左目の傷をなぞる、細く温かな指先。その手付きに慈愛が満ちていたのは、気のせいじゃないはずだ。

目を開くと病院の白い天井が見えた。視線を下ろすと、ベッドの端に顔を隠すようにしてうつ伏せになっているエリの姿。
息をすることさえ潜めたエリは、幼い子供のように頼り無さげで。
考えるよりも先に手が動いて、彼女の頭を撫でていた。


「・・・・カカシ」

「・・ん」

「生きててよかった」

起き上がったエリは、オレを真っ直ぐ見詰めてそう言った。

「カカシが・・・生きててよかった」

エリの瞳から頬へ、涙が伝う。
誰かが泣いているのを見て、綺麗だと、そう感じたのは初めてだった。


* * * * *


ついさっきまで雨が降りだしそうな雲行きだったのに、気付けば空に太陽が顔を出している。雲の隙間から落ちてくる太陽の光が、綺麗だった。


「やっと着いたー!」

目の前に木ノ葉の正門が見えた所で、隊員の一人が声を上げる。
今回の任務は厳しいものだったし、火の国から距離のある場所で、移動にもそれなりに時間が掛かった。だから、里へ戻ったことに浮かれてつい声を上げる隊員を咎める気にはなれなかった。
門を潜った所で、隊員がほっと安堵の息を吐いた。張りつめていた肩の力が僅かに抜ける。

「綱手様への報告はわたしが行くわ。みんなは怪我してるし、病院へ行って」

今回の任務では隊員各々が大なり小なり負傷していた。命に関わるような大袈裟なものではないとはいえ、大事に越したことはない。
わたしの指示を受け、隊員たちは病院へ向かった。

病院という単語で思い浮かんだのは、あの部屋だ。太陽の光がたっぷり注いでいた病室。
チャクラ切れで入院していたカカシのもとへ訪れたあの日から、もう3週間になる。



『・・・・本当は、カカシが何より大切だから・・・・』

『・・・エリ・・・』

『・・ごめん・・・もう、十年以上も経ってるのにね・・・』

わたしがそう告げると、室内に沈黙がやってきた。それは僅かな時間だったけれど、わたしにとって永遠にも感じられた瞬間。

『・・・・エリ――』

カカシがなにか言葉を紡ごうとしたのと、病室のドアが開いたのは同時だった。
カカシとわたしは揃ってドアの方へ視線を向ける。そこに立っていたのは、白衣に身を包んだ女性だった。

『はたけさん、お薬お持ちしました』

看護師の女性は、数種類の薬品を乗せたトレーを手にしている。
その時のわたしは、絶妙なタイミングで現れた看護師に救われた気がしてならなかった。
看護師に小さく会釈をして、立ち上がる。

『・・カカシ、今日は帰るね』

『え?・・・ああ』

『・・・・また来るから』

そう言って病室を後にしたけれど、わたしが病院へ訪ねることはなかった。カカシのもとへ訪れた翌日に、今回の任務が入ったのだ。
3週間も経っていればカカシのチャクラも回復して、今頃はもう任務に出ているだろう。

カカシはあの病室で、何を言おうとしていたのだろうか。
カカシの言葉を聞くのが怖くないと言えば嘘になる。
カカシは優しいから、オビトとリンを守れなかったことへの罪悪感を抱えながらも、わたしに微笑んでくれるだろう。
だけど、わたしはカカシと向き合いたい。
欲しいのは、罪悪感を孕んだ優しさなんかじゃないから。



「うむ、任務ご苦労」

任務内容とそれに従事した忍たちの怪我の様子など、全て報告し終えたところで、綱手様が言う。

エリ、お前には明日から新たな任務に入ってもらう」

綱手様は机の上に乗せられた資料に目を向けながら続けた。

「火の国内に潜入した他里の偵察部隊の捕縛だ。詳細は明日、先行している部隊からの報告が着き次第伝える」

「はい」

資料に向けられていた綱手様の視線が上げられ、わたしの顔をじっと見詰める。

「このところ随分大人しくなったねぇ、エリ。里に戻ってきたての頃は『長期任務を寄越せ!』と吠えていたのに」

「・・・『寄越せ』だなんて言ってませんよ・・・・」

「急に大人しくなったのは、どういう心境の変化だ」

美しく微笑む綱手様を前にすると、誤魔化しなんて意味がないと、そう思わせられる。


「・・・守りたいと思うものの傍にいられることの有り難みに、気付いただけです」

かなり遅いですけど。そう付け足して苦い笑いを漏らす。綱手様は「そうだな」と言って、笑った。

火影室を退出し、立ち寄ったのは待機所だった。今は任務が多く皆出払っているのか、人影は無くがらんとしていた。
誰もいない待機所に一人佇んでいると、自分だけが置き去りにされたような感覚に陥いる。
こんなことで寂しさを感じるなんて、感傷的すぎるにも程がある。呆れる思いでひとつ溜め息を吐いて、待機所を後にした。

屋外に出ると、待機所にいた時には気付かなかった喧騒が耳に届く。アカデミーで授業を受けている子供たちの声や、街から聞こえてくる、生活を営む活気ある音。
これらに安堵させられて、正面に視線を向けた。
火影邸を区切る壁が辺りを囲う。その中央にある門の柱に背を預ける格好で立っている人物は、わたしの存在に気付いているのだろうか。


「・・・任務に出てるんだと思ってた」

何してるの、こんなところで。わたしがそう声を掛けると、カカシは開いていた小説をパタリと閉じた。

「んー・・さっきここに入ってくのを見かけたから、待ってたんだけどね」

「・・・・待ってたって・・・わたしを?」

「オレが待ってる相手なんて、お前以外に誰がいるの」

カカシはそう言って、少し目を細めた。

「・・・・身体はもう大丈夫なの?」

「ま、お陰さまで任務に出てるくらい回復したよ」

「なら良かった」

会話はそこで一度途切れ、カカシは何か思案するように、どこか遠くへ視線を向けた。次の言葉を待っていたわたしに、「ちょっと歩かない?」と、カカシが言う。
「いいよ」、と答えて、二人並んで火影邸を後にした。何処へ向かうのかは、わからないまま。


「・・・・・」

「・・・・・」

お互いに口を開くこともなく、ただ黙々と歩き続ける。
賑やかな大通りを少し歩いた所で脇道に入ると、先程までの賑やかさとはうって変わって、わたしとカカシ以外に人の姿はなかった。
然程広くもないこの道を進んでいくと、先に見えてくるのは住宅地だ。


「・・・懐かしいね・・この道」

「ああ・・・」

この道は、わたしたちがまだアカデミー生だった頃、毎日一緒に歩いた道だ。
随分時が流れて、あの頃といくらか様子が違っていても、あちらこちらに当時の面影が残っている。

今も残された数々の面影が鍵となり、普段は閉じられている記憶の蓋が大きく開いて、わたしの中に流れ込む。

幼い頃の笑顔、寂しげで遠い背中、傷付いて悲しげな瞳。
灯馬走の様に流れる記憶。その中にはいつだって彼の姿がある。
一気に溢れて、やがて引き潮の如く去っていく記憶たち。全て去った後に残されたのは、たったひとつ。
ずっと昔からあった、わたしの恋心。


歩んでいたわたしたちは、住宅地の一角にある広場で足を止めた。この場所も、随分懐かしいなと思う。
アカデミーに入学する前、カカシはよくこの広場で修行をしていて、わたしはそんな彼を追うのが日課だった。

視線を感じ、隣を見るとカカシがわたしを見詰めていた。カカシの視線を受け止めて、真っ直ぐ見つめ返す。


「・・・・オレはいつも大切なものに気付くのが遅すぎる」

カカシが、今にも泣き出しそうな、寂しい表情でそう言った。

エリはずっと傍にいたのに、オレは突き放すばかりだった。気付いた頃にはもう、お前は里から遠く離れてた」

「・・・・・」

「それでもいいと思ってたんだけどね。お前が生きてさえいれば。・・・・でも」

「・・・でも・・・・?」

「やっぱりオレは、自分の手でエリを守りたいんだ」

「・・・・それって・・・」

「・・・・・」

「それって・・・わたしに‘傍にいてもいい’って言ってるの・・・?」

わたしがそう問い掛けると、カカシは「ちょっと違うな」と言って、優しい笑みを浮かべた。


「‘傍にいて欲しい’って言ってるの」


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