友人のところに逃げ込み、それでも意志薄弱なわたしは、彰からの電話で、家に戻る事を決意する。家に着いたのは、もう日付が変わる時刻だった。
鍵を入れる前に、一応ドアノブを捻ると、ドアはゆっくりと開いた。玄関はリビングから漏れる蛍光灯の明かりで溢れている。
彰が、いる。
彰とわたしの家なのだから彰がいて当たり前。
電話をくれたのだから、彰がいて当たり前。
それなのにわたしは、彰がいるという現実に、心臓が脈打つのを止めてしまいそうなくらい緊張していた。
どんな顔をすればいい?
どんな声を出せばいい?
今更になって家に帰って来てしまったことを後悔して、玄関から一歩も動けずにいた。
「華梨?」
リビングから声を掛けられ、目を上げればそこに彰の姿があった。
「おかえり」
彰は言った。
いつもそうわたしを迎えてくれた時と、全く変わらない笑顔だった。
「・・・ただ、いま・・・」
わたしが小さな声でそう言うと、彰は満足そうにニコリと笑った。
*
「いってらっしゃい」
「・・・うん、いってきます」
友人の家から帰った翌日の朝。わたしが仕事へ向かおうと玄関のドアを開けたところで、彰がやっと起きてきて、「いってらっしゃい」と、声を掛けてきた。
わたしはまともに彰の顔を見ることが出来なくて、俯いたまま「いってきます」と返した。
部屋を出た所で、大きくため息を吐いた。帰ってくる事を決めたのはわたし自身なのに、もうこんなにも後悔している。
『わたしはね、別に彰の事好きじゃないから』
『そんなつもりで寝た訳じゃないから』
曖昧であやふやに過ごすよりも、ハッキリと口にした方がいいのかもしれない。だけどわたしがそう口にすることで、彰はどれだけ傷つくんだろうか。そう考えると、胸が傷む。
本当は彰を傷つけたくなくて言いそびれてるんじゃなくて、自分が悪者になってしまうのが嫌だから。何処までも身勝手だな、わたし。
彰はそんなわたしを好きだと言った。それが、こんなにも重い。
「・・・彰も、女を見る目ないな・・・」
自嘲的な笑いを漏らし、誰に言うでもなく1人呟いた。
あれから、わたしと彰が寝た夜から数週間が経った。
「ただいま」
季節はもうすっかり冬へと移り変わり、玄関のドアを開けた時に部屋の中に流れ込んでくる空気の冷たさにびっくりする。
「おかえり」
帰宅した彰に、そう声を掛けた。
この寒さだというのに彰は学ランの上にコートを羽織ったりしていない。若さだな、と思う。
「わたし、お風呂入るわ」
「うん」
「ご飯、テーブルの上だから」
「うん、ありがとう」
テーブルから立ち上がったわたしとすれ違い様、彰はわたしに微笑み掛ける。けれどわたしは彰を直視出来なくて、俯いたまま浴室へ逃げ込んだ。
あの夜以来、わたしは彰を避けている。彰が帰宅する頃に風呂か自分の部屋に逃げ込んで、1人で過ごしてばかりいるのだ。
それまでの様に、テーブルを挟んで向かい合い食事をすることもなかったし、同じテレビを見ながらぼんやり過ごす事もなかった。
わたしが彰を避けているのは、きっと彰にもわかってる。
それでも彰は、それまでと変わらない笑顔をわたしに向ける。それが何より辛かった。
もしもあの時、一緒に居たのが彰じゃなくて、大人の男だったなら。慰め役にしてしまったのが、彰じゃなくて大人の男だったなら。
「別に貴方の事は好きじゃないの」と、あやふやなままにすることは無いし、相手だって、きっとそれを理解するだろう。割り切ったままで2人でいるうちに、相手の男に恋をすることだってあったかもしれない。
だけどわたしがあの夜一緒に過ごしたのは彰だ。
わたしが慰め役をさせたのは、大人なんかじゃなくて、ただの高校生だ。
大きなため息を吐いて、洗面所の鏡に映った自分の顔を見た。そこにあったのは、どうしようもない女の、冴えない顔。
わたしは、わたしを好きだと言った彰の気持ちを利用した。
彰を慰め役にさせてしまった。変に期待させてしまった。逃げてばかりで、彰を傷つけた。
心臓が苦しいくらい締め付けられる。
なんて馬鹿で、酷い女なんだろう。いっそのこと、そう失望してくれた方が楽なのに・・・。
ねぇ、彰・・・。
*
華梨と身体を重ねたあの日から、数週間が経った。
あの夜の出来事以来、変化した事があった。ひとつは、俺が毎晩の様にあの夜の出来事を夢に見るようになったこと。
夢を見た後は必ずと言っていいほど変化する自分の身体。
情けなくもあり、華梨に申し訳なくも思ったけど、俺の気持ちに疾しいことなんて何一つ無いのは俺自身が一番良くわかっていたから、別段気にしたりはしない。
そんなことよりも気になった、ふたつめの変化。
それは、華梨があからさまに俺を避ける様になったこと。
華梨が俺の顔を見なくなったことだ。
理由なんてわかってる。華梨は、俺に対して申し訳ないとか、罪悪感を感じてるんだ。
だけど俺にはそんなの関係ないのに。
たとえ彼女が俺を利用したと、そう感じていようとそうでなかろうと、俺の気持ちは変わらない。
もともと長期戦は覚悟の上だし。
そりゃ、華梨の気持ちが俺に無いこの状況は辛いけど、今は彼女の一番近くに居られるだけでいいんだ。
今は、ただ華梨が前と変わらない笑顔でいられるようになれば、それでいいんだよ。
学校から帰宅した俺は、誰もいないリビングを一瞥して華梨の帰宅がまだだと確認してから、自分の部屋のベッドにダイブした。真冬の空気は僅かな隙間を縫って入り込み、部屋の空気をピリピリと冷たいものにしている。
さすがの俺も耐えられなくて、掛け布団を体に巻き付ける。
体が温まるとどっと眠気がやってきて、ゆっくり目を閉じれば華梨の笑った顔が浮かぶ。
見返りなんかいらないとか、華梨の彼氏になんかならなくていいとか、そんな格好良いことは言えないけど、それでもこれだけ強く想うのは華梨が初めてなんだ。
ただ、大切にしたい。
どうすればこの気持ちが彼女に伝わるんだろう。
あぁ、でも今は無理だろうなぁ・・・。
どうしたって答なんか見つけられない問題を前に微睡む。いよいよ深い眠りに着きそうな所で、玄関のドアが開く音がした。
華梨を出迎えようと上半身を起こしたけど、今の彼女は俺の顔を見ても、申し訳なさそうな、切なそうな顔をするだけだと思い、踏みとどまる。
再び布団に包まったと同時に、部屋のドアがノックされた。
「彰、・・・起きてる?」
少し戸惑っていた様だけど、その声は確かに華梨の声で。
「起きてるよ」
そう答えて起き上がり、ドアを開く。そこには真っ直ぐ俺を見上げる華梨がいた。
こうして彼女と真正面から向かい合うのは、凄く久しぶりな気がした。
「今日は早かったんだ」
「うん。でも俺もさっき帰って来たばっかだよ」
「そう」
華梨はそう言うと少し俯いて、目を伏せた。
何か言いだしたくて言いだせないその様。抱きしめたいと、そう思った。
「ねぇ、彰。急なんだけど・・・」
「うん?」
「明日、空いてる?」
予想外の問いに、一瞬なんのことかと思ってしまう。
「明日、日曜だよな」
「うん」
「部活あるけど、午後は空いてるよ」
「そう・・・・じゃあさ、明日わたしに付き合わない?」
そう言った彼女は、優しく微笑んでいた。
「デートならいいよ」
少しふざけてそう言うと、華梨は呆れた様にため息を吐いた。
「じゃあいいよ、デートってことで」
言いながら、華梨は笑った。
この笑顔が見れただけで、それだけで嬉しかった。
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