「禿も供に付けんと行かはるのはあきまへん」

「おかあさん、そない心配せんといておくれやす」

新選組の沖田から寄越された文を受け取り、その中に示されていた通り彼らの屯所へ向かおうと菊乃屋のたたきへ降りた唄月に、女将は最後まで連れを1人付けることを頑なに勧めた。
出掛ける支度を整える間も、女将はずっと唄月が1人で新選組の屯所へ向かうことを反対していた。
女将のその行動は、唄月の身を案じるがこそだと唄月自身よく理解している。それでも唄月が女将の提案を撥ね付けたのは、女将が案じる通り新選組の屯所で己の身に危険が迫った時、巻き添えとなるのは自分の供をする者だ。
女将は唄月を1人新選組の屯所へ向かわせることを案じているが、もしも文を寄越した沖田の目的が、唄月を殺すことだとしたら。
だとしたなら、沖田は唄月を殺すのと同様、唄月が連れた供にまで手を掛けることをいとわないだろう。ならば初めから供を付けずに1人で向かう方が得策であると、唄月は思った。


「ほな、いってまいります。座敷に揚がる刻限までには戻ります」

未だ不安げな女将に恭しく頭を下げ、唄月は菊乃屋の暖簾を背に歩き出した。
本心を晒すなら、唄月とて本当は沖田の待つ新選組の屯所へ一人きりで向かうのは些か不安ではあった。
何を考えているのか皆目検討もつかない沖田が、唄月を屯所に招く理由が、文にあった様に‘吉野屋の礼’だとは思えない。
それでも唄月は何故か命を奪われる気がしなかった。
理由などない。沖田ならばわざわざ自分を招いてまで殺す様な手の込んだ真似をしないと、唄月は思うのだった。
しかし人の心内など、気紛れに移ろうもので、それを読みとく事は不可能だ。
島原大門を潜り、唄月は自分に言い聞かせる様に心の中で呟いた。



島原から新選組の屯所がある壬生まではそう遠くはない。いつだったか、沖田が子供たちと遊んでいた寺が見えれば、すぐ側が彼ら新選組の屯所である。
誠の文字が染め上げられた旗の掛かる屋敷の門前に立った唄月は、心を落ち着かせる為だったのか、ひとつ息を吐き出す。
門を潜って敷地内へ足を踏み入れても、この屋敷内に人がいるのかどうかさえ怪しく思われる程静かだった。

自分が此処へ招かれたのは何かの間違いだったのだろうか。屋敷の入り口に立った唄月はそう思った。
唄月を招いておきながら、門前にも、そして玄関先にも迎えの一人すら立っていない。
島原芸妓として生きる彼女にとって、男からの文は逢いたいという申し出であり、客はいつだって芸妓の到着を心して待ち、歓迎して迎え入れるというのが島原での仕来たりでもあった。
いくら座敷ではないとはいえ、こんな不作法な歓迎の仕方は初めてだと、唄月の芸妓としての誇りが心内に炎を宿す。
もしこのまま誰も迎えに出てこぬ様であれば、いっそ引き返してしまおうか。
唄月がそう思ったのとほぼ同時、目の前の引戸がゆっくりと開く。
唄月は顔を上げて引戸を開けた人物を見た。
そこに立っていたのは女だった。娘と呼ぶには些か年を取ったこの女は、きっとこの屋敷の奥方だろう。


「・・・どちらさんどす?」

見慣れぬ顔の唄月に対し、あからさまに訝しい表情を向ける奥方。そんな奥方に向かって、唄月は少し頭を下げた。

「菊乃屋の唄月と申します。・・・沖田総司はんおいでどすか?」

沖田の名前を口にした途端、奥方の表情が一瞬ひきつったのを唄月は見逃さなかった。

「・・・どうぞ御上がりください」

奥方は唄月を屋敷内へと促す。

「ほな、こちらでお待ちください」

奥方に案内され通された客間には誰も居らず、もうすぐ夕暮れ時のせいか薄暗い。

「今沖田はんをお呼びします」

「おおきに」

奥方が客間の襖を閉ざすと、暗がりが一層濃くなる。


「待たせたな」

静まり返った室内に響いた低い声に、唄月は顔を上げる。
開いた襖の向こうから姿を現したのは、漆黒の髪を高い位置で結い上げた男。新選組副長の土方歳三だ。


「本当に1人で僕らの屯所まで来るなんて、いい度胸してるよね」

唄月の顔を見るなり愉しげな声でそう言ったのは、土方に続いて部屋に入ってきた沖田だった。
先に部屋に入った土方は、唄月の正面に腰を据える。
沖田は襖を閉めると土方の後ろを歩き、入口の真向かいの壁に背を持たせ掛ける格好で腰を下ろした。

二人の男へと交互に視線を向け、どちらかが口を開くのを唄月は待った。
唄月宛てに文を寄越したのは沖田だ。沖田がこの場にいるのは当然としよう。
何故土方という男が今自分の前にいるのだろうか。唄月にはそれが無性に不安に思われた。


「急に呼び立ててすまなかった」

沈黙を破ったのは唄月の正面に座る土方だった。
どうやら自分に文を出したところからこの場に至るまで、全ての流れはこの土方が握っているのだろうと、唄月は悟る。

「・・・名を唄月と言ったな」

「へえ」

土方の切れ長の目が、何かを見透かそうとする様に唄月を見据える。
唄月は土方のこの目が苦手だと、そう思った。

「お前、俺たちが吉野屋に討ち入りに入った晩、あの座敷に居たな」

「へえ、村田はんから逢状もろておりました」

「村田たちの企て、事前に知っていたのか」

「・・・・知ってたかて、新選組のみなはんにお伝えせなあかん義理も決まりもわてら芸妓にはあらしまへんえ」

唄月の、無鉄砲とも挑戦的とも取れる物言いに、土方は少なからず狼狽した。
部屋の隅に腰を下ろす沖田がこのやり取りに口角を上げるのを、唄月は視界の端で見ていた。


「・・お前を呼び立てたのは他でもない。ひとつ仕事を頼みたい」

「・・・仕事・・どすか・・・?」

「お前たち芸妓は仕事がら村田たちのような不逞浪士とも繋がりやすい」

「・・・・・」

「そこでだ、吉野屋の時の様に謀叛を企てる輩を見つけ次第俺たちに報せる役目をして欲しい」

土方が眉間に皺を寄せて語る言葉に耳を傾けながら、唄月は沖田の顔を見やった。
沖田は何を言うでもなく、視線はどこか遠い所へ向けられている。

「・・・それはわてに、新選組からの間者として座敷に揚がれと言うてはるんどすか?」

「そう取ってもらって相違ない」

土方の刺すような視線が唄月を射ぬく。

沖田の名前で差し出された文も、礼がしたいと述べた文面も、全てはこの為だったのだ。自分を彼ら新選組の為に利用する、ただその為に。
そして土方という男は、きっと新選組の為なら利用出来るものは何でも利用する気なのだ。
唄月にはそれが酷く恐ろしかった。

この場での回答などひとつしかない。もし回答を間違えれば、待っているのは死。
そう思った瞬間、唄月の脳裏を過ったのは、吉野屋の座敷に揚がったあの晩、自分の目の前で彼らに斬り殺された村田の無惨な姿だった。

唄月は覚悟を決め、ぎゅっと固く瞳を閉じると、ゆっくりと頭を下げた。


「・・・・その話、御断りさせて頂きたく存じます」


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