「ずいぶん熱心だね」

 この日の訓練を全て終え、アンナは食堂で夕食をとっていた。テーブルの上には食事を載せたトレイ。横に兵法書を広げており、食事をしながらも視線は本に注がれている。
 アンナの前に腰を下ろしたのはマリウスだった。アンナが視線を上げると、マリウスは微笑みを浮かべる。

「何を読んでるの?」
「……兵法書。読むように言われたから」
「僕も読んだよ、その本。とてもわかりやすくて参考になる」
「そう」

 アンナは再び視線を落とした。
 相変わらず読み書きは苦手分野だが、理解できる言葉は少しずつ増えてきた。どういう意味の言葉なのかを思い出すのに時間が掛かるから、1ページ読むのにもだいぶ時間が掛かるのだが。

 じっと本を見つめていても正面にいるマリウスの気配を感じてどうにも集中できない。アンナは諦めて本を閉じる。

「……私になにか用?」
「とくに用はないんだ。ただ……君と少し話をしてみたかったから」
「……物好きなんだな」
「え?」
「ここでは誰も私に声を掛けないし、私を避ける」

 アンナはちらと食堂の一角に目を向けた。数人の兵士が集まり、小さな声でなにかを囁きあっている。彼らはアンナの視線に気付き、口を噤むと慌てて目を逸らした。
 いつもこうだ。調査兵団で訓練を始めて以来、周囲にいる兵士たちは陰鬱な目でこちらを見ている。見知らぬ者へと向けるような好奇の目ではない。敵意を含んだ視線が向けられている。

「……言いたいことがあるなら言えばいい。遠いところでコソコソして……気味が悪い」

 馴れ合うつもりはない。ひとりでいる方がずっと気楽だ。ただ、どうしても気にくわない。
 アンナの視線の先にいる兵士たちを一瞥し、マリウスは小さく頷いた。

「アンナの言いたいこともわかるよ。だけど、彼らはただ君を羨ましく思ってるだけなんだ」
「……羨ましい?」
「ここにいる兵士の殆どは、訓練兵団を経て、調査兵団に入団している」
「訓練兵団……」
「君が今やってるのと同じ、立体機動や兵法を学んだりする。数年掛けてね」
「……ふうん」
「ところが君は突然現れ、リヴァイ兵長に付きっきりで訓練をしてもらってる。あのリヴァイ兵長にだ」
「……」
「僕だって羨ましいよ。リヴァイ兵長に訓練をみてもらえる機会なんて……それも1対1なんて、そうあるもんじゃない」
「……調査兵団って、揃いも揃って物好きか」
「……うーん……どうかなぁ」
「いったいなにがそんなに羨ましいのか全然わからない。羨ましいなら代わってやりたいくらいだ」
「はは……兵長の訓練は厳しい?」
「さあ……訓練なんて受けたことないから、厳しさを判断する基準を持ってない。……けど」
「けど?」
「楽しくはないな。確実に」
「まあ訓練だからね」
「そうだけど……なんというか、言われることが的を得すぎていて、腹が立ってくる」

 訓練中にリヴァイから与えらる言葉の数は決して多くない。できていないことを的確に指摘され、その度に腹立たしくなる。
 リヴァイに対しての怒りと、できない自分への苛立ちが混ざった複雑な感情。アンナが訓練を続ける原動力はこの感情だった。が、本人はその事実に気付いていない。


「リヴァイ兵長に訓練してもらってるんだ。きっと君はとても強い兵士になる。それこそ、リヴァイ兵長みたいな」

 マリウスの言葉を聞き、リヴァイの顔を思い浮かべた。なにを考えているのかわからない、不機嫌そうな仏頂面。アンナは思いきり顔をしかめる。

「……あんな風にはなりたくない」
「アンナはすごいな……兵長は兵士の憧れだよ。兵長みたいに強くなりたいと思ってる兵士は大勢いる」
「……そんなに強いのか」
「とてもね」

 その時、食堂の一角にいる兵士の集団から、「マリウス!」と呼ぶ声が飛んできた。手招きをする彼らに応え、マリウスは席を立つ。

「じゃあまたね、アンナ。おやすみ」
「ああ」

 マリウスを見送り、アンナは再びテーブルの上の本を開く。しかし文字を目で追うほど集中してはいない。古ぼけた紙を見つめているだけだった。

 リヴァイはとても強い。マリウスはそう言っていた。
 確かに、強い男だとは思う。それは身をもって知っている。けれど、多くの兵士が憧れを抱くような強さとはいったいどんなものなのか、アンナにはわからない。

 アンナは息を吐き出して、小さく首を振った。自らの思考を振り払うように。
余計なことは考えない。周囲のことより自分のことだけ考えていればいい。
 意識を切り替え、本の中に集中する。





 食堂を出て自室に戻ってからも、アンナは本を開いていた。
 外界は夜の闇に包まれ、辺りは静まり返っている。頼りになるのは火を入れたランプだけ。静けさの中では、本を読むことがとてもはかどる。アンナは長い時間本の中に意識を沈めていることができた。
 暫く続いた彼女の集中を遮ったのは、雑にドアが開かれる音だった。顔を上げなくても誰が来たかなんてわかる。この部屋にやってくる人間は多くないし、ましてやノックをせずにドアを開ける人間など、ひとりしかいないのだ。
 アンナは来訪者に構わず本を読み続ける。しかし頼りであるランプの灯りを消され、顔を上げざるをえない。

「なにをする。……本を読んでいたのに」

 アンナは灯りを消した人物を睨む。暗がりの中では姿をうまく捉えることはできないし、相手から見ても自分の表情なんてわからないだろうが。

「……黙ってろ」

 暗くなった部屋の中にリヴァイの声が響く。

「夜這いにでも来たのか?」
「黙ってろと言っただろうが……クソガキ」

 目が暗がりに馴れてくると、リヴァイの姿を捉えることができるようになった。
 リヴァイの視線は窓の外へと向けられている。何かを警戒している、厳しい目だ。
 窓の外に視線を向けると、松明の灯りが数本、ゆらゆらと上下に揺れながら移動していた。馬の蹄が鳴る音が響き、段々大きくなる。松明の下に見えるのは、兵士の姿だ。

「……憲兵」

 アンナは思わず呟いていた。憲兵に対する警戒心は未だ解けない。
 リヴァイは外を凝視している。

「なんで憲兵が来てる」

 アンナが漏らした疑問は答えを与えらることなく宙に消え去った。
 リヴァイは黙ったまま、足早に出口へと向かう。

「おい、どこへいく」

 疑問を放り出されたままになるのは落ち着かない。アンナはリヴァイの背に声を掛ける。

「……俺がいいと言うまで部屋から出るな」
「なぜ」
「いいな?」

 有無を言わせぬ物言いに、アンナは渋々頷いた。結局疑問は解けないまま、リヴァイは部屋を後にする。
 リヴァイが去った部屋。灯りは消され、薄暗い。それは地下街を彷彿させ、アンナはベッドの上で膝を抱えた。
 蹄の音はいつの間にか止んでいる。聞こえてくるのは憲兵たちの話し声だけ。
 アンナは気付かれぬよう用心しながら、窓を開けた。話し声はより鮮明に耳に届くようになる。

 憲兵たちの声にまじって、リヴァイの声が聞こえてきた。アンナは窓際に身を寄せ、耳をすませる。




「……何しに来やがった……」

 アンナの部屋を出たリヴァイは、そのまま兵舎の入り口へ向かった。

「これは……リヴァイ兵長自らお出迎えとは……恐れ入ります」

 リヴァイの姿を認めた憲兵のひとりが口を開いた。丁寧な言葉とは裏腹の、嘲笑を含んだ表情に、リヴァイは苛立ちを覚える。

「実はこちらに地下街で暮らしていた犯罪者が紛れ込んでいるという報せをうけましてね……」

 憲兵は下卑た笑いを浮かべながら言葉を続けた。
 憲兵団は、アンナが調査兵団にいることを知っている。だが、なぜアンナがここにいるとわかったのか。

「そういう報せが入った以上、こちらとしては動かないわけにはいきませんから」
「……どこから出た情報だ……そりゃあ」
「残念ながら詳しくお話することはできません」

 おそらく調査兵団の兵士による密告。リヴァイはそう思った。
 兵団内では既にアンナの存在を知らぬ者はない。加えて、アンナが地下街からやってきたことも、その経緯も、数名とはいえ知られている。そこから兵士内で広がり、アンナの存在に疑問を感じた何者かが憲兵団に報告した可能性が高い。

「兵舎内を調べさせてもらいます」
「……兵士の多くはもう休んでいる。時間を考えろ」
「かまいません。此方が勝手に起こして回りますから」
「くだらねぇ嫌疑のために……か?お前らが探してる、その犯罪者の名前を教えろ。俺が引っ張ってきてやる」
「……」

 憲兵たちは黙り、互いに顔を見合わせている。憲兵らは地下街の人間がここにいることを知っていても、それがアンナだということまでは知れていないらしい。

「どうした……名前も解らねぇのか?そいつの罪状は何だ……言ってみろ」
「ざ……罪状など、後で聞き出せばいい」
「随分な見切り発車だな……重い腰を上げたかと思えば……。それで、その犯罪者とやらがここにいなかった場合、てめぇらどう責任をとるつもりだ」
「……」
「証拠もねぇのに妙な疑いかけやがって……調査兵団丸ごと敵に回すつもりか……?」

 憲兵のひとりひとりに向かって睨むような厳しい視線を投げつける。目が合うとみな黙り混み、気まずそうに目を逸らした。

「……今日のところは引き上げるぞ」

 班長とおぼしき男が部下たちに向かってそう言った。先ほどまでの勢いが嘘のように、張りの無い声だった。ただ去り際、リヴァイに向けて冷たい視線を投げつける。
 リヴァイは去っていく憲兵たちの背中を見つめていた。
 やがて彼らの姿が闇の中に紛れ見えなくなった頃にようやく、リヴァイは踵を返した。アンナに外に出ても構わないと、そう告げなければならない。




 アンナの耳に届いたリヴァイと憲兵との間で交わされたやりとりは、断片的なものだった。詳しく聞き取れてはいないが、憲兵が自分を探しているらしいことは、はっきりと理解できた。
 憲兵は強気に出ているようだった。声の張りに漲る自信を感じた。しかしリヴァイは憲兵が兵舎内を立ち入ることを頑なに拒否していた。
 結局、憲兵たちは兵舎内を調べることなく立ち去っていったのだ。


「……どうしてだ」

 憲兵たちが去った後、リヴァイが部屋を訪れた。「灯りを付けろ」と指示をされ、ランプに火を入れながら、アンナは問い掛ける。

「なにがだ」
「憲兵たちが探していたのは私だろう」
「……聞いてたのか」
「聞こえてきた。……どうして憲兵に私を引き渡さなかった」

 2度目だ。憲兵を前に、リヴァイが自分を庇ったのは。

「……もう知ってると思うけど……私は地下街で罪を犯している」
「……」
「盗みもやったし、他人を傷付けた数だって覚えてない。……それに……」
「……なんだ」
「……いや……。とにかく、私を庇うことは共犯とみなされてもしかたがない。……お前、立場が悪くなるんじゃないのか」

 リヴァイの視線がアンナの顔を射抜く。その内心を推しはかるように。

「……アンナ」
「……」
「誤解するな……俺はお前を庇ったつもりはない」
「……じゃあなに」
「言っただろうが……お前の力を巨人を絶滅させるために使えと」
「そのためにわざわざ自分の立場を悪くしたのか」
「立場なんて関係ない……いずれお前がその力で巨人を大勢倒すようになれば上も……兵士たちも、文句は言えなくなる」

 調査兵団内で自分に向けられる敵対心や警戒心、嫉妬。リヴァイはそれらを把握しているのだと、アンナは気付く。

「……ずいぶん強気なんだな。私がそこまで強くないかもしれないのに」

 常人よりも優れた身体能力を持っていることは自覚している。だが、それが役に立たないことがあるのだということも、アンナは知っている。力を持ってしても、虚しい時間を過ごしてきたのだ。
 リヴァイは何を根拠に、この力が巨人を絶滅させるために使えると考えているのだろう。実際私は、母親が巨人に食われていくのを見ていることしかできなかったというのに。

「俺にはわかる……お前の中にある力は本物だ。だからこそ地下から引っ張り上げてきた」

 リヴァイは言った。アンナは「頼りない根拠だな」と言葉を返す。リヴァイからは何も返ってこない。


「明日も訓練だ……とっととクソして寝ろ」

 それだけ言い残して、リヴァイは部屋を後にする。
 ひとりになったアンナはランプの火を吹き消し、ベッドの中に潜り込んだ。ベッドの中で目を閉じても、リヴァイの真っ直ぐな瞳が浮かんできて、うまく眠ることができない。

 リヴァイが自分に寄せているのは、信頼とか友愛とか、そんなものじゃない。ただ単純に、強くなることを望まれているのだ。巨人を殺すための道具として。
 とくに不快ではなかった。不思議なことだが、心地好ささえ感じている。
 必要とされていることが?それとも、力を認められているということが?アンナ自身にもよくわからないが、決して嫌ではない。

 アンナは明日の訓練のことを考えた。
 明日は今日よりも上手くこなせるよう努力しよう。そんなことを思いながら、アンナは深い眠りに落ちていった。