたのだろう。 必要最低限の戦力で目前の奇行種を仕留めるため、アンナはひとり巨人に向かっていったのだ。 「……さすが……!」 感嘆の声を漏らしたのはアンナの補佐に向かうと主張した兵士だ。 兵士の視界に映っているのは、リヴァイが見ているのと同じ光景だろう。巨人の後方に回り込んだアンナが、瞬時にうなじの肉を削ぎ落とす。 立体機動の巧みさ、巨人の肉を削る技術。アンナと同等の動きができる兵士はそう多くない。 当のアンナはといえば、相も変わらぬ仏頂面で倒したばかりの巨人を見下ろしている。感情の読み取れない、冷静な瞳。 リヴァイは視線を正面に戻す。前方の班は巨人数体に囲まれているが、生存者の姿がある。アンナの判断は正しかった。まだ救える命がある。 リヴァイはグリップに刀身を装着させ、トリガーにかけた指に力を込めた。 〇 「リヴァイ、この後すぐ報告会だって」 壁外調査から戻ったばかりのリヴァイを待っていたのは会議だった。休養など、そうやすやすと手に入るものではない。もはや慣れきってしまったこの流れに、不平を漏らす気も起きない。声を掛けたハンジに「すぐに行く」と返し、会議室へと足を進めた。 兵舎の廊下から、訓練場が見える。リヴァイは日の暮れた訓練場に人影があることに気付き、足を止めた。 小さな影が木の間を縫うように飛び回る。暗がりで顔は判別できないが、壁外調査の後で精神的にも肉体的にも疲弊しきっている兵士が多いなか、まだ動きまわれる人物などひとりしか思い浮かばない。 「オイ」 リヴァイは近くを通りかかった兵士を呼びとめた。リヴァイに声を掛けられ、兵士は姿勢を正す。 「会議が終わった後で話があるとアンナに伝えておけ」 「アンナ……自室でしょうか?」 「いや……訓練場だ」 リヴァイは再び窓の外に目を向けた。 遠目にもわかるアンナの立体機動のうまさ。速度を保ったまま障害物の間をすり抜けていく姿は、目に見えぬ翼を持っているようだった。なりふり構わずに力強く振るわれる剣が、時折きらりと光って見えた。 まるで、見えない敵と戦っているようだと、リヴァイは思う。 寸でのところで障害物を避けるその姿は、一見すると高い技術によるものにも見える。しかしリヴァイの目には、アンナの動きは危うさを孕んでいるように見えた。 ぶつかって、体を傷付けようとも構わない。そんな、どこか投げやりな動きに見えるのは、気のせいなのだろうか。 飛び回るアンナに一瞥くれ、リヴァイは会議室へと向かう。 会議が終わったのは夜が最も深い時刻だった。兵士の殆んどが休んでいるのだろう。静まり返った薄暗い兵舎内の廊下に響くのは、リヴァイ自身の足音だけだ。 自室のドアの前で、リヴァイは暫し足許を見下ろした。 誰もいないはずの部屋。ドアと床の僅かな隙間から灯りが漏れている。 リヴァイはため息を漏らし、ドアを押し開ける。無断で部屋に入るなんて、心当たりはひとりしかいない。 リヴァイが予想した通り、室内にはアンナの姿があった。備え付けられたソファの上で仰向けになっている。 リヴァイが戻ったことにも気付いていないのか、アンナは身動きひとつしない。彼女が真剣な表情で見つめているのは分厚い本だ。すりきれた表紙に『病』という文字があるのが見てとれる。どうやら医術関係の本らしい。 「……風呂には入ってる」 パタンという音をたてて、本が閉じられる。 ――汚ねぇままソファに上がるな。リヴァイがそう言おうとしていたことを見透かしていたらしいアンナ。リヴァイが机に腰を下ろすと同時に、ソファから立ち上がる。 「お前が読んでるのは医術書だろう……どこから持ってきやがった」 「医務室。許可はとってある」 「読めるのか」 「専門用語は全然わからない。後で医者かハンジに聞く」 アンナに読み書きを始めさせたのは、巨人に関する知識や壁外での行動作戦など、実践で必要とされる知識を植え付けるためだった。 必要な知識を持った今も、アンナは暇さえあれば片手に本を抱えている。彼女にとっては数少ない娯楽なのかもしれない。専門的な書物はともかく、一般的な物語なら読むことに然程苦労することもないようだった。 だが、読み書きができるようになったからといって喋る言葉に大きな変化はなく、相変わらず抑揚を欠いた口調と、上官に対するものとは思えない言葉使いをする。 リヴァイは慣れきってしまって、今さら正す気にもならない。 「話ってなに」 仏頂面を下げ、アンナが言う。 「……なぜ命令をきかなかった」 「……?」 「前方の班の救援に向かっていた時だ」 「ああ、奇行種の」 「俺が命令を下す前に行動を起こした理由だ」 リヴァイは厳しい目でアンナを見た。 アンナが直属の上官であるリヴァイの判断をきかずに行動を起こしたのは、もう数度目になる。 「リヴァイなら、私ひとりで奇行種を倒すよう命令すると思ったから」 間違っていたのなら謝る。堂々と、アンナはそう言葉を続けた。リヴァイは言葉を返さない。 アンナの言う通りだ。優先されるべきは前方の班の救援。そんななか突如現れた奇行種を見過ごす訳にもいかず、確実に倒すことができるアンナにひとりで向かわせるつもりだったのだ。 「話ってそれだけか」 「……アンナ」 「なに」 「お前、訓練場にいたな」 「……そうだけど……それがなに?」 「投げやりな動きは止めろ。訓練で怪我をして壁外に出られねぇなんて笑い話にもならねぇ」 仏頂面だったアンナの表情に、僅かな変化があった。ほんの一瞬顔が強張ったのを、リヴァイは見逃さない。 しかし次の瞬間には、先ほどまでの仏頂面に戻っている。 「……べつに投げやりなつもりはない。投げやりに見えたのは、力んでいたからだろう」 「……」 「だいたい、訓練中に怪我なんてしない」 「その油断が本番で出ないといいな……クソガキ」 「訓練中から油断なんてしてない。それと、クソガキって呼ぶな。私はもうガキじゃない」 ムッとした様子のアンナ。そういうところがガキ臭いということに気付かないのだろうか。リヴァイは言葉にすることなく、胸のうちだけで呟いた。 アンナが調査兵団に入団してから、2年の月日が流れた。壁外調査も何度か行われ、確実に成果をあげてきたアンナ。 生まれ持った身体能力を存分に生かした立体機動と、重ねられた経験に基づく思考。そして、感情に流されることなく下す、冷静な判断。 調査兵団内においても、アンナは戦力として大いに評価されている。 成長の兆しを見せ始めたのは、アンナにとって初めての壁外調査の後だった。 アンナは初めての壁外調査に赴いた際、親しくしていた兵士を目の前で食い殺されている。 あの時見せたアンナの感情の高ぶり。仲間を失ったことに対する喪失感と無力感は、リヴァイもよく知っているものだった。 知っているからこそ、乗り越えさせなければならないと思った。調査兵団に身をおく限り、死は常に隣り合わせだからだ。 アンナはアンナなりの、仲間の死との向き合いかたを見つけたようだった。仲間の死を前に、感情に任せて自分勝手な行動をとることも、悲しみに打ちひしがれるようなこともない。それでも、感情を切り捨てたわけではないだろう。 切り捨てられる訳がない。どれだけ冷静であろうと、無表情で巨人を倒していようと、アンナのなかで感情が消えてなくなったわけではないのだ。 「無茶な訓練はやめろ。いいな?」 「……無茶じゃない」 「兵団全体を考えろ。お前が壁外遠征に出れないとなれば、戦力は削られる」 「……」 リヴァイの言葉に、アンナは言葉を返せずにいる。 アンナ自身も、理解しているのだ。兵団にとって、欠けることのできない戦力になったということを。 2年前、地下街で初めてアンナの力を目にした時、リヴァイは確信した。アンナは必ず、調査兵団の大きな戦力になる、と。 そしてアンナはリヴァイの予想通り――予想以上に大きく成長し、優秀な兵士になったのだ。 そう簡単に失われることがあってたまるか。リヴァイはアンナの顔を見ながら、そう考えていた。 |