「アンナさん、団長がお呼びです」

 アンナが兵舎の廊下を歩いていると、背後からやってきた兵士に声を掛けられた。アンナは微かに顔をしかめながら振り向く。声を掛けた兵士は彼女の不機嫌そうな面持ちに緊張し、体を強張らせた。

「今から訓練に出ようと思ってたのに……。急ぎの用事?」
「は、はい……おそらく……」
「わかった。すぐにいく」

 兵士に向かってそう答えると、アンナはエルヴィンの部屋へと足を進める。

 エルヴィンからの呼び出しは珍しい。次回の壁外調査の日程がそろそろ決まる頃だ。遠征に関わることで話があるのだろうが、通常であればそういった内容は直属の上司であるリヴァイから伝えられる。
 少々訝しく思いながらも、エルヴィンの部屋のドアをノックした。「入れ」というエルヴィンの声を合図にドアを開ける。


「急に呼び立ててすまなかったな」

 机の前に腰を下ろしたエルヴィンは、アンナの顔を見て微笑む。そんなエルヴィンの隣には、リヴァイの姿があった。
 なぜリヴァイがいるのだろうか。疑問を浮かべながら彼を見やるが、リヴァイの視線はどこか遠くへ向けられている。

「体調を崩していたと聞いたが、もう大丈夫なのか?アンナ」

 エルヴィンからの問いかけをきっかけに、アンナはリヴァイに向けていた視線を外す。

「大丈夫。訓練にも参加してるし、身体に影響もない」

 アンナの返答を聞き、エルヴィンが頷く。

 発熱が治まったのは3日前。アンナは2日間ベッドに伏せていた。
 熱にうなされ、気力も体力も削り取られ、とても弱気になっていた。このまま死んでいくのかもしれないと、本気でそう考えたし、巨人相手に戦う兵士として役立てないほど弱くなってしまうかもしれないという恐怖心にも襲われた。そして、その不安や恐怖をリヴァイに漏らしてしまったことを、アンナはとても後悔している。

 熱でぼんやりしていたとはいえ、弱くなった心をリヴァイに見せてしまったのは失態だ。
 リヴァイには、強い兵士として見られていたい。脆弱などと思われたくはない。ほんのわずかな一瞬でも、リヴァイから見える自分の強さを裏切りたくはないのだ。


「さっそくだが本題に入ろう」

 エルヴィンの真剣な表情を目にし、アンナは彼の言葉に意識を集中させる。

「アンナ……君には次の壁外調査から班長として行動してもらいたい」
「……」
「これが君の班員のリストだ。明日の全体会議で次回調査の日程と新たな班構成を皆に伝えるからそのつもりで」
「……」
「……アンナ?」

 班員のリストを差し出しながら、エルヴィンは一切反応を示さないアンナの顔を怪訝な表情で覗き込む。
 エルヴィンの声で、アンナ は我に返った。惚けていたことに気まずさを覚え、慌ててリストを受け取る。
 リストには名前を見ただけで顔が思い浮かぶ者もいれば、耳にしたことのない者の名前も書き連ねてあった。

 アンナは顔を上げ、エルヴィンの隣に佇むリヴァイを見やった。
 彼女の視線に気づいているのかいないのか、リヴァイは変わらずどこか遠くを見ているようだった。

「……班長になるというのは、命令?」

 再びエルヴィンに視線を戻し、アンナが問う。エルヴィンは深く頷き、「そうだ」と答えた。

「命令に背くつもりはない。だから、班長になる」
「ああ。これからよろしく頼むよ、アンナ」

 エルヴィンの言葉に、今度はアンナが頷く番だった。

「話は以上だ。明日の会議の後は班ごとの訓練を行うから、互いに動き方をしっかり確認するように」
「……わかった」

 そう答え、アンナは踵を返した。
 エルヴィンの部屋のドアを開けて廊下に出る。後にはリヴァイが続いていた。
 リヴァイの前を歩くのは何故だか落ち着かなくて、少し歩幅を狭めて隣に並ぶ。

 部屋を出てから数分。リヴァイとアンナは口を開かず、黙ったまま歩き続ける。
 2人の足音だけが響くなか、先に沈黙を破ったのはアンナの方であった。

「……私を班長にするという判断は、エルヴィンとリヴァイがしたの?」
「最終的な決定権はエルヴィンのヤツにある……そのくらいわかってんだろうが」
「うん……そうなんだけど」
「……」
「リヴァイはどう思った?私が班長になること」

 そう問いかけると、リヴァイはふと足を止め、じっとアンナの顔を見つめた。
 アンナは気まずさを覚えて、さっと視線を逸らした。逸らしてもなお、リヴァイの視線が横顔に突き刺さるのを感じる。

「……ビビってるのか、お前」

 リヴァイの言葉に、アンナは何も返せなかった。そんなことはないと、きっぱり否定したいと思うのに。

 エルヴィンから班長になることを聞かされた時から、アンナの心は複雑だった。
 確かに、臆していないと言えば嘘になる。
 班を率いる立場になるということは、今までよりも更に冷静に的確な判断を下さなければならない場面にも多々ぶつかるだろう。自分の迷いや誤った判断が、班員の命を左右することだってあるはずだ。
 そんな臆する心の裏側で、班を率いる立場になれるだけの経験と実力を持った兵士なのだと認められたことが、嬉しくも感じていた。
 巨人と向かい合った時に正しい判断を下し、他の兵士を導くことができると信頼されている――。


「……自分でもよくわからない。ビビってるのかなんなのか」
「……」
「でも、これからはリヴァイと別行動だと思うと清々する」
「……はっ……そりゃあ俺の台詞だ、クソガキ」

 リヴァイが再び歩き出す。
 アンナは彼の後に続いた。

 調査兵団の兵士になり、もう何度も壁外調査に赴いた。
 繰り返された遠征中、冷静さを欠き仲間の命を危険に晒したこともあった。周囲が見えなくなり、自らの命が危うくなったこともある。仲間の命が奪われる瞬間も、この目で何度も見てきた。
 そして、どんな時も常にリヴァイが側にいた。
 彼の背中を見て、強くなりたいと思った。命の重さを受け止めながら戦い続けることのできる強さ。それを直属の部下というかたちで、常に1番近くで見てきたのだ。
でも、これからは違う。
 1つの班を受け持つからには、それぞれが別の仕事をこなすことになる。
 リヴァイの側にいるという安心感や頼もしさは、これまでアンナの支えになっていた。けれど、それらはもう得られない。

 リヴァイが側にいない状況で、戦う。
 もしかしたらリヴァイの知らないところで死ぬかもしれない。
 リヴァイが戦う場所から遠く離れたどこかで、気付かれることなく、終わる――。


「……リヴァイ」

 先を歩くリヴァイの背中に向かって掛けた声は、アンナ自身が戸惑うほど小さな声だった。が、それでもリヴァイの耳には届いたらしい。
 リヴァイが振り返りアンナの顔をじっと見つめる。

「……今までありがとう」
「……」
「人間としてはともかく、私は兵士としてのリヴァイを尊敬している」
「……」
「リヴァイの下で兵士としての経験を得ることができた……感謝してる」
「……なんだてめぇ……気持ち悪い」

 珍しく素直なアンナに言葉を向けられたリヴァイが面食らったらしい。表情の乏しいリヴァイが僅かに見せる戸惑い。アンナにはそれが可笑しく感じられて、思わず口許を綻ばせていた。

「自分でも思う。こんなこと言うなんて気持ち悪い」

 でも、言わずにはいられなかった。
 リヴァイの視界から外れた何処かで……彼の知らぬところで命を終えてしまったら。そうしたら、きっと後悔してしまうだろう。
 リヴァイの強さに焦がれ、彼と同じ強さを求めた。そういう自分の気持ちを伝えたいと思った。
 ひどく不足した自分の言葉では、気持ちの全てをリヴァイに伝えきることができていないような気もするが。


「……アンナ」
「うん」
「お前は余計なことを考えずに、やつらを削ぎまくってればいい」
「……なに、それ」
「言っただろう……お前の力は本物だ。お前の力が仲間の命を救う」
「……」
「生き残れ」

 リヴァイはそう言うと、アンナに背を向けて歩き始めた。

 ――酷なことを言う。リヴァイの背中を見つめながら、アンナはそんなことを思った。
いつ死んでもおかしくない。巨人という未知なる敵を相手に戦う自分たちは、常に死が隣り合わせであることをリヴァイは知っているというのに。
 けれど仲間の死を多く見続けてきたリヴァイが寄せるアンナへの信頼は、そう簡単に死ぬことを許してはくれない。
 そしてアンナは、そんな彼の信頼を裏切りたくはない。

「リヴァイこそ……私が抜けた班で、あっさり死んだりしないで」

 アンナらしい憎まれ口に、リヴァイは何も返さない。ただその口許だけが僅かに持ち上げられていたことに、アンナは気付かなかった。





 アンナが班長を任ぜられてから数週間が経過した。彼女が班長として赴く、最初の壁外遠征が行われる。
壁外へと続く門を目指す調査兵団の一行は、列をなして街道を進む。アンナは隊列の後方、自身の班員たちと共に馬に揺られていた。
 リヴァイの姿は彼女の視界の中にはない。彼は列の先頭あたりにいるはずで、今回の遠征中の隊列はリヴァイの班とは一番離れたところを担当する予定になっている。


「……アンナ班長」

 アンナを呼んだのは彼女の後方に続く兵士だった。今回の遠征が始めての壁外調査だという新兵は、どこか不安げな面持ちでアンナを見ている。

「……遠征が始めてだったな」
「はい……それで……その……。……いえ、なんでもありません」

 新兵はそう言ったきり口を閉ざした。彼の顔には不安の色が浮かんでいる。
 未知なる敵へ向かう者が苛まれる恐怖心はアンナにも理解できるし、それを抱くことを責めるつもりはない。けれど、自分たちは戦わなければならないのだ。
 命を懸け、自ら立ち向かっていかなくてはならない。心のうちに巣食う恐れを乗り越えて。


「……巨人を相手に戦うことは、誰だって怖い」

 独り言のように呟かれたアンナの言葉。背後にいる新兵が息をのむ気配がした。

「それでもお前は戦おうとしている。そういう人間は、弱くなんかない」
「……」
「すくなくとも私の班員は、全員強い」
「……」
「強い人間は簡単に死んだりしないし、私が死なせない」
「……」
「……わかった?」

 ちらと後方を振り返り新兵の顔を伺うと、彼は「はい!」と大きな声で答えた。
 表情は強張ばっていて彼の中にある恐怖心を完璧に拭うことができたわけではない。それでも、その瞳に光が差している。
 アンナは小さく頷いて、再び視線を前へと向けた。

 ――強い人間は簡単に死んだりしない。それはただの理想。もしくは希望だ。
 現実は残酷で、強い者も大切な者も簡単に奪っていく。けれど、自分の強さを信じることで戦うことができるなら。
 自分にとってリヴァイがそうしたように、私自身も班員の強さを信じることで、彼らが強く戦えるなら。
 アンナのそんな思いを乗せた言葉が班員たちを鼓舞し、彼らの戦う意思がアンナの背中を強く押す。


 ふと沿道沿いに視線を向けると、小さな子供と目が合った。子供はきらきらと輝く瞳で、目の前を過ぎるアンナを見つめている。
 アンナは子供と視線を合わせたまま、姿勢を正し、右手拳を左胸に添えた。
それが敬礼であることを知っていたのだろう。子供は嬉しそうに大きく笑うと、次の瞬間には顔を引き締めアンナと同じように敬礼をとった。
 その小さな敬礼は、左拳を右胸に添えるもので、アンナは思わず笑みを零した。


「班長、まもなく門です」
「ああ」

 班員の声で意識を切り替えた。
 ここから先に待っている絶望と恐怖を乗り越え、強く戦ってみせる。
 リヴァイが信じた私の強さを裏切らないために。