母親の友人の息子である仙道彰との生活は順調に進んでいた。

同じ部屋で暮らし始めて数週間。仙道彰という少年は、どうやら非常にマイペースな子のようだ。
基本的に朝はのんびり起きてくるし、少し時間があれば釣竿を持ってふらりと出掛け、そしてふらりと帰ってくる。
だからといって別にぐうたらしてるような子でもない。
自分のことは自分でキチンとやっていて、「わたしがやってあげなきゃいけないの?」なんてことは一回もなかった。

同居人が彼で良かった。心からそう思う。
だって、もしも一緒に暮らすことになった子が彼じゃなくて、もっとだらしない子だったり、ナヨナヨした子だったりしたら、わたしはホントに子守をしてあげる羽目になっていたのかもしれないのだから。





「そう、彰くんバスケ部なんだ」

「うん」

4月も後半に突入して、だいぶ暖かくなってきた今日この頃。昼間は太陽の日差しが気持ちいい。無駄に厚着をしてしまい、暑いくらいに感じた。その熱が冷めることがなかったわたしは、仕事を終え家に帰るとすぐに冷蔵庫に入れてあった缶ビールに手を伸ばし、その後帰宅してきた彰と晩ご飯を食べ、テレビをボンヤリ見ていた。
春休み中も、新学期に入ってからも毎日部活に精を出す彼が一体何部に所属しているか知らなかったわたしは、今夜ようやく知るところとなった。

「なるほどねー。納得」

「何が?」

缶ビール片手にうんうん頷くわたしに、彰が問う。

「なんで彰くんがそんなに背が高いのか。バスケやってるからだ」

そう言って、ビールを一口。

「あ、もしかして東京離れてこっちに来たのもバスケの特待生とかかなんか?」

「まぁそんな感じかな」

「へぇー」

そういえば、わたしが高校生だった頃にも同じ学年にバスケの特待生がいた。
今はどうなのか知らないけど、当時陵南バスケ部は神奈川では結構強かったらしく、夏のインターハイ予選や冬の選抜の時期になると、校内新聞にはバスケ部の躍進を伝える記事ばかりだった。
新聞の写真には特待生の彼がよく載っていて、「やっぱり特待生ってだけあるんだな」と思ったのをよく覚えている。


「特待生って、結構凄いんじゃない?彰くんバスケ上手いんだ」

わたしの言葉を聞いた彼は、肯定も否定もせず、テーブルを挟んだ向かい側で微笑んだ。
否定するよりも謙虚で、肯定するよりも自信のある、そんな微笑み。

華梨さんは?部活とかやってた?」

「うん。高校ん時はバレー部だった。弱小だったけど。今も?」

「まぁ女子バレーはあんま強くないかもな」

「やっぱり」

クスリと笑を漏らしてまた一口。

それから暫くはわたしも彰も口を開かず、若手芸人司会の番組が映っているテレビに目を向けていた。ゲラゲラと笑い声の上がる番組の合間に入るCMは有名メーカーの新車のもので、クラシック音楽をバックに平原を走っている。

ヴヴヴヴヴヴ…
わりと静かなCMだったおかげで、マナーモードにしたままだった携帯に気づくことができた。
テーブルの足元に置いてあった鞄の中からケータイを取り出す。
着信中という文字の下に表示された名前を見て思わずにやけそうになったけれど、目の前に彰がいることを思い出し、ケータイを開きながら寝室に引っ込んだ。


「はい。タツヤ?」

寝室のドアを閉め、部屋の明かりをつける。

『あぁ、華梨ごめん、今大丈夫か?』

「ん、平気」

電話越しの聞きなれた低い声に、口元を緩める。

『引越ししたらすぐ電話しようと思ってたんだけどさ、遅くなっちゃったな』

「ううん。わたしもバタバタしてたし」

思わず嘘をついてしまった。
ホントはもうすっかり落ち着いていて、タツヤから連絡が来るのを待っていた。

「そっちも忙しいんじゃない?」

『まあな。でももう落ち着いたから』

「そう」

タツヤはわたしの彼であり、元上司だ。わたしは神奈川へ転勤になったけれど、彼は今も東京で働いてる。
わたしが転勤したのと同時に、東京の方にも新しく入ってくる人間が数人いて忙しくなりそうだ、と、引越す数日前にタツヤは言った。
そんなタツヤにこちらから連絡なんて、と、この数日間控えめな女を演じてみたりしていた。ホントは連絡したくてしょうがなかったくせに。

『引越しも手伝いに行けたらよかったんだけどな。一人じゃ大変だったろ』

「平気。最近の引越し業者はサービスいいし」

『そうか』

「それに一人じゃないし」

『あぁ…お母さんの友達の息子…だったっけ?』

「うん」

タツヤには全部話していた。部屋が決まったあたりから、仙道彰と暮らすことになった経緯まで、全て。

『大丈夫か?』

「何が?」

『ほら、子守なんて嫌だー、とか言ってたろ』

わたしの口調を真似たのか、タツヤは声を高くして言った。

「それわたしの真似?全然似てない」

『そうかぁ?こんな感じだったろ?』

お互い相手が笑い止むのを待って、わたしは言った。

「大丈夫。自分のことはちゃんとやる子みたいだし」

『よかったな』

「それにあの子、彼女いるからヤキモチも不要よー」

ちょっとふざけた言い方をしてみる。

『仲良くやってるんだな』

「なんで?」

『女の有り無しまで話す仲なんだろ?』

「本人から聞いたわけじゃないけどね」

『じゃあなんでわかるんだよ』

「なんか、女慣れしてるってゆうか…」

『なに、高校生に口説かれた?』

「まぁ、そんな感じ?」

口説かれた…と言う程ではないけれど、会ってすぐの女に‘美人’なんて言えるのは、相当女に慣れてるんだろう。

『それは妬けるな』

そうは言ってもタツヤの口調は余裕たっぷりだ。
信じてもらえて嬉しいと思う反面、たとえ相手が高校生だろうが、少しは妬いてくれてもいいんじゃないかと思ってしまう。

『まぁなんにしても安心だな』

電話の向こうでタツヤが一息ついたのがわかった。

「ありがとね、電話」

『いや、また電話するよ。そのうちそっちにも行けると思うから』

「ん、待ってる」

おやすみ。そう互いに言って電話を切った。
電話を終えてから気付いた。わたし、ドアに体重を預けて立ったままだった。
ドアを背もたれにして、自分の寝室を見渡し、ため息をついた。

不動産屋に案内されて初めてここを訪れた時、まず海の見える部屋だったことが気に入った。
窓から見える春の海。触れればきっと冷たいだろう海水も、太陽の光リに照らされて、とても暖かそうに見えた。
この海をタツヤにも見せたい。わたしが青春時代を過ごした場所を、生まれ育った所を見てもらえたら。そう思った。

『ずっと神奈川のはずないだろうし、東京なんて近いじゃないか』

転勤が決まったわたしに、タツヤは言った。

『なんなら、俺も神奈川に転勤するか』

冗談交じりに言った一言が、嬉しかった。
もちろん真に受けたわけじゃない。でも、いつかそんな日が来る様なことがあるなら、彼はわたしと一緒に住んだりするのだろうか?
今のところすぐには実現されそうにない二人の同棲生活を頭の片隅で描いて借りた部屋。


「まぁ、いつか…ね」

ひとりそう呟いて、飲みかけのビールを飲みにキッチンへ戻った。



「電話、彼氏から?」

再び椅子に腰を下ろして、ぬるくなった缶ビールを全て飲み干したところで、彰が微笑みながら言った。

「うん、彼から」

「そっか」

非常に短い会話を終え、わたしは立ち上がり、冷蔵庫から新たな缶ビールを取り出した。
ビールを取り出すために曲げていた腰を伸ばしたところで、彰から新たな問いが飛んでくる。

「彼氏は知ってるの?」

「なにを?」

「俺と住んでること」

「知ってるよ。なんで?」

缶ビールの蓋を開け、彰の向かいに座る。

「彼氏、何にも言わないんだ」

「あぁ、そのこと」

彼が言わんとすることを理解する。

「君はそんなこと気にしなくていいよ。わたしの彼、寛大だからヤキモチとか妬かないし」

えっへん、とでも言えそうな位に胸を張って見せる。

「わたしのことなんかより、彰くんは彰くん自身の恋愛事情を気にしてなさい」

ちょっと偉そうな口調でそう言うと、彼は不思議そうな顔をして、「俺華梨さんに話したっけ」、と言った。
やっぱりわたしの読みは正しかったみたい。

「ホントに何でわかったの?」

「なに、わたしには秘密にしときたかったの?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

眉を下げて言った彰の、少し情けない顔が面白くて、もっと眉尻を下げてみたいと思ったけど、わたしはそこまでサディストじゃない。

「女の勘ってやつかな」

「凄いんだね、女の勘」

「まぁね。彰くんも気をつけた方がいいわよ。悪事はすぐバレるから」

そう言ってやると、彰はまた眉毛を下げて笑う。
高校生にしては大人びたその反応に、わたしの中では彼の女慣れ疑惑がますます高まった。


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