調査兵団本部のとある一室。普段は会議室として使われるこの部屋に、小さなうめき声がこだまする。


「待ってろ。もうすぐ医者が来る」

 床の上に布を敷いただけの簡素な寝床。そこへ横たわる兵士に声を掛けたのはアンナだった。

 壁外調査を終えた兵団では、死者はもちろん負傷者も増加する。備えられた医務室だけでは負傷者が収まりきらない。そこで、別室を負傷者に解放している。もはや調査兵団内では見慣れた光景になっていた。
 現在アンナは負傷者の溢れるこの部屋で、救護係として動いている。

「アンナ班長、ここは自分が代わるので」

 同じく救護を行なっていた兵士の1人がアンナに声を掛けた。
 班長という階級のある人間に救護をさせるのはまずかろうという兵士の配慮であったが、当のアンナは首を横に振る。

「人手はいくらあっても足りないだろう」

 アンナが言うと、兵士は「では、お願いします」と言い残し、他の負傷者の手当てへと向かう。

 ややあって、再びアンナの前に横たわる兵士がうめき声を漏らした。彼の左足は膝から下が無い。
 脂汗で濡れた顔を苦しそうにゆがめ、手は掛けられたシーツを力いっぱい握りしめている。
 アンナはそんな兵士の手に自分の手を重ね、そっと握った。すると兵士は彼女の手を握り返す。痛みに耐えきれないのであろう兵士は、ぐっと強く力を込めアンナの手に爪をたてた。

「くっ」

 うめき声と共に握られてた手に爪が食い込んだ。
 僅かな痛みを覚えるが、アンナは眉ひとつ動かさず、苦しむ兵士をじっと見つめ続ける。

「うぅ……――くれ……」

 兵士の口から紡がれた言葉は、うめき声に紛れて聞き取ることが出来なかった。
 アンナは顔を寄せ、口から漏れる音に意識を集中させる。

「しに……た……い……うぅ……もう……」

 ――死にたい。もう死なせてくれ。
 左脚を失った痛みにたえきれず、紡がれた言葉。
 アンナは、兵士の手をギュッと強く握った。

「こんなところで投げ出すな。お前は、まだ生きているだろう」

 壁外調査に出れば巨人によって命を奪われる兵士は少なくない。その中で命を繋ぎながらも自ら死を望むことは、今まで懸命に戦い、死んでいった仲間への裏切りではないのか。命を繋いだのならば、最後まで戦い抜く。それが生き残った私達の使命なのだ。
 そんな想いのこもったアンナの言葉が兵士の耳に届いたかはわからない。
 兵士は唇を強く結び、目尻から一筋涙をこぼした。

 それから数分後、医者が兵士の所へやって来たのを合図に、アンナはその場を離れた。
 さっきまで兵士のそれを握っていた手に目をやると、くっきりと爪の跡が残っている。

 あの左足を失った兵士は、命を取り留めたとしても二度と戦うことはできないだろう。
 それが幸せなことなのか不幸なことなのか、アンナにはわからなかった。





 アンナは馬上にいた。全速力で駆ける馬。馬の動きに合わせて身体も大きく揺れる。
 背後を見れば、3メートル級と思しき巨人が数体、アンナの後を追っていた。

 ――戦えるだろうか。
 アンナは周囲を見渡す。そこに仲間の姿は無く、広い草原にはアンナと巨人達しかいない。

 ――私しかいない。
 刀身をグリップに装着すると同時に馬から飛び降り、アンカーを放った。アンカーは狙い通り、巨人の足に食い込む。
 
 アンカーを巻き取り勢い良く巨人に接近すると、再びアンカーを放って巨人の背後へ回り込む。アンナのスピードに巨人はついてこられない。
 うなじに狙いを定め、空中でブレードを振り上げた瞬間だった。背後から地響きのような音が響く。
 それが止んだと同時にアンナの身体は突如圧迫され、全身に痛みが走った。彼女の身体は、巨人の手の中に収まっている。

 巨人1体に集中し過ぎた。3体もいるのに何故周りに注意を向けなかったのか。そんな後悔に襲われながらも、アンナは大きく開く巨人の口を、冷静に見つめている。

 巨人の吐き出す息が、顔をなぞった。
 巨人の口の中で舌が蠢いている。その舌の前にある大きな歯がゆっくりと、しかし確実にアンナの左脚に喰い込んでいく。
 
 ――ああ、これで私は兵士でなくなる。



「……はっ」

 アンナは勢い良く上体を起こした。
 吐く息は軽く乱れ、じっとりとした嫌な汗をかいている。
 深く息を吸い、大きく吐き出した。落ち着いて辺りを見回せば、そこは見慣れた自室だった。

 どうやら夢を見ていたらしいと気付きながらも、アンナはベッドに放り出された自分の左脚にそっと手を添えた。
 夢の中で感じた、脚を食い千切られる時の熱せられたような痛み。あまりに生々しく、目が覚めた今もなおそこに熱が残っているような気がしてならない。
 汗ばんだ身体が空気と触れ合い冷やりとする。アンナは身震いをした。

 そのまま眠る気になれず、ベッドから抜け出す。
 部屋を出れば、兵舎の廊下は深い夜の静けさに包まれており、生きている人間が自分ひとりだけのような錯覚を起こさせた。
 通路に響くアンナの足音。一歩一歩ゆっくり足を踏み出す。自分の足の存在を確かめるかのように。

 やがてたどり着いたドアを、アンナはゆっくりと開けた。
 開いたドアの先にいたその部屋の主――リヴァイは驚くわけでもなく、かわりに深く息を吐き出す。

「……なにしに来やがった」

 まだ仕事が残っているのであろう。リヴァイは机の前で書類をめくりながら言った。
 アンナは言葉を返すことはせず、リヴァイのいる机の正面に置かれたソファへ腰を下ろす。

 リヴァイは書類をめくっていた手を止め、暫しアンナの様子を伺っていた。アンナは口を開くでもなく、どこか遠くを見つめたまま動かない。
 そんな彼女の様子を訝しく思ったのか、リヴァイが僅かに眉根を寄せる。が、当のアンナは気付かない。
 リヴァイが再び書類に視線を落としたところで、アンナは静かに言葉を紡ぎはじめた。

「夢を見た。巨人に食われる夢だった」
「………」
「片足を食い千切られるところで目が覚めた」
 
 言いながら、アンナは脚に手を置く。巨人の歯の感覚が戻ってきたような気がした。

 夢の中で巨人に脚を食いちぎられる瞬間、アンナは恐怖を感じた。
 それは、死に対する恐怖とはまた違う。

 ――これで、自分は兵士でいられなくなる。
 巨人の大きな歯が自分の足に食い込むその瞬間、アンナはそう思ったのだ。

「もう二度と、壁外調査に行けないと思った」
「………」
「私は心臓を捧げた。いつ死んでもおかしくないと思っていたし、怖くなんてない。でも、兵士でいられなくなるかもしれないと思ったら、怖かった」

 アンナの肌は粟立っていた。夢の恐怖を思い出してなのか、いまだに残る汗の冷たさのせいなのか。

「リヴァイと一緒に戦えなくなると思ったら、怖かった」
 
 ポツリと呟かれた言葉は、静かに部屋の中に溶けていく。
 アンナは、自分の零した言葉の頼りなさに情なくなっていた。リヴァイの顔を見ることができず、膝の上に置いた自分の拳を見つめる。

「いつになくよく喋るな」

 アンナの内心など興味がないと言わんばかりの、淡々とした言葉。
 そのいつもと変わらぬ調子に、アンナは思わず顔を上げる。そこには、まっすぐに自分を見つめるリヴァイがいた。

「脚が1本や2本食い千切られようが、お前は最後まで戦うだろう」

 アンナから目を逸らすことなく、リヴァイは言う。
 
 リヴァイは嘘を吐かない。アンナはそれを知っている。
 リヴァイの瞳が、彼女は最後まで戦い抜くことを信じていると、そう語っている。


「……戦う。たとえ脚や腕が食いちぎられても、リヴァイと一緒に、私は戦う」

 リヴァイの瞳を真っ直ぐに見つめながら、アンナはそう言った。





 ゆらゆらと揺れる火が小さくなったことに気付いて、リヴァイは書類に向けていた顔をあげた。書類に目を通し始めた頃より幾分頼りない大きさになった卓上の蝋燭が時間の経過を物語っている。

 しんと静まり返った室内。視線を正面のソファに向ければ、目を閉じたアンナが横たわっていた。
 本を読んでいるうちに睡魔に襲われたらしい。彼女が読み進めていた本は手元から離れ、表紙を開いたまま床に落ちていた。
 リヴァイは小さな息を吐いてから立ち上がる。落ちている本を拾い上げ、音をたてぬようテーブルに置いた。

 
 ――リヴァイと一緒に戦えなくなると思ったら、怖かった。
 巨人に喰われる夢を見たのだと語った後で、アンナがこぼした台詞。
 壁外調査に赴けば、巨人を前にしても恐れることなく果敢に対峙する彼女からは想像できない弱音だった。
 それでも、とリヴァイは思う。

 兵士として生きる彼女は多くの仲間を失い、その心は何度も深く暗い所に落ちていった。それでもアンナは闘い抜いてきた。リヴァイ自身の目の前で。
 アンナの強さは今共に戦う仲間と、そして、今まで共に戦ってきた仲間たちの命を無駄にしないためのものだ。
 仲間たちの命の重みを理解しているアンナだからこそ、戦い続けるはずだと思った。たとえ手足を食い千切られようとも。

 ――戦う。たとえ脚や腕が食いちぎられても、リヴァイと一緒に、私は戦う。
 リヴァイを見つめながら言ったアンナ。アンナは戦い続ける、そう思うリヴァイの信頼を裏切りはしないという強い意志が彼女の瞳に映っていた。
 
 それが、ほんの数十分前の出来事。それがいまはどうだ、とリヴァイは小さくため息をこぼした。
 爛々と強い光を宿していたその瞳は閉じられ、いつもリヴァイに見せている仏頂面さえなりを潜めている。
 少し背を丸めて横になるアンナはソファーにすっぽりと収まり、驚くほど小さい。それは、頼りない小動物のようだった。
 壁外で巨人を相手に強く戦う彼女からは遠く離れた存在になってしまったようで、リヴァイは心許なくなる。

 リヴァイはその視線をアンナに留めたまま、彼女の足元側にゆっくりと腰を下ろした。
 重みの加わったソファは、リヴァイの体重全てを支えきれずに僅かに沈む。しかしアンナはその変化には気づかず眠り続けた。

 閉じられた目元に添えられたまつ毛。薄く色づいた頬。微かに濡れているように見える唇。それらが収まる彼女の顔は、思いのほか小ぶりだった。そして、その小ぶりな頭を支えているであろう首は白く、輝いているように見えた。

 リヴァイにとってアンナは、同じ調査兵団に身を置く兵士だ。いつでも強くあろうとし、実際にここまで戦い抜いてきた屈強な仲間。
 それでも、巨人のいない場所で休むその姿は、リヴァイとはまた別の性を持つ人間であるのだと、いやでも意識させられる。

 気が付けばリヴァイは自らの腕を伸ばし、アンナの首筋に触れていた。手に伝わるのはアンナの体温。それは柔らかく、滑らかな肌だった。
 細い手足、控えめだが凹凸のある身体。そして、肌からにおい立つほのかに甘い香り。
 アンナは、女なのだ。普段は意識しない彼女の性をこんな形で突きつけられるとは思っていなかった。

 リヴァイは、アンナにもっと触れたいという衝動に駆られていた。同時に、自身の身体に起きた変化にも気づく。
 気づいてしまえば、戸惑う。このタイミング。それも、相手はアンナだ。
 自分を制しなければならない。そう思う一方で、熱を持ち始めた身体と、アンナに触れたいという欲求に逆らおうとはしなかった。

 上体をゆっくりと沈め、アンナとの距離を縮めた。
 重心の移動をしたせいだろう、2人の下にあるソファがわずかに軋んだ音を立てる。
 その瞬間だった。伏せられていたアンナの瞳が開くのを、リヴァイは見逃さなかった。

 状況を把握するためだろう、開いたその瞳はあたりを素早く見回した。そしてすぐさま彼女の上にいるリヴァイへとたどり着く。
 リヴァイとアンナの視線がぶつかる。それとほぼ同時に、リヴァイは自らの腕で防御の体制をとった。
 彼が防御の構えをとったのと同じタイミングで、アンナの膝がリヴァイの腕に叩きつけられた。