「なにかいいことでもあったのかい、アンナ

ハンジに声を掛けられ、アンナは本に落としていた視線を上げた。
資料室にある本棚の前。医術書を読み終えたアンナが新たな書物を探しに訪れた資料室で、ハンジと出くわした。ハンジもまた、研究の資料を探しに来たのだという。
そんなハンジが不意に、興味深そうにアンナの顔を覗き込んだ。

「……いいことなんてない。……なんで」

「自主訓練を禁止されてるんだろう?それにしては大人しくしてるからさ」

また暴れるんじゃないかと思ってたから。ハンジは口元に笑みを浮かべながら続けた。

それは1年くらい前のことになる。
壁外遠征中に負傷したアンナに対し、リヴァイは訓練への参加を禁止した。
たいした怪我ではないとアンナは主張したが(実際に怪我は1週間程度で完治した)、リヴァイは訓練禁止を頑として譲らなかった。
互いに一歩も譲らず、思い通りにいかない苛立ちが募ったアンナは、思わずリヴァイの襟首を掴んでいた。
―――力づくでねじ伏せてやる。その思いは叶うことなく、逆に呆気なく床に叩きつけらる結果になった。
騒ぎを聞きつけたハンジが2人の前に現れ現状を問い質すと、『コイツが暴れただけだ』とリヴァイが答えた。
訓練を禁止された上に屈辱的な目に合わされたアンナは、その後暫く周囲の人間が気を遣うほど不機嫌さを露わにしていた。


「……もう暴れない」

「ハハ、見てる分には楽しいけどね。アンナとリヴァイが遊んでる様子を見るのは」

「遊んでない。私は真剣」

リヴァイにとっては、遊ぶような感覚かもしれないが。
口に出かけた言葉を、アンナは飲み込む。

「それで?ご機嫌な理由はなんだい?」

「ご機嫌なんかじゃない」

アンナとハンジはそれぞれ必要な本を手に、資料室を後にした。
並んで廊下を歩きながら、アンナはリヴァイの言葉を思い出す。

―――お前の戦闘力を考えれば、軽すぎる欠点だな。

あの言葉を聞いた瞬間、アンナは静かながらも心が沸き立つのを感じていた。滅多に褒めるのないリヴァイの、リヴァイなりの、自らの力を認めた言葉に。

調査兵団で兵士として過ごした2年間で、リヴァイからはそれなりの信頼を得られるまでになったと思う。
だがリヴァイとアンナは上官と部下であり、彼の言動から時折感じる部下への配慮が、不満でもあった。今回の訓練禁止のように余計な心配をされている状態が、どうしても気に食わない。
そんなリヴァイが自分の力を認める言葉を漏らしたことは、アンナにとって喜ばしく、誇らしいことであった。
ただアンナ自身は、この気持ちの高ぶりが喜びや誇らしさであるということを理解できていない。


「まあ、いいけどね。アンナがご機嫌な理由は、リヴァイにでも聞いてみようかな」

「好きにするといい」

「あ、リヴァイといえば」

「なに」

アンナ、最近医術書読んでるんだって?」

「そうだけど」

「リヴァイが驚いてた。『いつの間に医術書なんか読むようになりやがったんだ』って」

リヴァイの口調を真似ているのか、低めの声音で話すハンジ。そんな彼女を横目で見やりながら、『余計なことばかり覚えやがって』と不機嫌そうに呟いていたリヴァイの顔を思い出す。

「医術書は面白かった?」

「面白くはない。わからない言葉が多かった」

「そりゃそうだ。専門の書物だもの」

「……負傷者の手当てがもっとできればと思った。でも――」

意味はなかったかもしれない。そう続けようとして、言葉を飲み込む。
付け焼き刃の医術が役に立つとは思えない。そもそも自分にできることなど、ごく僅かだ。
なによりアンナの目の前にいる負傷者は、命の灯火が消えてしまいそうなほどの重傷者が圧倒的に多い。
医術書から手当ての方法を学ぼうとしたのは、目の前で命がひとつ消えていくたびに自分の不甲斐なさを呪いたくなる状況から、脱け出したかったからかもしれない。
そういうところも自分の弱さなのだと思うと、反吐が出そうだ。


「大丈夫。得た知識はいずれ役に立つさ」

アンナの横顔に暗い影が差したことに気付いたハンジが、ぽん、と軽く肩を叩く。
笑みを浮かべるハンジに向けて、アンナは小さく頷いた。

その後、ハンジが最近読んだという物語の内容を話し、アンナは興味深く耳を傾けていた。
ハンジが「アンナも読んでみる?」と尋ねたので、読みたいと答える。それなら貸してあげるよというハンジの言葉に甘えることにした。


資料室がある本棟から出て、兵舎へと向かう。真っ直ぐ続く廊下の奥に視線をやると、兵士の姿があった。
兵士は2人。男女の組み合わせで、互いの腰に手を回し、顔がくっつきそうなほどの至近距離で見つめあっている。

アンナが男女のほうをじっと見ていると、隣を歩くハンジも2人の存在に気付いたらしい。
「おや」というハンジの声が静かな廊下に響き、見つめあっていた男女の視線が、勢いよくハンジとアンナに向けられる。2人は慌てた様子で、くっついていた身体を引き離した。

「ハンジ分隊長……失礼しました!」

2人が男女とすれ違うところで、男の方が敬礼とともに大きな声で謝罪を述べた。

「いいよ、別に。規則違反でもなんでもないしね。ただ、そういうのは人目につかない場所でやったほうがいいかな」

ハンジの言葉に、男は顔を紅く染める。女の方は男の背に隠れ、ひたすら俯きっぱなしだ。

その場を少し離れたところで、アンナはちらとふり返り、2人の男女を見やった。
2人は照れ臭そうに、けれどもとても楽しそうに微笑みながら言葉を交わしている。

「……恋人同士ってやつか」

「ん?ああ、さっきのふたりかい?そうだろうね、恋人同士だ」

「ふうん……」

正面に視線を戻すと、ハンジが口元に笑みを浮かべアンナの顔を覗き込む。にやりと笑うハンジを、アンナは訝しげな目で見た。

「なに」

「いやさ、アンナも恋愛事とか、そういうのに興味を示すんだなぁと思ってね」

「……興味じゃない」

「へえ?」

「兵士が互いに好き合うことに、恐怖や不安がないのかと思っただけ」

調査兵団に身を置く兵士であれば、わかっているはずだ。巨人を前にしてしまえば多くの命が失われること。自分の命も同様に、いつ失われるかわからないこと。
大切に思った相手がいつ失われるともわからない恐怖。大切なひとを残し、自分だけがこの世界から消え失せる不安は彼らにはないのだろうかと、アンナは思った。
互いを熱っぽく見つめ合っていたふたりは、よもや自分と恋人だけが無事生き残れるなどと、そんな奇跡ようなものを信じてでもいるのだろうか。


「恐怖や不安はあると思うよ。でも、だからこそ支え合う」

ハンジの声は静かだった。自ら口にした言葉を確かめるように、ゆっくりと紡がれる。

「守りたいと思う大切なものがあるから、強くなれたりもするんじゃないかな」

「……そういうものか」

「ああ」

「………」

アンナにはいないの?守りたいと思う、大切なひと」

ハンジの問いかけに、アンナの頭を過ったのはかつての友、マリウスの姿だった。助けたいと思いながら、叶わなかった。
もし、あの時マリウスを救えていたなら。彼がまだ息をし、共に戦う仲間であったなら。もしかしたら、私は――……。

「そんなの、いない」

くだらないことを考えてしまった。そんな自分を叱咤するように口にした言葉は、思いのほか強い口調だった。ハンジも驚いたのか、目を見張っている。

「まあいいけどね。じゃあ、私はここで。後で本を届けるから、アンナは部屋で待っててよ」

そう言い残し、ハンジは自らの私室へと姿を消した。
廊下にひとり残されたアンナの頭に、マリウスの声が響く。

――君は魅力的だよ

そう言って微笑んだマリウスの優しい顔を思い出しながらも、アンナはくだらない、と、自らを一喝する。
今さら思い出してしょうもない想像をしてみたところで、なんの意味もないことなのだ。
マリウスは失われてしまっている。アンナ自身の、目の前で。



自室に戻ったアンナは、どこかぼんやりとした足取りでベッドの上に横たわった。
面白味のない天井を見上げ、やがてゆっくりと目を閉じる。

マリウスが失われた時に感じた憎しみと怒り、悲しみと後悔とが混ざったどす黒い感情も、彼の死の記憶と共に、蘇える。
それは今でもアンナの中に燻っていて、仲間の死を目の当たりにするたびに頭をもたげ、アンナをがんじがらめにする。
逃れようともがくたび、リヴァイの冷たい目を思い出すのだ。

――お前のせいで無駄に命が失われるところだった。

マリウスの危機を前に、任務を放棄したアンナに向けられた、リヴァイの冷たい眼差し。



不意に、部屋のドアが開く音が響き、アンナの思考は停止させられる。
本を持っていくと言っていたハンジがやってきたのだろう。
アンナは目を開け、じっと天井を見つめていた。


「……やっぱり私には、大切なひとなんていらない」

コツコツと靴が床を叩く音がして、再びドアが閉じられた。
ハンジに「どうして?」と理由を尋ねられるような予感がしたので、アンナは彼女より先に口を開いた。

「例えば、だ。私の大切なひとと……リヴァイが同時に巨人に食われそうにな状況になる」

「………」

「その時、確実に救わなければいけないのは、リヴァイの方だ。兵団の主力を失うわけにはいかないから。だから私は、リヴァイを助ける」

アンナの脳裏を過る、マリウスの姿。伸ばそうとした手は、届かない。
失くした痛みも、忘れられはしない。

「私は兵士だ。自分の感情を優先することはしない」

もう二度と、感情的にならないと決めたのだ。
常に冷静さを保ち、より多くの巨人を削ぐ。そのために生まれ持った力であり、これからも、そのためだけに強くなればいい。
大切なひとという存在は、きっと心を大きく乱し、感情を揺さぶるだろう。
そんな存在は、邪魔になるだけだ。

「だから、いらない」

「……そりゃあお前の好きにすりゃいいが……俺はお前に救われなきゃならねぇほど弱くはねぇよ」

突如耳に飛び込んできたリヴァイの声に、アンナは勢い良く身体を起こした。
ベッドの上で部屋を見渡す。そこにハンジの姿はなく、代わりにリヴァイが壁に背を預けて此方を見ていた。

「……ハンジは?」

「廊下ですれ違って、お前にこれを渡せと言って押し付けやがった」

そう言ったリヴァイがアンナの手元に投げて寄越したのは、ハンジが『貸すよ』と言っていた本だった。

もっと早く気付けたはずだ。
ひとの部屋にノックもなしに入る人間は、リヴァイくらいしかいないのだ。


 

「リヴァイ、ちょうどよかった」

リヴァイが廊下を歩いていると、正面からやってきたハンジに呼び止められ、その手に無理矢理本を押し付けられた。

「悪いんだけどこれ、アンナに渡してくれないか。私はちょっと用事ができてしまってね」

それだけを言い残し、颯爽と歩き去るハンジ。リヴァイは文句を言う暇さえ与えられず、小さくなっていくハンジの背中を睨みながら舌打ちを零した。
どうして自分が。受け取ってしまった本を床に投げつけたい衝動に駆られながらも、リヴァイの足はアンナの部屋へ向いていた。



「……やっぱり私には、大切なひとなんていらない」

ドアを開けると、ベッドの上で仰向けになるアンナの姿があった。
リヴァイが声を掛けようとしたと同時に、アンナが語り始めた。彼女はじっと、天井を見つめたままでいる。

いったいなんの話をしているのかと訝しく思ったリヴァイだったが、そんな自分を無視して話続けるアンナの口から自分の名前が紡がれて、らしくなく戸惑う。

「例えば、だ。私の大切なひとと……リヴァイが同時に巨人に食われそうにな状況になる」

「………」

「その時、確実に救わなければいけないのは、リヴァイの方だ。兵団の主力を失うわけにはいかないから。だから私は、リヴァイを助ける」

なぜそんな話の引合いに自分の名前を上げたのか。そもそもなぜアンナはこんな話をしているのか。
理由はわからないが、おそらくアンナはここにいるのが自分だと気づいていないらしいと、リヴァイは悟った。


「私は兵士だ。自分の感情を優先することはしない」

アンナの声は力強い。それは確信を得ているというよりも、自らに言い聞かせているように、リヴァイには聞こえた。

「だから、いらない」

「……そりゃあお前の好きにすりゃいいが……俺はお前に救われなきゃならねぇほど弱くはねぇよ」

リヴァイが沈黙を破ると、アンナは勢い良く上体を起こした。
その視線が室内を一周し、やがてリヴァイを捉える。

「……ハンジは?」

「廊下ですれ違って、お前にこれを渡せと言って押し付けやがった」

ハンジに手渡された本を投げる。アンナはその表紙を暫し見つめてから、再びリヴァイを見た。眉を寄せ、不満気な顔をしている。
どうやらアンナは相手がハンジだと思い込んで話していたことを後悔しているらしい。だが、それはアンナの勝手な勘違いなのだと、リヴァイは彼女の視線を無視して目を逸らす。


「……アンナ

「……なに」

アンナの声が僅に低い。まだ不満は消えないようだ。

「……感情は捨てきれるものじゃない」

「………」

「お前のはただ、自分の感情から目を背けようとしてるだけじゃねぇのか」

悲しみや怒りが時として自我を奪い、それが周りの人間や自らの命取りになることを、アンナは知っている。
知っているからこそ、切り捨てようとしているように見えた。
いらない、と言ったのは大切なひととやらなんかじゃなく、アンナ自身の感情ではなかっただろうか。


「……そうかもしれない」

静かな声だった。アンナはその視線を、窓の外へと向けている。

「感情が無ければよかったと思う。そしたら、もっと強く戦うことができる」

「……感情のない人間なんざいるわけねぇだろ。……そんなもんは俺たちが削ぎまくってる巨人と変わらねぇじゃねぇか」

「わかってる。今日の私は、どこかおかしい」

もういい、忘れて。そう言いながらアンナは、不器用に顔を歪めた。どうやら笑みを浮かべたつもりらしいが、不自然に歪められた表情は、痛々しさを覚える。


アンナは、強い兵士だ。そう認める者は多いし、リヴァイ自身もそう感じている。
それでもこうして、人の命が奪われる悲しみやどうしようもない無力感、怒りや憎しみといった感情に苛まれ、苦しんでいる。それはリヴァイもよく知っている感情だ。
知っているからこそ、アンナの胸の苦しみも理解できる。
感情に揺さぶられながら、それでも強くあり続けなければならない苦しさは、心も身体も縛り付けられるような重みを覚えるだろう。

解放してやりたいと思う。
その反面、同じ苦しみを持つという連帯感が、リヴァイ自身の力になっている。

それぞれの苦しみや重みを抱えながら、戦い続けるのだ。
その命が尽きるまで、アンナも自分も、力の限り。


「……なに」

気がつくと、リヴァイは自らの手をアンナの頭に乗せていた。
アンナの声で我に返ると、彼女の不満そうな目がリヴァイに向けられていた。

「……気持ち悪い。子供にするようなことしないで」

「ガキだろうが、てめぇは」

「ガキじゃない。だいたい、リヴァイの方がガキみたいに見える、絶対」

リヴァイを見上げるアンナの顔は、見慣れた仏頂面に戻っていた。

「てめぇはそうやって生意気なこと言ってりゃいい。感情だなんだと余計なことばかり考えて、身体が動かねぇようになってみろ。全力で躾けてやる」

リヴァイはアンナの頭を小突き、踵を返してドアへと向かう。
「私はそう簡単にやられない」と、アンナの声がリヴァイの背中に掛けられ、彼は僅に口元を綻ばせていた。


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