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♢ 衿を掴まれ、身動きできない。 訓練場でつくったばかりの真新しい傷を目にして、リヴァイがアンナを睨んだ。ますます眉間の皺が深くなる。 どうしてこの男はこんなにも目敏いのだろう。内心そんなことを考えながら、アンナはリヴァイの目をまっすぐ見返した。絶対に、目を逸らしてはいけない。 『……アンナよ』 不意に、リヴァイが自分の名前を紡ぐ。 声は幾分か柔らかく、目からは厳しさが抜けていた。 リヴァイが、すぐ近くにいる。腕を伸ばせば、触れられる距離に。 肩に顔を預けて泣き出してしまったら、リヴァイはどうするだろう。アンナはリヴァイの瞳を見返しながら、そんなことを思った。 リヴァイのことだ。身動きひとつとらぬまま、何も言わずに私が泣き止むのを待ってくれるかもしれない。泣き止んだ後は不機嫌そうな顔で、何事もなかったかのように言葉を紡ぐ。 泣き叫んでしまおうか。 命が消えていく瞬間を目にする度に感じる無力感を、これから先もそれらと向き合っていかなければならない恐怖を、泣きながら吐き出してしまえばいい。 リヴァイの瞳を見つめていると、自分の身体のなかに積った感情を全部吐き出してしまいたい衝動に駆られる。 それでも、と、泣き叫びたい衝動の裏側にいる冷静なアンナが、自らに語り掛ける。 どれだけの苦しみや悲しみを抱えても、泣かないと決めたのは他でもない私自身だ。 部下の命の重みをなにより大事にしているリヴァイが涙を流さないのに、私だけ泣くわけにはいかない。 強くなると決めたのだ。死んでいった兵士たちの願いを実現するため、リヴァイのように強くなると、そう決めたのだから。 「――オイ」 声をかけられ、顔を上げた。つい先ほどおこった出来事を頭の中から追い払う。 ベッドに腰を下ろしたアンナを見下ろすリヴァイの手には、小瓶がある。取りにいくと言っていた薬だろう。差し出された小さな瓶を、片手で受け取る。 薬を手渡し、そのまま部屋を出ていくのだろうとばかり思っていたが、リヴァイはアンナの正面に位置する壁に背を預けたまま、じっと彼女を見つめている。 どうやら薬を付けるところまで確認しないと気がすまないらしい。そう悟ったアンナはわざとらしいため息をこぼし、赤くなった肩に薬を塗り込む。 「……アンナ」 瓶の蓋を閉じようと、手を伸ばしかけた瞬間リヴァイに名を呼ばれ、アンナは彼を見た。 「明日からは全体訓練以外で立体機動を使うな」 「……自主訓練は禁止か」 「当たり前だ。命令に背いて怪我までしやがって」 「自主訓練をしないで、私が弱くなったらどうしてくれる」 「お前が弱った分は、俺がカバーする……まあ、数日訓練をしなかっただけでお前の力が減るとは思わねぇが……」 「……」 「命令に従え。わかったな」 鋭い視線を向けられ、返す言葉を見付けられないアンナは、黙ったまま頷いた。 歯向かう様子を見せないアンナを前に、リヴァイの目の鋭さが和らぐ。 「……さっさと休め。命令だ」 薬の瓶をアンナの手から抜き取り、リヴァイは部屋を後にした。 パタンと、小さな音をたてて閉じられるドア。 「……薬くらい、自分で医務室に戻す……」 そっと呟かれたアンナの言葉は、ひとりきりの部屋に静かに溶けていった。 翌朝、アンナは身支度を整え食堂へ向かった。食堂には既に多くの兵士たちが席についている。 朝食を受け取り、空いている席に腰を下ろす。正面にいた兵士から「おはようアンナ」と声を掛けられ、顔を上げる。何度か同じ班として遠征を共にしたことのある兵士だった。アンナも同じように「おはよう」と言葉を返す。 「……もうすぐ休暇だけど、アンナはどうする?」 暫し食事に集中した後、兵士が声を掛けてくる。 なぜだか落ち着きがなく、視線をさ迷わせる兵士に違和感を覚えるアンナだったが、素知らぬふりで会話を続けた。 「私は訓練するだけ」 帰る家はとうにない。帰りを待っているような家族もいない。他の兵士たちが心待ちにしている休暇も、アンナにとってはいつもと変わらぬ1日に過ぎない。そう思ったところで、ふと気付く。 「……訓練……禁止されてた……」 ぽつりと呟かれた言葉に、正面に座る兵士は不思議そうな顔をした。 リヴァイの鋭い視線を思い出し、アンナは小さくため息を吐く。再び命令に背くようなことがあれば、睨まれるだけではすまないかもしれない。 「アンナ……休暇はリヴァイ兵長と一緒に過ごすんじゃないのか?」 「は?」 おずおずと、遠慮しがちに訊ねる兵士に向かって、訝しげな視線を投げるアンナ。そんな彼女の反応に、兵士は慌てて目を背けた。 「いや……昨日の夜アンナの部屋から兵長が出てくるのを見かけた奴がいて……その……」 顔色を伺うように、ちらりと視線を向けてくる兵士に、アンナは肩をすくめる仕草をしてみせる。 「リヴァイと私はそんなんじゃない」 「……でも……」 調査兵団に入団して以来、周囲の兵士たちの間で時折こうした誤解が生じている。リヴァイと共にいる時間が長いせいか、彼とどうこうなるだなんていう勘違いをされるのだ。 当初はそんな話を耳にする度に腹を立てていたが、何度も経験すれば馴れてくる。なにより、同じ兵団の兵士と軋轢を生むことをアンナ自身望んでいない。 「リヴァイと私は上司と部下。それだけ」 「………」 「だいたい、リヴァイは部下に手を出すような人間じゃない」 調査兵団に入る為にリヴァイと関係をもったと言われたこともあった。リヴァイの直属の部下であるのも、特別な関係だからだと噂されたこともある。 身体を使っているだとか、自分が下卑た妄想をされることは許せても、リヴァイまでがその対象になるのは我慢できない。 この2年間にリヴァイとアンナの間で培われたのは、共に戦う兵士としての信頼関係だけだと、そう思っている。 「……部下に手を出したことはあるの」 「なんなんだてめぇは……いきなり」 朝食を終え、アンナはリヴァイの部屋を訪れていた。 備え付けられたソファに腰を下ろし、机で作業を続けるリヴァイを見つめながら問いかける。問われたリヴァイはと言えば、不機嫌そうな顔に眉間の皺をますます深め、訝しげな目でアンナを見た。 「部下とセックスしたことがあるか聞いてる」 「……」 「あるのか」 「……なんでてめぇにそんなこと教えなきゃならねぇんだ」 「私の名誉のため。嘘つきにはなりたくない」 食堂で交わした兵士との会話のなか、『リヴァイは部下に手を出すような人間じゃない』と宣言したはいいものの、それが事実かどうかアンナは知らない。 確かに、自分に対してリヴァイは手を出すような真似はしないだろう。しかし、自分が知らないところで ――もしくは、自分が調査兵団に入るより以前に――リヴァイが部下と関係をもっていたら? だとしたら、私は嘘をついたことになってしまう。もしリヴァイが部下と関係をもっていたとしたら、『リヴァイは部下に手を出す人間だ』と訂正しなければならない。 「あるのか。部下とセックスしたことが」 「……」 「リヴァイ」 じっと見据えるアンナの視線に、リヴァイは大きく息を吐き出した。 「……ねぇよ」 「ならよかった。私は嘘つきにならずにすむ」 アンナはひとつ頷いて、席を立とうと腰を浮かしかける。が、ふと思い止め、再びソファに深く座り直すと、じっとリヴァイを見つめた。 アンナが退室するとばかり思っていたのだろうリヴァイは、訝しげな目を彼女に向けた。 「なんだ……まだ用があるのか」 「……」 リヴァイの言葉に答えずに、アンナは思考に耽っていた。 「……リヴァイはどうしてるんだ」 「なにがだ」 「性欲。溜まったりするものなんだろう」 「……」 アンナの言葉に、リヴァイから返答はない。怒っているような、呆れているような、複雑な顔をしているだけだった。 「他の兵士たちが女を買いに行ったりしてるのは知ってるけど……リヴァイも女を買ったりするのか」 アンナの知る限り、リヴァイに女の気配はない。兵団内の女とどうこうしている様子もないし、休暇のたびに街に出るようなこともない。 もっとも、あくまでも自分の知る限りでは、だ。1日中リヴァイに張り付いているわけではないのだ。アンナの知らないところで女を抱いているのかもしれない。 「……見ず知らずの女を抱く趣味はねぇよ」 「……ふぅん……」 「……」 「リヴァイは――」 「なんだ」 「リヴァイは男が好きなのか」 リヴァイの鋭い視線がアンナに向けられる。明らかに苛立ちを含んだその目に、アンナは肩をすくめる仕草をしながら、怯むことなく言葉を続けた。 「女がいる様子もない」 「……」 人類最強。そう呼ばれ、兵士から羨望の眼差しを向けられるリヴァイ。女兵士の中には、兵士としての憧れを越えた気持ちを抱いている者も少なくないことは、アンナも知っている。その気になれば、女にも不自由することなどないだろう。 リヴァイは黙ったまま不機嫌な表情を崩さない。 「まあ……リヴァイが男好きだろうが勃起不全だろうが、私には関係ないことだ」 アンナがそう言葉にした瞬間、リヴァイが僅かに顔を歪めた。それはごく些細な変化で、気付いたアンナでさえも、気のせいだったのではと思いながら、まじまじと彼の顔を見つめていた。 「……不全なのか」 ♦ 何故コイツは妙なところで勘が冴えるのだろうか。 リヴァイは目の前にいるアンナの顔を見つめながら、そんなことを思った。 アンナの口から勃起不全という言葉が出てきたことに、リヴァイは少なからず動揺していた。 誰にも話したことはない。ならば何故アンナは知っているのだろうかという驚きと疑問が、リヴァイの表情に僅かな変化として現れた。 「……不全なのか」 ぼそりと呟かれた台詞は、疑問でもなんでもないようだった。不全であるという事実をひとりで確認している。そんな口ぶりだ。 「いつから」 ソファに腰を落ち着けたアンナが、まっすぐな目をしてリヴァイを見つめている。 さっさと退がれ。部屋訪れるなり、『部下とセックスをしたことがあるのか』などと口にするアンナに対し、内心で何度も呟いた言葉がいよいよ口から漏れそうになる。 しかし口にしてみたところで大人しく引き下がる人間ではない。自分が納得できなければ、行動に移すことはしない。アンナがそういう、融通のきかない人間であることはリヴァイ自身が1番理解しているのだ。 「最後に勃起したのはいつ」 「……」 「一度も勃起したことがない?」 なぜお前にそんなことを話さなきゃならねぇんだ。 じろりと睨んだ視線の先で、アンナは生真面目な顔をしている。 「もしかして、調査兵団に入ったころじゃないのか」 淡々とした口調は、こちらの内心への気遣いもなにも感じられない。まあ、気遣われても気持ち悪いだけだが。 リヴァイはひとつため息を吐いた。アンナはその間も、じっとリヴァイの言葉を待ち続けている。 「……そんなに細かく覚えてねぇよ」 「そう」 「ああ」 思えば、随分昔のことのように感じる。あれは、調査兵団に入って少し経った頃だ。 そういう雰囲気になった女がいた。特別な感情は抱いていなかったが、相手からは自分に対する好意が伺えた。 兵団に入ってからは女の肌に触れていなかったから、それこそ溜まってもいたのだと思う。 服を脱がし、肌に触れる。女の口からは甘い吐息が漏れていた。 組み敷かれ、快感を得ていく女を見下ろしながら、自分自身がその行為に興奮を覚えていないことに、リヴァイは気付いていた。 疲れているだけなのだろう。その時はそう思っただけだった。しかしその後も何度か巡ってきた機会の中で、彼が性的興奮を覚えたことは1度もなかった。 「勃起不全の原因には、精神的な苦痛というのもある」 「……俺がそうだと言いてぇのか……そんなヤワな精神してたら、巨人相手に飛び回ってねぇだろうな」 「さあ……精神的苦痛というのは、自覚がない場合が多い……らしい」 「らしい?」 「医術書にそう書いてあった」 「チッ……余計なこと覚えてやがって」 忌々しげに呟くリヴァイの台詞など意にも返さずといった様子で、アンナは小さく肩をすくめた。 「……完璧な人間なんて存在しない」 「あ?」 「何かに優れていれば、何かは欠けているってこと。これも、本に書いてあった。……架空の物語だけど」 「なんだそりゃあ……慰めのつもりか?」 「慰めるわけないだろう。ただ私は、リヴァイの戦闘力から考えてみれば、欠けたのが勃起機能だけだなんて軽いなと思っただけ」 「……」 ふざけているのか馬鹿にしているのか。真顔でじっとこちらを見つめ続けるアンナに対し、リヴァイはどう言葉を返せばいいのかわからない。 「子供が欲しいだとかセックスしたい女がいるだとか、そういう願望がリヴァイにあるなら同情するかもしれないけど」 「……ねぇな」 「なら慰めは必要ないし、同情もしない」 リヴァイの言葉を聞いたアンナは、納得したようにひとつ頷き、立ち上がった。 自身に起こった変化に気付いた時、自分でも不思議に思うほど落ち着いていたことを、リヴァイはアンナの背中を見ながら思い出していた。 焦りはなかった。別に構わないと、そんな風に思っていた。 自分の血を分ける存在など、想像しようもなかった。性欲とはまた違うところで体を触れ合わせたいと思うような存在も、できないだろうと思っていた。いつ消えるともしれない命の前では、そんなものは自分と関わりのないものだと、あの頃すでにそう思っていたからだ。 「……アンナ」 ドアノブに触れたアンナの背中に声をかけた。ゆっくり振り返ったアンナの目が、リヴァイに向けられる。 「なに」 「……お前はなんだ」 「なにが」 「その戦闘力の代わりに欠けてるもの、だ」 リヴァイが問いかけると、アンナは目を見開いた。問われた内容が意外だったのだろうか。珍しく驚きを露わにする。彼女のそんな反応が、リヴァイにとってはまた驚きであった。 「……さあ……なんだろう」 暫しの時間黙考した後、ようやく口から出たアンナの言葉に、リヴァイは思わずため息を漏らした。 「てめぇはあれだけ偉そうなこと言っといて……自分は完璧な人間だとでも?」 「完璧だなんて言ってない。欠けてる部分がなんなのか、わからなかっただけ」 「はっ……お前の欠点なんざ、いくらでもあるだろう」 「なに、私の欠点」 「口のききかたがなってねぇ……愛想もなければ目付きも悪い」 「ああ、確かに。……でも、それはリヴァイと同じだ。口も目付きも悪い」 「余計な言葉が多いのもお前の欠点だな……まあ、お前の戦闘力を考えれば、軽すぎる欠点だが……」 リヴァイが言うと、アンナは一層目を大きく見開いた。 今日は随分と見慣れない表情ばかりするな。リヴァイがそう思ったのと同時に、アンナが再び口を開く。 「そういえば、リヴァイと似たような欠点がもう一個ある。私は欠点だと思ったことないけど」 「……?」 「生理が来ない」 「……」 「子供を産みたいとは思わないし、必要ない。戦えなくなるから」 「……そうか」 「ああ」 アンナの目を見つめると、それはまっすにリヴァイを見返していた。 嘘も虚勢もない、真摯な目がそこにある。彼女の言葉は、全て本当のことなのだろう。 「……それでも、お前の戦闘力を考えれば軽すぎる欠点だな」 リヴァイがそう言葉にすると、アンナは微かに目を細めた。それが彼女の微笑みだと気付くのに、リヴァイは数秒を有してしまう。 気付いた頃には、アンナはすでに開いたドアの隙間から向こう側へと姿を消していた。 |