「唄月天神、もうすぐ太夫上がりするてほんまどすか?」
揚屋から逢状を受けた唄月は、今宵芸妓を一人連れ菊乃屋を出た。
揚屋に向かう道すがら、唄月に声を掛けたのは同じく菊乃屋に籍を置く鹿恋の少女だった。
「・・・そないな話、誰から聞いたん?」
唄月は足を止め、数歩後ろを歩いている少女を見やった。
少女は気まずそうに唄月から視線を外す。
「・・・この前女将はんと桜田こったいが話とったの聞いてしもたんどす・・・」
俯きながら小さな声でそう語る少女に、唄月は吐息を洩らした。
「人様の話盗み聞きやなんてお行儀の悪いことやで」
「・・・えらいすんまへん。天神、女将と桜田こったいには言わんといておくれやす」
「言わへんよ。そやけどあんたも鹿恋、次は天神上がりする身や。下におる子らに笑われへん女子にならなあきまへんえ」
唄月の言葉に少女は、自分のした事への恥ずかしさが募ったのか、がくりと肩を落とした。
そんな少女を見兼ねて、唄月は優しい笑みを作る。
「ほら、そないな顔しはってたら座敷で待っとるお客はんも楽しい気分になんかなれへんよ。笑ってなあかんえ」
唄月の言葉で、少女は顔を上げ、微笑んだ。
唄月はそんな彼女の様子を見て、再び足を進める。
「・・・唄月天神」
「なんや?」
「・・・天神は・・・もう水揚げしはったんどすか?」
少女の問い掛けに、唄月は彼女を振り返る。
「まだや。わては男はんを知らへん」
「けど・・・いつかは・・・」
少女はそこで言葉を切った。ゆらゆら不安げに揺れる瞳で唄月を見つめている。
彼女が何に対し不安に駆られているのか、唄月には手に取るように理解出来た。
「あんたは好いてもおへんお人に抱かれるのが怖いんやろ」
唄月の言葉に、少女はただ頷いた。
「天神も太夫にならはるのやったらいずれはお客はんと床を共にせなあかんのどっしゃろ?・・・好いてもおへんお人とやなんて・・・・天神は嫌やないんどすか?」
少女は不安に揺れる瞳で問い掛ける。
「わては怖くあらへんよ」
唄月は優しい笑みを浮かべたまま、はっきりとそう口にした。
島原は格式高い花街だ。唄月が籍を置く菊乃屋も格式高い置屋であり、芸妓は芸は売っても体は売らない。
しかし、それはあくまでも表向きであった。
太夫上がりするともなれば支度金は多額で、その旦那になる男と床を共にするのは影の慣わしである。
禿から半夜、鹿恋、そして天神と、島原で時を過ごした唄月は歳月を重ねる程にその慣わしを理解し、そして受け入れた。
未だ旦那のおらぬ身だが、いつかはそういう時が自身にもやってくるのだろうと、唄月はいつからか思う様になっていたのだ。
諦めではない。
島原で生きていく為には避けられぬ道。
唄月はそう享受している。
「あんたももう鹿恋・・・島原に来たばかりの禿やあらへん。それやったらわかっとるはずや。わてら芸妓は町娘とはちゃう。好いたお人と一緒になれるなんてことあらへんのや」
自分より幾らか若い娘には酷な台詞かもしれない。
しかし、それは変えようもない事実なのだと、唄月は心を鬼にして語る。
「ええか、島原で芸妓になったからには一人の女子としては生きられへん。芸妓としてしか生きられへんのや」
唄月はそれだけ言い放ち、歩き出す。
振り向きはしなかったが、後ろから下駄の音が聞こえ少女が後に続いているのだと確認し、胸中そっと安堵していた。
後ろを歩く少女、そして自分も、ここ島原で芸妓となったからには芸妓としてしか生きられぬ。
それがたった一つの生きる術だ。
ならば、芸妓として誰よりも美しく、誇り高く生きたいと唄月は思った。
『僕は僕のやらなきゃならいことをやるだけだから』
唄月の脳裏に、そう語った沖田の顔が蘇る。
『僕らが芹沢さんたちを暗殺したんだ。僕も暗殺には参加してた』
『君もこのことを無用に他言するなら、僕は君を殺すよ』
沖田の言った‘やらなきゃいけないこと’とは、人を斬ることなのだろうか。
やらなきゃいけないことをやるだけと、そう語った沖田に唄月は、この男は自分と似ているかもしれないと、そう思った。
唄月も、芸妓として生きるしかないからだ。
芸妓としてしか生きられぬ事実を嫌だと思った事はない。
沖田は、どうなのだろう。
人の命を奪うことのみを生とするなら、あの男はそれを悔いてはいないのだろうか。
「天神、どないしはったん?」
鹿恋の少女に声を掛けられ、唄月は我に返る。
気付けばそこは今宵逢状を寄越した揚屋‘吉野屋’の前で、唄月は身動きせずぼんやりと立ち尽くしていた様だ。
「どっか具合でも悪いんどすか?」
訝しげな表情で自分を見る少女に、唄月は笑顔を向ける。
「そないなことあらへんよ」
「・・・でも・・・なんや天神苦しそうな顔しはっとりました」
少女の言葉に、唄月は苦笑いが洩れる。
「わては平気や。苦しいのはわてやおへん」
ほなまいりますえ。唄月は少女にそう声を掛け、吉野屋の戸をくぐった。
人を斬ることのみを生としているとしたら、後悔していようとしてなかろうと、ただ苦しいだけではないのだろうか。
唄月の胸中にあるのは、自分をも『殺す』と言った男への不可思議な感情だった。
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