「リヴァイ、見て」

 アンナはリヴァイの部屋のドアを開けるなりシャツの前をはだけた。
 アンナの突然の奇行にリヴァイは眉根を寄せる。

「怪我は治った。自主訓練、再開してもいい?」

 はだけたシャツの衿元を大きく広げ、リヴァイに向けて肩を見せる。数日前の自主訓練中にぶつけた肩の痣は消え、つるりとして白い。
 リヴァイは僅に目を細めた。

「許可はするが……前に言ったことは守れ」
「わかってる。もう投げやりな動きはしない」

 アンナは踵を返しドアへと向かう。ドアノブに手を掛けたところで「アンナ」と、リヴァイに呼び止められ、振り向いた。

「今から訓練場に出るつもりか」

 装備した立体機動にちらと視線を向け、リヴァイが言う。

「そうだけど」
「お前の目は何を見てんだ……この天候でまともな訓練ができるわけねぇだろう」

 厳しい顔をしたリヴァイを通り越し、アンナの視線は彼の背後にある窓へ向けられる。
 窓には大粒の雨が打ち付けている。吹き続ける風がごうごうと唸り、ガタガタとガラスを揺らしていた。

「このくらい問題無い」
「この風だ……アンカーが照準とずれるだろう」
「やってみて駄目だったらやめる」

 それだけ言って、アンナはリヴァイの部屋を後にした。その足で兵舎を出て、訓練場へ向かう。外に出ると、荒々しく吹く風と強い雨がアンナの身体をずぶ濡れにした。マントを身につけていないアンナは、雨の冷たさを直に感じる。しかし訓練を控えるつもりはない。
 アンナはトリガーを握り、アンカーを大木に突き刺した。身体が地上を離れるその瞬間、ぶるりと小さく身震いを起こした。


 翌日、アンナは再び訓練場にいた。
 昨夜の雨が嘘のように朝から晴れ渡っている。にもかかわらず、訓練場の土は含んだ水分を持て余し、足を乗せただけで沈み込みそうなほどぬかるんでいる。
 気を抜くと転びかねない悪環境で全体訓練が始まった。

 立体機動演習場では多くの兵士が飛び交っている。
 広さの限られた演習場では兵士全員が訓練を行うことは不可能だ。故に組み分けをし、ローテーションで演習場を使用する。待機組は体力強化の運動や対人格闘術の訓練に励むかたちになっている。
 アンナは対人格闘技の訓練を行っていた。
 2人1組になり、相手を組み伏せることで決着をつける。決着がつけば相手を変え、上官から終了の合図があるまでくり返す。

 バシャッと泥を跳ねあげて、アンナの訓練相手は地面に背を着けた。
 泥だらけになった背中を撫でる兵士に向かい、手を差し出すアンナ。相手ははにかんだ笑みを浮かべて彼女の手を取った。
 この場にいる兵士のほとんどが何度か相手を変えている。皆少なくとも一回は組み伏せられているようで、兵服を泥で汚していた。

「流石だね、アンナ。まだ一度も負けてないんだろう?」

 声を掛けたのは対人格闘技監督役のハンジだった。ハンジは汚れのないアンナの兵服を眺めている。

「対人格闘技じゃ、アンナに勝てる奴なんてそういないかもね」
「それならハンジに相手をしてほしい」
「アハハ……ご指名は嬉しいけど、私でもあなたには勝てる気がしないなぁ」

 からからと笑いながらハンジはその場を後にし、他の兵士たちの訓練の模様を見て回る。
 そもそもハンジは監督役。訓練相手をすることはない。アンナにもそれはわかっていたが、少しでも強い相手と組んでみたいと思ったのも本心だった。強者を相手にすることで得られるものがあるからだ。
 しかしルールを破ってでも手に入れようとは思わない。自分が得られる側にならなくとも、自分と対峙した相手がなにか手にする事ができれば、この訓練の成果といえるだろう。アンナはそんな風に思いながら、新たな相手と向かい合う。


「オイ」

 目の前の相手だけを視界に捉え、集中しかけていたアンナ。そんな彼女の前に現れたのはリヴァイだった。彼はハンジと同様、訓練の監督役である。

「代われ」

 リヴァイはアンナの相手である兵士に声を掛け、彼女と向き合う形になる。

「……リヴァイが相手?」
「不満か?」

 リヴァイの問いに、アンナは首を横に振る。

「久しぶりだ」
「なにがだ」
「リヴァイと訓練するのが」

 地下街から調査兵団へ連れて来られたばかりの頃は、毎日のようにリヴァイが訓練の相手をしていた。早朝から日の暮れる時間まで、だ。
 しかし、アンナはいつしかひとりで訓練を行うようになっていたし、全体訓練にも参加するようになってからは、リヴァイとの訓練など一度もなかった。

 兵士長たるリヴァイが自分の訓練のために割いていた時間はとても貴重なものだっただろうと、入団してから2年の時が経った今、アンナは思う。
 リヴァイには多くの部下がおり、それらの指導も彼の仕事だ。リヴァイ自身の訓練もあっただろう。

 リヴァイの時間を割いてでも自分の訓練に当てられたそれは、彼の期待の現れだったのかもしれない。
 私の力が必ず兵団の役に立つのだと、リヴァイはそう思っていた――。

 自分でも気づかぬうちに、アンナは笑みを浮かべていた。自分の力を信じたリヴァイへの感謝と、彼と向かい合うことへの懐かしくも新しい感覚が、アンナを高揚させる。

「なに笑ってやがる」
「なんでもない。ただ、嬉しかっただけ」
「はっ……随分余裕だな。そんなツラは俺を組み伏せてからにしろ」
「うん、そうする」

 大きく頷いて、アンナは構える。いつ攻撃されても防げるように、いつでも攻撃を仕掛けられるように、腕を上げる。
 一方でリヴァイは構えない。ただじっとアンナを見据えている。一見油断しているように見えるリヴァイの姿は、しかしどうして隙がない。
 あの懐に飛び込めば、瞬く間にリヴァイの蹴りが襲いかかってくるであろうことは、想像に容易い。

 勝ちたい。組み伏せて、自分はこれだけ強くなったのだと、リヴァイに誇示してやりたい。
 リヴァイと向き合うアンナの頭の中には勝ちたいという強い思いとリヴァイの姿しかなかった。
 周囲の兵士たちが注目を集め、「どちらが勝つだろうか」などと囁いている声も、彼女の耳には届かない。

 互いを睨むようにして向かい合うアンナとリヴァイ。2人の間に流れる空気が緊張で張り詰め、周囲の囁き声も止んだ。

 静まり返った空気を揺さぶったのはアンナだった。
 ぬかるむ大地を勢いよく蹴り、即座にリヴァイとの間合いを詰める。
 リヴァイの衿元を掴み、そのまま彼の足を払う。力づくで地面に叩きつけるつもりだった。
 しかし足を振り上げたと同時、リヴァイの手がアンナの手首を掴む。
 掴まれた手首を捻るようにしながら引っ張られ、アンナは手を離してしまった。

 捻り上げられた手首は、通常動かすことが不可能な方向に曲げられようとしている。
 痛む手首を恐ろしい程の力で捻り上げながら、リヴァイはアンナの肩を押す。

 ここは足の力でこらえなければならない。そうわかってはいても、何故か思うように力が入らず、アンナはそのまま肩を地面に押し付けられる形になった。
 捻られていた手首の痛みが和らぐ。見上げれば、馬乗りになったリヴァイが自分を見下ろしていて、アンナはそこでようやく自分の敗北に気付いた。

「……アンナ」

 アンナとリヴァイの組合を見ていた兵士たちも、それぞれ訓練を再開したらしい。周囲にざわめきが戻るなか、リヴァイが静かに声を掛けた。

「……重いからのいてほしい」

 負けた悔しさから、アンナはつい恨みがましくリヴァイを見上げてしまう。そんなアンナの視線に構わず、リヴァイは無表情のまま身体を退けた。
 アンナが立ち上がってからも、リヴァイの視線が自分に向けられていることに気付いていた。
さっきもリヴァイは何か言いかけていたけれどあまりいい予感はせず、できれば何も聞きたくない。

 リヴァイの視線には気付かぬふりを決め込み、アンナは新たな相手と向かい合う。
 相手の兵士を組み伏せる頃には自分の身体に違和感を覚えていたのだが、この感覚にも気付かぬふりで、アンナは訓練を続けた。


 訓練を終えて自室に戻ったアンナは汚れを流し終えた後、すぐさま寝床に入った。
 いつもの彼女であれば、全体訓練の後はひとりで立体機動の訓練を行っていただろう。しかし、今のアンナにはそれができない。
 身体を襲う寒気と頭痛、節々の痛みが彼女の動きを押さえつけている。

 思えば、全体訓練の時から異変はあった。リヴァイに組み伏せられる直前、足の踏ん張りが効かなかった。思ったように力が入らず、あっさりと地に身体を着けてしまった。
 あの時は、たまたま力が入らなかっただけ。そんな風に思っていた。
 けれど時間が経つにつれ身体は重くなり、痛みを伴う頭は酷くぼんやりとしていて、まるで揺さぶられているようだ。

 この状態は、まずいかもしれない。そう思ったアンナはゆっくりと上体を起こし、ふらつく足でドアへと向かった。
 自分ひとりではこの状態をどうすることもできそうにない。とりあえず、医務室へ向かう判断した。

 廊下に出ると、流れる空気が室内よりも冷たいように感じた。身体の芯からぶるりと震えながら、壁伝いに一歩一歩足を進める。
 いつもならなんてことない距離が、今のアンナには果てし無く遠く思えた。
 現在は夕食の時刻であり、兵士は皆食堂に詰めている。しんと静まり返った廊下を振り返ると、自室のドアが見える。すでにかなりの距離を歩いていたつもりだったアンナは、自分の歩みの遅さに愕然とした。
 医務室までの道程が途方もなく感じたと同時に、脳がぐらりと大きく揺れ、内臓の中のものを吐き出してしまいそうな感覚に襲われる。
 立っていることすら困難になり、アンナは壁に寄り掛かりながら、ずるりと床に腰を落とした。


♦︎


 アンナの様子がおかしいことに気付いたのは、対人格闘技の訓練中だった。次々に相手の兵士を組み伏せてゆくアンナを見ながら、リヴァイは僅かに違和感を覚えた。

 わざと力を抜いているようには見えない。だが身体の軸が不安定で、いつものアンナからは感じられない危うさのようなものがあった。

 違和感の正体を確かめるべく、アンナと向かい合った。
 リヴァイの内心など知らぬアンナは、彼と向かい合うと嬉しそうな笑みをこぼした。

 実際に彼女と組み合ってみれば、その踏ん張りのなさにリヴァイの方が驚いた。いつものアンナならば、こんなに簡単に倒れはしなかっただろう。

 体調が悪いのだろう。そう口にしようとしたリヴァイを避けるようにして、アンナは別の相手と訓練を再開した。

 本人の自覚の有無はわからないが、訓練を続けられるようであれば問題ないのだろう。そう思ってはいたものの、夕食の時刻に食堂に姿を表さないところを見ると、アンナの体調は芳しくないのかもしれない。

 早々に食事を済ませ、リヴァイは食堂を出るとその足でアンナの部屋へ向かった。途中、廊下の窓から訓練場を見やるが、そこにも彼女の姿はない。
 アンナは、多少の怪我や悪天候にはかまわず自主訓練を行う。そんな彼女の姿が訓練場にもないことに、珍しいこともあるものだと、リヴァイはそんな風に思っていた。


 アンナの部屋が近付いたところで、リヴァイは廊下にうずくまる人影に気付いた。
 オイ、とその背に向かって声を掛けてみるも、反応はない。リヴァイはそこで、うずくまる人影がアンナであることに気付き、足早に彼女の側に歩み寄った。

「オイ、アンナ」

 アンナの隣にしゃがみ、彼女の顔を覗き込む。
 青白い顔をしたアンナの目は閉じられており、額には薄っすら汗が滲んでいた。苦痛に耐えるかのように眉間に皺を寄せ、半開きになった口元からは、ぜえぜえという呼吸音が漏れている。

 リヴァイはアンナの腕をとり、自分の肩に回す。なるべく彼女に負荷をかけないよう注意しながら、抱き上げた。


「熱は高いですが、大事には至らないでしょう。2、3日安静にしていれば大丈夫です」

 医者はリヴァイにそう言い残し、医務室を後にした。医務室にはリヴァイと、ベッドに横たわるアンナのふたりしかいない。
 相変わらず苦しそうに息を吐くアンナを見下ろし、リヴァイは小さくため息を吐いた。


「……リヴァイ……」
「気付いたか」

 アンナの瞳は熱で潤み、危うく揺れながらリヴァイを見ていた。

「……医務室?」
「そうだ。熱は高ぇが2、3日大人しくしてりゃ治るそうだ」
「……そう……」

 アンナはそう言ったきり、黙ったまま天井を見つめている。

「……リヴァイ……」
「ああ」
「……体調管理を怠った……」
「そうだな」
「兵士失格だ……」

 アンナはそう呟いて、ゴホゴホと咳を繰り返す。

「……こんなに身体が重くて苦しいのは……久しぶりだ……」
「だろうな」
「……私……このまま死ぬのか……?」

 アンナにしては珍しく弱気な発言だった。熱におかされ心許なくなっているのだろうか。
 リヴァイの前ではいつだって、胸を張り強気な言動をしているアンナ。そんな彼女からこぼれる不安は、リヴァイの胸を少し締め付ける。

「……お前は熱にうなされて大人しく死ぬタマじゃねぇだろう」
「そう……私が死ぬのは……ここじゃない……」

 アンナの目が閉じられ、苦痛に耐えるように顔を歪ませる。

「……リヴァイ……」
「なんだ」
「熱が下がった時……弱くなっていたら……どうしよう……」
「………」
「強さが……私の価値なのに……」

 再び開かれたアンナの瞳が潤んでいるのは、熱のせいなのか。それとも――

「弱くなったら、また強くなればいい。俺が鍛えてやる……たとえお前が拒否しようともな」
「………」
「だから……今は休め」

 リヴァイは腕を伸ばし、アンナの視界を覆うように彼女の目の前に手をのせた。
 アンナの目が伏せられたのか、手のひらにふさりと睫毛が触れたような気がした。