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♢ 目覚めたアンナの視界に映ったのは、薄汚れた煉瓦の壁だった。 薄暗く、辺りには湿った空気が満ちている。いつもと変わらぬ自分の寝床。彼女はそう錯覚した。 異変に気付いたのは壁と壁の間に設けられた鉄柵を目にした時だった。黒々とした鉄柵。一本一本が等間隔に並び、壁と壁を結んでいる。 体を起こそうとしたアンナだったが、腹部と顔面に鈍い痛みを感じ、思わず顔をしかめた。 私はどういう状況にあるのだ。記憶を探ってみようとしても頭の中は霞がかっているようで、なにも取り出すことができない。 自分の頬に触れてみると、ずきりとひどく痛んだ。おそらく痣ができているのだろう。 「気付いたか」 響いてきた声。アンナは視線を柵の向こう側へ向ける。そこにはひとりの男がいた。 鋭い目でアンナを見下ろしている。この男には見覚えがあった。 「……お前……この前の……」 数日前のことだ。地下街で男たちに囲まれた際に背後から向けられたナイフを阻んだ男。憲兵団が現れ、自分を引き渡すことなく逃がした、訳のわからない兵士。なぜ今この男が目の前にいるのか。それが不可解でならない。 「お前が……ここに……?」 腹と頬の痛みで思うように言葉を発することができない。 現在に至るまでの記憶の最後に目の前にいる男の姿があることに気付く。未だ後引く激しい痛みも、この男によってもたらされたものなのだ。 「……ここはどこだ」 アンナは自分の声が酷く掠れていることに気付いた。 「……調査兵団の支部にある地下牢だ」 「調査兵団が人さらいをするなんて聞いたこと無い。……今さら私を憲兵団にでも差し出すつもりか」 「…………」 「答えろ。何を企んでいる」 アンナは男を睨みつける。だが男は動じない。感情の読み取れない一対の目は、変わらずアンナに向けられている。 「オイ……この扉を開けろ」 男は振り返り、背後に控えていた兵士に声を掛ける。男の指示に従い、兵士はアンナを捕らえている鉄柵の端に備えられた錠前に鍵を差し込む。人がひとり通れるだけの小さな扉が開かれる。 男は開いた扉をくぐり、鉄柵の此方側へと足を踏み入れる。 アンナはすかさず動いた。あの扉が再び閉じられる前にここから抜け出さなくてはならない。 彼女の脚の筋肉が大きく収縮し、反動で一気に伸びる。次の瞬間にはもう、アンナは男の目の前にいた。 このままこの男の脇をすり抜け、あの扉を潜る。柵の向こう側に控えている兵士は一人。相手が体勢を整える前にこちらから攻撃してしまえばいい。 しかしアンナの目論みはあっけなく破られた。男の脚が空を切り、アンナの腹部に力強く食い込む。 「……!」 予測することもできなかった攻撃は、あまりの衝撃ゆえに眩暈を覚えた。蹴られたのだとすぐに判断することもできず、気付けば蹴られた箇所に手を当てその場に膝をついていた。 内臓からなにかがせりあがってくる感覚。吐き出してしまいたいのを堪える。動くことは出来そうにない。 目頭が熱くなり、視界がぼやけた。それでも敵から目を反らすことは死に値する。 ぼやけた視界の中、目の前に佇む男を睨む。しかしそれも僅か数秒のことだった。側頭部に男の膝が打ち込まれる。 蹴られた勢いでアンナは床に倒れこんだ。意識は失っていない。意識を失ってしまいたいと思うほど、屈辱的な状況だった。アンナはこれまで一度として、ここまで圧倒的な力の差を見せ付けられたことなどなかった。彼女はいつだって見せ付ける側におり、常に勝者だったのだ。 「勘違いするなクソガキ」 男の声が静かに響く。 「自分の置かれてる状況もわかんねぇのか……?お前が俺に命令するんじゃない。俺がお前に命令するんだ」 頭をもたげようとするものの、男の足が側頭部に乗せられ阻まれた。靴の底が痛いくらいに皮膚に食い込んでいる。 「お前の身体能力だ……地下街では負け知らずだっただろう。ただ上には上がいるってだけの話だ」 「……目的はなに……。私なんかに、調査兵団がいったいなんの用がある」 「物分かりの悪いガキだ」 男の足が下ろされた。かと思うと、男はアンナの髪を掴み顔を上げさせる。 「お前のその身体能力を、巨人を絶滅させるために使え」 「私に……調査兵団に入れと……?」 「そうだ」 「……勧誘にしては随分優しいやりかたをする」 笑うことを試みたものの、顔面に鈍い痛みが走り不器用に口許が曲がるだけだった。それでも男の神経を逆撫ですることには成功したらしい。男はアンナの頭を床に叩き付ける。 「リヴァイ兵長!」 床と頭がぶつかり、思いの外大きな音が響いた。柵の向こう側に控えていた兵士が神妙な面持ちで呼んでいたのがこの男の名前なのだろうと、痛む頭で考える。 柵の向こう側では兵士が不安そうにアンナの顔を覗いている。死にはしないかとでも思っているのだろう。 あいにく私は、そんなに弱くはないんだよ。アンナは心のなかでそっと呟く。 「……お断りだ。お前みたいな人間と同じ場所にいるなんて……」 目の前にいる男が自分より圧倒的に強いことは、もう充分すぎるほどに痛感している。それでも抗わずにはいられない。 生きるために汚いことにも手を染めた。最下層と呼ばれるような人種、それが私だ。けれど屈辱的な目に合わされた相手に対してへつらうほど、落ちぶれたつもりはない。 アンナは憎しみのこもった瞳でリヴァイを見上げる。制裁は覚悟の上だった。しかしリヴァイに四肢を動かす様子はない。黙ったままアンナを見下ろしている。 「……そうか」 暫しの沈黙の後、リヴァイが呟く。続く言葉もなく、リヴァイは踵を返し再び鉄柵を潜った。 アンナはリヴァイの顔を見やった。自分を見る男の顔からは、感情を読み取ることができない。 「冷静に考えてみればいい。お前にできる選択は、調査兵団に入るか憲兵団の牢屋にぶちこまれるれるかのどちらかだ」 それだけを言い残し、リヴァイは地下牢を後にした。 これだけ屈辱的な目に合わされたうえ調査兵団に入るなど、自尊心を傷つけること甚だしい。だが逃げ出すことも叶わない現在の状況。 憲兵団に引き渡されれば間違いなく牢獄行きだろう。極刑だってありえる。地下街でアンナがしてきたことを思えば、それは当然のことだった。そしてあのリヴァイという男は、アンナがどんな風に過ごしてきたかを知っている。 その場に残された兵士は見張り役なのだろう。微かに同情を込めた瞳でアンナを見つめている。 アンナは目を閉じた。四肢を動かす気力は削がれてしまっている。 〇 「……食事はした方がいいよ。せめて水だけでも……」 アンナが調査兵団の地下牢に捕らえられてから1週間が経った。この1週間で初めて、見張り役である兵士に言葉を掛けられた。アンナは捕らえられてから一度として、与えられた食事に手を付けていない。 見張り役の兵士が鉄柵の鍵を開け、手付かずになった食事を新しいものと入れ換え、また鍵を閉める。アンナは冷たい床に横たわったまま、兵士の一連の動作を見るともなしに見ていた。 扉が開いても動くことさえしなかったのは、手足を動かすだけの体力も気力も失ってしまったからだ。 このままではいずれ死ぬ。体の内側から少しずつ、しかし確実に弱っていく自分自身に気付きながらも、アンナは与えられる食事に手を付けることができなかった。彼女の誇りが、それを許さない。 リヴァイと呼ばれていた、恐ろしく強い男。目覚めた日に圧倒的な力の差を見せ付けて以来、一度もこの場を訪れていない。 死ぬまであの男の顔を見ずに済むことが喜ばしいことなのか、腹立たしいことなのか、アンナ自身よくわからない。弱りきった姿を見られたくない思いと、なんとしても一矢報いたいという思いとがない交ぜになっている。(今の体力では、到底敵わないということがわかっていても) アンナは背後まで迫ってきている死について考える。それはいったいどんな世界だろうか、と。 きっとくだらない世界だろう。今自分がいる場所となにも変わらない。 出口もなく、塞がれた世界。真っ暗な闇につつまれ、足元さえ定かではないような。 朦朧とする意識の片隅で、扉の開く音を捉えた。 「兵長……彼女はこの1週間、与えられた食事に手を付けていません」 「……そうか」 男たちの会話。近付いてくる足音だけが、身を横たえた床を通じて生々しく体に響く。 「……これがお前の選択か?」 足音が止む。上から降ってくる声。目を開けば、自分を見下ろすリヴァイの、無表情な顔がぼんやりと映る。 「このまま何もせずくたばる……それがお前の望んだことか?」 リヴァイの問い掛けに、アンナは沈黙を返す。 「力だけを持てあまし、薄汚ねぇ地下街で泥水を啜る……」 「………」 「くだらねぇ人生だったな」 確かにな。リヴァイの言葉に、心のなかで答えた。 確かに、くだらない人生だった。十数年という、短くも長い年月。アンナはそっと目を瞑る。 常人には無い奇異な力を備えている。その事実に気付くのにそう時間はかからなかった。幼い頃から誰よりも長い時間働くことができたし、大の大人が根をあげるほど重たい物を軽々と持ち上げることができた。けれど、それがいったい何の役にたっただろう。 物心ついた頃にはすでに、病弱な母を支えることだけが全てだった。 私が備えている力は、母とふたりでこの厳しい世界を生きていけるようにと、天が授けてくれたものだと思った。しかし、母は喪われた。 巨人という計り知れない力と恐怖を前に、自分は何もできなかった。母が喪われていく様を見ていることしかできなかった。 行くあてもなくたどり着いた王都の地下街。そこは文字どおりの無法地帯だった。いまだ『子供』という時期を脱しきれていない者が生き抜くことなど不可能な場所。自分でなければ生き抜くことなどできなかったと、アンナ自身は思っている。 横行する暴力。出所の不確かな危険な取引。人身売買、強姦、殺人。薄汚い地下で繰り返される犯罪行為の隙間を掻い潜り、時には受け止める。そうやって手を汚しながらも生きてきたのは、自分に力があったから。けれど、私がやってきた物事に、いったいなんの意味があっただろう。 ――こんなはずじゃない。 心の奥底では、いつもそう叫んでいた。 ――絶対に抜け出してやる。 病弱な母を支えるだけの生き方から。 ――このままで終わりはしない。 無限とも思えるような塞がれた世界。犯罪行為を繰り返し、汚れていく手。薄汚い地下街の泥水を啜る。 出口の見えない闇のなかでも、叫んでいたのだ。私の居場所は――本当の居場所はこんなところではない。なにも成さぬまま死んでいくことだけは、絶対に嫌だ、と。 アンナは大きく目を見開いた。 自分を見下ろす男などには目もくれず、側に置かれた食事と、水がなみなみと注がれたコップをじっと見据える。 こんなところで死ぬわけにはいかない。くだらない人生のまま、終えるわけにはいかない。その一心で、アンナはコップに向かって手を伸ばす。 腕が震える。自分のものではないように感じる、ひどく重い腕。あと少しの距離が届かない。 これ以上体を動かすことも声を出すことも、今の自分にはできない。 目頭が熱くなる。悔し涙がこぼれそうだった。 不意に、今まで黙っているばかりだったリヴァイの口許から吐息の漏れる音がした。それは盛大なため息だったのだが、アンナは気付かない。 リヴァイのブーツの底が床を叩く音が響く。彼は数歩あるいて立ち止まった。 コップに向かって手が伸びてきて、掴んで持ち上げる。 コップの行方を目だけで追う。視線の先にはコップを傾け、水を口に含むリヴァイの姿があった。 アンナは叫び出したかった。思い付ける限りの罵倒をリヴァイに浴びせかけたかった。しかし口を開いても出てくるのはゼェゼェという乾いた音だけ。 目の前の男に奪われた水が、恋しくてしょうがない。 絶望にも似た、諦め。もう指一本すらまともに動かせない。 重くなった瞼を閉じる。その時、開いたままの唇に違和感を感じた。口の中に流込んでくる、生ぬるい液体。 それが水であると気付く前に喉の奥に押し込んでいた。枯れきった喉が潤っていく感覚。 目を薄く開くと、リヴァイの顔があった。すぐ、側に。 リヴァイは数秒アンナと視線を合わせ、それからおもむろに振り返り、控えている兵士に向かって「拭くものを持ってこい」と命じた。 真っ白な布をリヴァイが受けとり、口を拭う。その様子をアンナは何を思うでもなく、ぼんやり見つめていた。 「クソガキお前……名前はなんという」 口許を拭い終えたらしいリヴァイが、再びアンナに視線を向ける。 「…………アンナ……」 掠れた声だった。酷く不明瞭な声は、聞きとることもままならないかもしれない。 「……アンナよ」 どうやらリヴァイには声が届いていたようだ。 「俺の命令に従うか?」 リヴァイの問い掛けに、アンナは小さく頷いた。 調査兵団だろうが、気に食わない男の命令だろうが、なんだって受け入れてやる。なんでも受け入れてきた今までと同じように。 自分の正しい居場所を、生き方を見付けるまで、私は死なない。 アンナの動作はとても弱々しい。とても微かな頷きだった。しかし瞳だけは爛々と輝いていた。強靭な意思を映し出しているかのように。 |