湘北戦、試合終了の笛が鳴った瞬間、俺の頭に『負け』の二文字が浮かんだ。
魚住さんが泣いていて、それを見た福田が泣いた。越野のヤツなんか床に膝を着いて悔し泣きしてたな。
勝ちたかった。このメンバーで全国へ行きたかった。でも勝てなかったんだ。勝てると思ってたんだけどな。
そう簡単に思う様にはいかないんだよな。
悔しさとやり切れなさが身体中を渦巻いて、それをどう処理すればいいのか解らなかった。
表彰式の間も、どれもこれも現実味なんかなくて、ベスト5だかなんだかに自分の名前が呼ばれた時にも、身体だけが勝手に動く感じで、頭では何も考えちゃいなかった。
表彰式が終わった後、監督から労いの言葉を貰った。普段俺達を誉めることなんてしない監督が、「お前達はよくやった」と言った。それを聞いて、何人かはまた涙を流してたっけ。
ロッカールームで解散して、俺はすぐに出口に向かわず、もう一度館内に戻った。
誰もいないコート。ついさっきまで俺達が走り回っていた場所だ。
ふと客席に目を遣ると、華梨が座っているのが見えた。
人が疎らになった客席で、彼女だけがポツンと一人浮き上がって見えた。
『勝ちたかったんだけどなぁ』
誰にも漏らす事無かった俺の本心。なぜか華梨には話す事が出来た。
華梨はそんな俺の横で泣いた。
華梨の涙を見ていたら、俺の中に渦巻いていたものが消化されていった。
『負けて悔しい』と、俺の代わりに泣いてくれてる様な気がしたから。
*
「タツヤも見にくればよかったのに」
『そんなにいい試合だったのか』
「…うん、負けちゃったけどね」
仕事終わりの帰宅途中。最寄駅から家までの道のりを、タツヤに電話しながら歩く。
内容は、数日前に行われた陵南のインターハイ予選最後の試合。その試合がどんなに凄くて、どんなに悔しかったかを電話越しのタツヤに話して聞かせていた。
だけどあの試合がどんなものだったかなんて、あの場にいなくちゃ何も解らないだろう。タツヤも電話の向こう側で、うんうんと頷くばかりだったし。
「ねぇ、もうすぐ夏じゃない?」
『あぁ…もう6月も終わるもんな』
「わたし夏休み取ろうと思って。そしたら二人で旅行とか行かない?」
『…どうだろうな…。今忙しいんだよ、こっち』
タツヤの言う「こっち」とは、東京だ。
神奈川とはたいした距離でもないのに、まるで別世界みたいな言い方が嫌だった。
『取れそうだったら休み取るから』
「…うん」
またねとお互い言い合って通話を終えた。
そういえば、久しぶりの電話だった気がする。最近は掛けても繋がらなかったり、返ってくるのはメールだけだったり。
ふぅ、と、小さくため息をついて携帯をバッグの中にしまう。
声が聞きたいと思っても、なかなか通じる事のない電話。
もう少しわたしの為に時間を取ってくれてもいいんじゃない?今にもそう口にしてしまいそうなのを必死で堪える。
『仕事とわたし、どっちが大事なの?』だなんて、そんなお決まりの台詞を吐くような女にはなりたくなかった。
家に着き、ドアノブを回すと鍵が掛かっていなかった。
玄関には大きな靴。彰が帰っているんだろう。
「ただいまー」
室内に声を響かせてみたけれど、何の返答もない。
彰のことだ。どうせ自分の部屋で寝てるんだろうけど。
昼食を食べて以降何も口にしていないせいで胃が軽い。夕食の前に甘いものが食べたい。
そういえば昨日買って置いておいたプリンが冷蔵庫にあったはず。そう思い冷蔵庫を開けて中を見渡す。けれどプリンらしきものは見当たらない。
楽しみにしていたわたしのプリン。それが無くなるなんて。
わたしは冷蔵庫を閉め、プリンを奪い去った犯人のもとへ向かった。
「あきらー!」
彰の部屋のドアを激しく叩きながら、大きな声で呼んだ。けれど中からはなんの反応もない。
ドアノブを回して引くと、ドアはゆっくり開いた。
この部屋の個室にはそれぞれ鍵が付いている。
彰と一緒に住み始めた頃からの習慣で、わたしは自室に入るとき、鍵を掛けておくのだけれど、彰のこの無防備さといったら・・・。
呆れる反面、自分には気を許してくれているようで、少し嬉しかった。
まぁ彰の場合は、ただ鍵を掛けるのが面倒臭いとか、閉め忘れたとか、そんな理由な気がするけど。
開いたドアの隙間から室内をのぞき見る。
部屋の端に置かれたベッドの上で、彰は規則正しい寝息をたてていた。
ドアをさらに開け、室内に入り込む。
彰が出入りするたびに開閉するドアの隙間から、度々中が垣間見えることあったけれど、入るのは初めてだった。
「まあまあキレイな方かな」
眠りこける彰を尻目に、一人呟く。
脱ぎ捨てられた制服が床に散らばっていること以外、特に汚い印象のない部屋だった。もっと汚れてると思ってたんだけどな。
「・・・華梨・・・?」
名前を呼ばれ振り返ると、彰がベッドの上で起き上がり、頭を掻きながら大きな欠伸をしていた。
「・・・なにしてんの?」
まだ開ききらない目をわたしに向け、彼は言った。
「・・・もしかして夜這い?」
ベッドの上で横になったまま、掛けていた布団を捲ってもう一人入れるようなスペースを作り、上目使いでわたしを見た。
「はい、どーぞ」
「なにが『どうぞ』なのよ」
「え?それ言っていいの?」
無邪気な笑顔でわざとらしい口調の彰。捲くれ上がったTシャツの裾から、筋肉のついた腹がちらりとのぞいている。
腹に蹴りを入れてやりたい衝動に駆られたけれど、それは止めて、代わりに大きなため息をついた。
「・・・制服、掛けておかないと皺になるわよ」
それだけ言い残し、リビングに戻った。
彰の部屋を出る寸前、彼のテーブルの上に食べ終えたプリンのカップが載っているのを目の端で捕らえたけれど、怒る気力が湧かなかった。
夕飯を食べ、シャワーを浴びて、わたしはリビングでテレビに目を向ける。テレビを見てはいたけれど、その内容はちっとも頭に入っていなかった。
わたしの頭の中を占めていたのは、タツヤと交わした会話。
もうちょっとわたしとの時間を取ってくれてもいいんじゃないの?
何言ってるの。彼だって仕事なんだからしょうがないじゃない。
さっきからこの繰り返し。
タツヤにとって物分かりのいい女でありたいのに、わたしの我が儘を叶えてくれる位の愛情を示して欲しい。
葛藤を繰り返すわたしの脳内。それだけでもうくたくただった。
「華梨」
シャワーを終えた彰が冷蔵庫から出したスポーツドリンクを手にして、真正面に腰を下ろした。
「んー?」
「怒ってる?プリン食っちゃったこと」
背中を曲げてわたしの顔を覗き込む様にしながら、彰は言った。下ろした髪の間から、まっすぐな瞳でわたしを見つめる。
「別に怒ってないわよ」
「ホントに?」
プリン一個で怒る程、食い意地張ってないから。怒っていないことを示す様に微笑みを作ってわたしは言った。
彰は「ならいいけど」と言ったけれど、顔は笑っていなかった。
「なんで怒ってるって思ったの?」
「だってさ、いつもなら怒鳴りそうなのに何にも言わないからさ。逆にずげえ怖いっていうか・・・」
真面目に考えるような顔をして彰は言った。
ていうか、何気なく酷い事言われてる気がする。
そりゃ楽しみにしてたプリンを食べられてしまった事には腹が立ったし、いつもなら間違いなく怒鳴ってたと思う。
だけど今日はそれどころではない。
怒る気力が湧かないくらい、わたしは他の事で一杯なのだ。
「それより彰、最近帰るの早くない?」
頭の中に蘇るタツヤの声を振り払いたくて、彰にそう問い掛けた。
実際彰はここのところ帰宅時間が早い。土日も家に居る、もしくは釣りに出ている時間が多いような気がする。
インターハイ予選が終わって部活の練習が減ったのか、それとも彰がサボっているのか。
後者のような気もするけれど、授業ならともかく部活の事にまで口煩く「サボらずに行け」だなんて言うのはどうかと思った。
それに彰だって、インターハイの後で息抜きしたいのかもしれないし。(インターハイ前に気張っている様には見えなかったけど)
「もうすぐテストだから部活ないんだ」
部活がないというのがホントかは解らないけれど、テストがあるというのは真実だろう。
「期末試験でしょ?」
「そう」
「勉強とかしてる?」
「いや、全く」
あまりにも堂々と言うので、わたしはため息をついた。
「ちょっとはしとけば?」
「んー・・でも全然わかんねぇし」
「普段からやらないからでしょう」
彰がどれほど勉強が出来るのかは知らないが、彼の勉強に対する‘諦め’が滲み出ている台詞に、またひとつため息が漏れる。
「華梨は勉強得意だった?」
「まあ・・それなりに・・・ね」
「ならさ、俺に勉強教えてよ」
「・・・は?」
なんだか面倒臭いことになってしまった。
「だから、そうじゃないってば」
「え?違うの?」
「違うわよ、解き方はさっきの問題と一緒でしょ」
リビングテーブルに教科書やら問題集やらを何冊も広げ、わたしと彰はさっきからこんなやり取りを何度か繰り返している。
見栄を張って、勉強はそれなりに出来たみたいな言い方をしたけど、正直なところ、そんなにいい成績ではなかった。
『教えて』だなんて言われたけれど、得意でなかった上に高校を出てもう数年。いくら解らないだなんて言ってても、現役高校生である彰のほうが理解してるに決まってる。そう思っていたんだけど・・・。
「あんた授業中なにしてるわけ?先生の話ちゃんと聞いてる?」
「うーん・・・授業中はほとんど寝てるからなぁ」
悪びれもせずに言う彰。
まさかここまで勉強出来ないとなると、塾に行ったほうがいいんじゃないだろうかと、本気で心配してしまう。
「・・・・彰さ」
「うん」
「バスケ上手くてよかったわね」
「ありがとう」
「褒めてないわよ」
「だと思った」
彰はペンの動きを止め、わたしは教科書を捲るのを止めて、ふたりして小さく笑った。
「よっしゃ。今日一晩くらいは彰の試験のために頑張りますか」
「一晩て、一睡もなし?」
「当たり前でしょ。全教科やるわよ、全教科」
腕まくりしながら彰にそう言うと、彼はいかにも困ったように眉をひそめた。
「なんか華梨らしくなってきたな」
わたしがよこした問題集とにらめっこしながら、彰が呟いた。
「華梨帰って来てからずっと元気なかったじゃん」
ちらとわたしを見て、再び視線を落とす彰。
「・・・そう・・・?」
「うん。プリン食っちゃった事を怒らなかった時に『変だなー』と思って」
「彰の中じゃわたしってそんなに食い意地張った人間なワケ?」
若干ショックを受けたわたしは、恨みがましく彰をねめつける。
「冗談だって」
「・・・・」
「いや、でもさ、飯食ってる間も何も話さなかったろ?」
「そ・・・」
そんなことないでしょ。そう続けようと思ったけど、止めた。
確かに今日は帰宅してからずっとぼんやりしていたのだから。
「なんかあったの?」
彰は至極真面目な顔してそう言った。
わたしは、思わず笑ってしまう。
「・・プッ・・・アハハハ」
「・・・?」
「ああ、ごめん、彰が可笑しくて笑ったんじゃないの」
タツヤとの電話を終えてから、わたしの頭を占めていたタツヤへの不満だとか、自分に対する嫌悪感とか、ぐちゃぐちゃした感情をいつのまにやら綺麗に忘れて、今や彰の試験勉強の事でいっぱいになっていたことが可笑しかったのだ。
「よくわかんないけど華梨が元気ならそれでいいよ」
「ふふっ。ありがとね、心配してくれて」
わたしがそう言うと、彰は笑った。
ホントに変な子。図らずも彼に元気づけてもらった。
彰の暢気さや穏やかさがあたしに伝染してきたみたい。
「華梨も元気になったことだしさ、もう寝ない?」
「バカねー。元気になったからなおさら頑張らないとねー」
いっとくけど、わたしはスパルタよ?そう彰に言ってやると、困ったような顔をしながら笑った。
「あ」
「どうしたの華梨?」
「授業料はプリンでいいからね」
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