その薬を口にすることに、戸惑いはなかった。沖田は、このまま朽ちてしまうことの方が耐えられなかったのだ。

近藤が狙撃された。そう聞かされた沖田の中に湧きあがった怒り。怒りの矛先を何処へ向けるべきなのか、彼にはわかっていた。無論、近藤を狙撃した人間である。
しかし、刀を手に取ろうとした瞬間、彼の身体は崩れ落ちた。

このまま朽果てるのだろうか。沖田の胸に過る不安と焦燥。新選組の、近藤の刀ではいられない。そう思うと、悔しさが募る。
――まだ、終わりたくはない。

沖田は懐に手を差し込んだ。手には、先日山南の部屋から持ち出した小さな瓶が握られている。
――刀であり続ける為なら、人でなくなってもかまわない。

沖田は一気に薬を煽ると、そのまま屯所を飛び出した。
向かう先は、島原に程近い料亭だった。その料亭に近藤を狙撃した者たちが姿を見せるのだと、山崎が土方に報告しているのを盗み聞いていたのだ。

料亭に辿り着くと、沖田は道の隅に身を潜めた。
待つこと暫し。料亭から数人連れの男たちが姿を現す。男たちには、土州訛りがある。
刀を鞘から抜くと同時に、男たちの前に姿を現した。月明かりに照らされ、沖田の刀がギラリと光る。
男たちは沖田の姿を認めて狼狽した。突如現れた新選組隊士に怖れたのか、それとも、白髪に紅い瞳という、まるで鬼のようなその姿に慄いたのか。沖田にとって、どちらでもいいことだった。

敵は抜刀する間もなく、沖田に斬られていた。
辺りに満ちる血の匂い。
地面に転がる彼らの顔に、恐怖が残っている。

今までと違い、悔しい思いをすることはもうないのだ。これからも、刀でいることができる。
唄月は今の自分の姿を見て、どう思うだろう。
沖田は刀を納めると、ゆったりとした足取りで歩き始めた。

その足で向かった先は、島原の菊乃屋。
芸妓である唄月が、この時刻に置屋にいることはめったにない。彼女は今頃、座敷に揚がっているだろう。
そう思いながらも、沖田は暗い裏通りから、菊乃屋の二階窓を見上げていた。


「……唄月ちゃん」

唄月の顔が見たい。沖田はその一心で、彼女の名を呼んだ。

「唄月ちゃん」

雲が月を隠し、いよいよ深まる闇。不意に、格子窓の向こうで、人影が動いた。
窓の向こうから顔を覗かせたのは、紛れもなく唄月であった。
部屋の灯りを背に、唄月は沖田を見詰めていた。その顔に浮かぶ驚きと喜びの色は、沖田を安堵させる。

「沖田は……――」

上空に漂っていた雲が流れ、月が顔を出すと、唄月の表情が強張り、言葉は儚く消えていった。彼女の顔には、今や恐怖が浮かんでいる。
唄月の表情を訝しく思い、沖田は視線を落とした。
着物にはおびただしい返り血が付き、月明かりに照らされた自分の姿は、唄月の目に鬼として映っているのだ。
――これじゃあ、驚かれてもしかたないかな。
沖田は苦笑いを漏らし、再び視線を窓へと向ける。だが、そこに唄月の姿はなかった。
誰もいない格子から、わずかに洩れる部屋の灯り。暗がりの中で、そこだけ酷く明るい。
沖田にはその灯りが、とても空しく見えた。


* * *


あれは、一体なんだったのだろう。
唄月は通りから自分の名を呼んだ人物の姿を認めると、思わず窓際から遠のいていた。


「――唄月こったい?」

部屋の中の異変に気付いたらしい禿が、襖越しに声を掛ける。唄月は「なんもあらへん」と返して、ひとつ息を吐いた。
脈が大きく波打っている。どくどくという音を聞きながら、唄月は静かに目を閉じた。

自分の名を呼ぶ声。紛れもなく、沖田の声だった。
だが通りから自分を見上げていたのは、着物を血で染め、白髪に爛々と輝く瞳をした、まるで、鬼のような男。
その姿形は、以前に見た人の血を啜る妖のような男に、とてもよく似ている。

唄月の脳裏に蘇る恐怖心。そして、沖田に刀を向けられた時の悲しみ。
暗い感情に支配されかけ、唄月は、はっと目を見開いた。

嫌な気配は消えてはくれない。けれど、唄月の中にある沖田への想いもまた、そう簡単に消えてなくなりはしないのだ。

唄月は立ち上がると、襖に手を掛け、勢いよく開いた。
廊下に控えていた禿が、驚きの余り目を大きく開き、唄月を見上げる。

「おかあさんは?」
「・・・な、なんや用事がおますそうで、外に出とります」

禿の返答に頷き、唄月は小走りで廊下を渡る。
「唄月こったい!?」と、禿が慌てて呼ぶ声を聞きながら、階段を駆け降りていた。


「――沖田はん」

唄月は通りへ出ると、その名を紡いだ。
唄月の声に反応し、男が振り返る。
血のように赤い瞳が、唄月をとらえた。

男から瞳を逸らさぬままに、唄月は一歩、また一歩と近付いていく。
見上げる距離まで近付いて、唄月は再び口を開いた。

「……沖田はん、なんでっしゃろ?」
「……」

唄月の問いに、答えはなかった。
男の赤い瞳が、僅かに揺れる。

「一体、何があったんどす?その姿は……」

唄月は無意識のうちに、自らの手を沖田の白い髪へと伸ばしていた。
あと少しで触れるというところで、沖田が唄月の手を力強く握る。手を捕らえられた瞬間、唄月の全身に緊張が走った。
捕らえた手から緊張が伝わったのか、沖田は僅かに眉尻を下げた。その切なそうな表情に、唄月の中にあった恐怖心が薄らいでいく。

「……やっぱり沖田はんや」

そう呟いた時、唄月は口許に淡い笑みを浮かべていた。

「……僕が怖くないの?」

掠れた声で、不安げに呟く沖田。そんな彼の姿は、唄月の目には鬼というより頼り無さげな子供のように映った。

「……どないな姿容をしとっても、わては沖田はんを信じます」

もう、迷わない。沖田がくれた言葉や、自分を見詰める時の瞳に浮かぶ優しい色を、疑うことなどできはしない。
そんな意志の籠った強い目で、唄月は沖田を真っ直ぐ見詰める。
唄月の視線を受けとると、沖田は一瞬驚いたように目を見開き、そして、薄く笑いを浮かべた。

「僕は、君にはかなわないみたい」

困ったように笑う沖田。唄月は彼のそんな表情を見て、安堵した。

「話してくれまへんか?沖田はんに何があったんか」

唄月に促され、沖田が頷く。

幕府から、新選組にある薬の研究を極秘で依頼されたのだと、沖田は言った。その薬を摂取すると、常人にはとても及ばない戦闘力と回復力を得る。代わりに意思を失い、血を欲する激しい衝動に駆られるのだという。
沖田の語った内容は、どこか遠い世界の出来事のようであった。にわかには信じられぬ話ではあったが、唄月は実際に、その世界を垣間見ていた。

「あの夜、わてが見たのは……」

唄月の脳裏に甦る、月の下で血を啜る男の姿。

「そうだよ。あれがもう1つの新選組の隊士。羅刹隊っていうんだ」
「羅刹……」
「羅刹の存在は極秘だから、目撃した人間は殺さなきゃいけない。……だから僕はあの時唄月ちゃんに刀を向けた」
「……」
「でも、君だけは斬れなかったんだ。失いたくないって、そう思ったから」

新選組の刀として、感情を置き去りに刀を振るう沖田にとって、秘密を知った人間を逃がすということは、彼が慕う近藤への罪悪の意識があっただろう。
それでも、沖田は自分を斬らなかった。そう思うと、唄月は沖田の全てを包み込みたいという、今までに感じたことのない気持ちになる。


「……沖田はん」
「うん……」
「わては、沖田はんを好いとります。刀を向けられても、気持ちは変わらへんどした。さかいにこれからもずっと、何があっても、わては、沖田はんが好きどす」

唄月の真摯な瞳に見詰められ、沖田は笑みを浮かべる。

「……ありがとう、唄月ちゃん」

沖田の白い髪に色素が戻り、瞳は翡翠色になる。
自分のよく知る沖田の姿に、唄月の体から僅かに力が抜ける。

「沖田はんも、そん薬を飲んだ……?」

唄月の問いに、沖田は無言で頷く。

「なんで……?」
「……近藤さんが、狙撃されたんだ」
「……」
「すぐに相手を殺したいって思った。だけど、できなかった」

沖田は悔しそうに、顔を歪めた。

「せやから薬を……?」
「このまま終わりたくなんてなかったんだ。僕は、まだ戦えるから」

病に侵され、刀であることが叶わないと苦しんでいた沖田の姿を、唄月は思い出していた。
沖田の苦しみが和らいだのなら、それは唄月にとっても幸せなことだ。だが、自分の心が穏やかにはなっていないことに、唄月自身気付いていた。

「沖田はんが飲んだ薬は、病も治してしまうんどすか?」
「そうだよ。薬のおかげで今はもうなんともないんだ。刀だって握れる」
「……」
「どうしたの?」

黙り込む唄月の顔を覗く沖田。彼の顔に浮かぶ微笑は晴れやかで、それが唄月の心を痛めた。
「沖田はんも――」
「?」
「沖田はんも、あの男はんと同じように、血が、飲みたくなるんどすか?」

思い出されるのは、人間の血を啜っていた、まるで鬼か妖のような男の姿。この世のものとは思えぬ光景。
もし、沖田があの男と同じように血に狂った存在になってしまったら。そう思うと、唄月の胸は潰れてしまいそうだった。
彼女の不安を感じ取ったのか、沖田は浮かべていた微笑を潜め、真剣な面持ちで唄月を見詰める。

「唄月ちゃん」
「……へえ」
「僕は血に狂ったりしないよ」

真っ直ぐに向けられた沖田の瞳には、曇りがない。言葉が真実であると、その瞳が語っている。
それでも唄月は何か言葉にすることもままならず、黙っているばかりであった。

「僕の言うことが信じられない?」

沖田の問いに、唄月は首を横に振る。
沖田はふっと小さな吐息を吐き出して、優しく目を細めた。

「薬を飲む瞬間、君のことが浮かんだんだ。この薬を飲めば、君ともっと一緒にいられるんだって思った」
「沖田はん……」
「これから先、狂ったりなんかしない。君を忘れることなんて、僕にはできないから」

沖田の手が伸びて、唄月の頬に触れた。少し冷たい沖田の手は、心地好い。
優しげな瞳が、ゆっくりと近付いてくる。唄月はその瞳から目を逸らさず、見詰め返した。
やがて二人は瞳を閉じる。それと同時に重なった唇の優しさを、一生忘れることはないだろう。
月明かりを瞼の裏で感じながら、唄月はそんなふうに思った。