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優しい口付けだった。 月明かりのみが頼りの暗い路地の片隅で、唄月は縋るように沖田の着物を握っていた。 重なっていた唇が離れ、唄月はそっと目を開ける。目の前にいる沖田の眼差しは、暖かく、優しい。 生まれて初めて交わした口付けを意識すると急に気恥ずかしくなり、唄月は沖田の視線を避けるようにして俯いた。 「唄月ちゃん」 「……へえ」 「どうして僕のこと見てくれないの?」 「そら……」 口付けを交わした後で、沖田の顔を見るのは恥ずかしいのだ。素直に口にすることのできない言葉を飲み込んで、唄月は俯いたままでいる。 「そら、沖田はんがわての顔を見とるさかい……」 「僕が唄月ちゃんの顔を見るなってこと?そんなの、無理だと思うよ?」 「そないなことやなくて……」 ちらりと見上げた沖田の顔。口端を持ち上げた余裕たっぷりの微笑は、彼が唄月の内心を見透かしていることを語っている。 「……やっぱり、沖田はんはいけずどす」 小さな声で漏らした唄月の台詞に、沖田は目を細める。 「唄月ちゃんの照れ臭そうな顔が可愛いから、つい意地悪な言い方になる」 沖田の台詞に、ますます顔が熱くなる。返す言葉にも詰まってしまう唄月。 ふたりの間に訪れる沈黙。夜の闇に、甘い空気の余韻が漂う。 「――唄月こったい!」 静かな街に響く少女の声。 自分の名を呼ぶその声には聞き覚えがある。唐突に折檻部屋から脱け出した唄月を、見張り役である禿の少女が探しているのだ。 「……わては戻らなあかんみたい。沖田はんも、行っておくれやす」 「うん。……また来るよ。もう病気も治ったからね」 微笑を浮かべ、沖田は唄月に背中を向けて歩き出す。灯りのない裏路地で、沖田の背中はすぐに見えなくなった。 暗闇の中にひとり残された唄月は、言い様のない不安に襲われる。 沖田は、血に狂わないと言った。病は治った、と言った。それは唄月を安堵させる言葉であるはずなのに、何故かしら不安は消え去ってはくれない。 沖田の言葉を信じていないわけではないのに、どうして不安が募るのだろう。 唄月は抱えた不安を吐き出すかのごとく、大きく息を漏らした。 すべては混沌とした時勢のせいだと、唄月は自分にそう言い聞かせた。 薩長と幕府の間で戦が始まるかもしれぬという緊張状態にある京の街。芸妓である唄月にも、客の遠退きという皺寄せがやってきた。 生きる術が、危ぶまれている。 幕府側の最前線ともいえる新選組隊士である沖田には、より多くの危険が傍にあるのだ。その命すら、危ぶまれるほどの……。 「こったい!」 掛けられた声に、唄月は我に返った。 目の前には禿の少女が佇んでいる。その手には提灯があり、暗闇の中をぼんやりと照らしていた。 「ご無事で良かった。土佐藩士を斬った下手人は捕まってまへん。危ないですから、戻りまひょ」 「そやね……」 禿の後に続き、菊乃屋への道を辿る唄月。禿が持っている提灯が、その歩みに合わせてゆらゆら揺れている。 この暗闇の中、沖田はひとり何を思っているのだろう。唄月は、そんなことを考えていた。 女将は未だ戻ってきてはいないようだ。菊乃屋の裏口にたどり着いた時、それに安堵したのは唄月よりも禿の方であった。 ほっと息を吐く禿。この少女に任されたのは自分の見張りであり、見張りの対象が部屋を抜け出たとなれば、女将からの叱責もあろう。 唄月はいたたまれなくなり、禿の小さな背中に向かって「かんにんどっせ」と呟いた。 唄月が呟いたのと同時、辺りに激しい銃声が響く。菊乃屋周辺の建物から、銃声を耳にした人々が不安そうな表情を覗かせた。 「近いかもしれまへんな」 禿は言った。銃声が、である。 聞こえた銃声の大きさから、この付近で争い事が起こったのではと、皆戦々恐々としているのだろう。 「ほんまに危ないかもしれん。はよう中に」 禿を促しながらも唄月は、今すぐ駆け出して、何があったのか確かめに行きたい思いに駆られていた。 沖田も、まだそう遠くへは行っていないだろう。 沖田程の剣の使い手が、そう易々と倒れる筈はない。そう思いながらも、胸騒ぎがした。 ――どうかご無事で。 姿の見えぬ沖田を想い、真っ暗な闇の向こうを見詰めながら、唄月は強く願った。 * * * 沖田が目を覚ましたのは、身体中に焼けるような痛みを感じたからであった。思わぬ痛みに、思わず苦しげな声が彼の口から漏れた。 ぼやける視界。沖田の目に映ったのは、新選組が警護を担当している伏見奉行所の天井である。 「沖田さん、気が付かれましたか?」 枕元に控えていた雪村千鶴の声が沖田の耳に届く。 「――僕は……」 「……狙撃されたんです。島原にほど近い通りでした」 唄月さんに逢いにいってらしたんですか? 千鶴からの問い掛けは、別れ際の唄月表情と、その後に起こった出来事をよみがえらせた。 口付けを交わした直後とは打って変って、別れ際の唄月の表情には不安の色が浮かんでいた。 ――そんな顔はしないでほしい。 そう思った沖田は、すぐにでも唄月を抱き締めたい衝動に駆られる。 自分が羅刹と化したことは、彼女の中に新たな不安を生み出したのかもしれない。しかし沖田には、薬の力になど負けないという自信があった。 唄月を忘れることなど、できないと思った。彼女のことを忘れてしまってまでも血に狂うことなど、ありはしない。沖田は、そう思った。 また来るよ。もう病気も治ったからね。 不安げな表情を浮かべる唄月へ、沖田は言った。 病は治ったのだから、なにも心配しなくていい。そんな彼の思いがこもった言葉だった。 唄月と別れ、島原を後にした沖田の目の前に現れたのは、銃を携えた男たちであった。 『……新選組の沖田総司だな』 男のひとりが、そう声を上げた。言葉に土佐訛りがある。 『それがわかってて銃を向けるなんて、いい度胸してるね』 沖田は刀を抜き放った。男たちに怯む様子はない。 この男たちの目的は報復だろう。先程、料亭を出たところを待ち伏せし、斬った男たちの仲間。 沖田は目の前にいる男たちを見据えたまま、僅かに目を細めた。 『・・・君たちが悪いんだよ。近藤さんを傷付けたんだから』 男たちに向けたのは、彼らに対しての餞の言葉のつもりだった。 沖田は大きく足を踏み出す。そしてその瞬間に放たれた多くの銃弾。 撃たれても平気だと、沖田は思っていた。羅刹の力は銃より優っているのを、彼は見てきたから。 身体に数発の銃弾が食い込む。皮膚を裂き、肉を破る痛みが沖田を襲う。 しかし、傷はすぐに癒えるだろう。沖田のそんな予想に反し、痛みは続き、身体から流れ出る血は止まらない。 一体どうなっているのだろう。疑問を浮かべる沖田の意識は、血を多く流したせいで段々と薄れてゆく。 気を失う寸前に沖田の目に映ったのは、銃を構えた男たちの、不敵な笑みだった。 「沖田さんを探してらした隊士の方たちが駆け付けた時、沖田さんは意識を失ってらしたんですよ」 「……」 「沖田さんの身体の中に残っていた銃弾は、山崎さんが処置してくださったんですが……」 言いよどむ千鶴。彼女がなんと言おうとしたのか、沖田にはわかっていた。 羅刹の力なら、銃弾さえ取り除いてしまえば傷はたちまち癒えるはずだ。だが、受けた傷は癒えてはいない。 千鶴に代わって言葉を紡ごうとする沖田。しかし身体に受けた傷の痛みは、彼の言葉さえ奪ってしまう。 「沖田さんには大阪に行ってもらいます」 「……おお……さか?」 「松本良順先生が大阪にいらっしゃるので、看てもらってください。船は明日出るそうです」 近藤さんも一緒ですよ。沖田をすこしでも力付けようと、千鶴が言い添える。 「――君に……頼みがあるんだ……」 「はい。私に出来ることなら、なんでも言ってください」 痛みを堪えながら訴える沖田の望みとは、いったいなんであろうか。 千鶴は耳を寄せ、自分の息さえそっと潜めた。 * * * 「大阪?」 「へえ。将軍は大阪へと向かったみたい」 「将軍職は廃止になったさかい、京に居ずらくならはったんではおまへん?薩摩や長州ん人らが、それやけで許すとは思いまへんけど。怖くなって逃げ出したんかも」 「さあ。将軍が何考えてるかなんてわてらにはよお解からへんけど……。なんにしても、戦に巻き込まれるのだけは堪忍してほしいわ」 菊乃屋の一室で交わされる芸妓たちの会話を聞きながら、唄月はぼんやりと青い空を見上げていた。 沖田は今この瞬間も、刀を握り、戦っているのだろうか。冬の冷たい風が吹き荒ぶこの京で、自らの命を危険にさらしながら……。 唄月は胸の奥が締め付けられるような痛みを覚えた。 沖田の病や彼が飲んだ薬のこと。交わした口付けも、現実の出来事だったのだろうかと、唄月は思う。 他の芸妓たちに気付かれぬよう、指先でそっと自分の唇をなぞる。 触れ合った沖田の唇の感触も、触れた瞬間に暖かくなった自分の身体の感覚も覚えているのに、とっぷりと幸福感に浸ることができずにいる。 沖田が飲んだという薬で、彼は病を治し、刀を握れるようになった。沖田自身が望む、刀としての生き方を、再び歩むことが出来る。それは自分にとっても喜ばしいことであるべきなのに……。 「……こないな気持ち、はじめてや」 複雑に揺れ動く自分の心に戸惑いながら、唄月は思わず独り言を溢していた。 「どないしたんどすか、こったい」 唄月の独り言を訝しんだ芸妓が声を掛ける。 「なんでもあらへん。そろそろ稽古の支度をせなと思っただけ」 言って、唄月は立ち上がる。それと同時に部屋の襖が開き、禿が姿を見せた。 「唄月こったい、かましまへんか?」 「なに?」 「こったいに会いたいてひとがおこしやす」 「わてに?」 沖田だろうか。 『また来るよ』と、そう告げた沖田の表情をよみがえらせながら、唄月は思った。 「雪村千鶴と伝えてもらえればわかります、と、そない申しとります」 「雪村千鶴……」 沖田ではなかった。そのことに落胆しながらも、唄月の頭にはあの少女の顔が浮かんでいた。 「どこにおるん?」 「裏口の外で待ってもろてます」 「おおきに」 禿に声を掛け、唄月は菊乃屋の裏口へと向かった。開け放たれた戸口から、冷たい冬の風が入り込む。 戸口の外で待つ雪村も、寒さに絶えるようにぎゅっと肩を寄せていた。 「お待たせしました」 唄月がそう声を掛けると、雪村はぺこりと頭を下げた。 「あんさんにお礼を言わなと思っとったんどす。沖田はんの病んこと、教えてくれてえらいおおきに」 「いえ……」 「それで、わてにご用とはなんでっしゃろ」 雪村は、躊躇いがちに目を伏せた。言葉にするか否か、迷っているように唄月には見えた。 「沖田はんに、なにかあったんどすか?」 そう問い掛けると、雪村の肩が小さく揺れた。唄月の胸に不安が立ち込める。 「……沖田さんが、銃で撃たれたんです」 傷が癒えず今も苦しんでいると、雪村は言った。 雪村の言葉を聞きながらも、唄月はその意味を理解出来ずにいた。 「そない……いつ?」 「昨夜です。……唄月さんに会いに行かれた際に……」 昨夜と言われ、唄月に沖田の話を思い起こさせる。 沖田は、薬を飲んだといった。その薬を飲むことによって得られる、人間離れした回復力。 刀や銃で傷付けられても倒れはしないと、沖田はそう語っていたのに……。 「沖田はんは……」 薬を飲んでいたのに、それでも深く傷付いているのか。千鶴への問い掛けは言葉にすることなく、呑み込まれた。 羅刹という存在は、新選組隊内でもごく一部の者しか知らないのだと、沖田は言っていた。沖田が羅刹になったことを雪村の前で言葉にしてよいものかどうか、唄月には判断できない。 「新選組がお世話になっているお医者様が大阪にいらっしゃいます。松本良順先生といって、幕府にも貢献してらっしゃらる方なんですが……その方に看てもらうため、沖田さんは近藤さんと一緒に、大阪に行くことになりました」 「大阪?」 「はい。今頃、船に乗っていると思います」 「お医者はんに看てもろて回復したら、沖田はんは京に戻ってくるんでっしゃろ?」 唄月の問い掛けに、雪村は黙ったままでいた。 先のことなどなにもわからないのは、この少女も同じなのだ。申し訳なさそうに俯いた雪村を見詰めながら、唄月は思った。 この混沌とした時勢のなか、その中心に身を置く沖田たち新選組の行く末など、誰にもわからない。 「沖田さんから言付けを預かってきたんです」 「わてに?」 「はい……」 沖田からの言付けとは、一体なんであろう。 傷を負ったという沖田からの言葉が紡がれるのを、期待と不安で胸をいっぱいにしながら、唄月は待っていた。 暫しの沈黙に、唄月の心臓は今にも破れてしまいそうだった。 躊躇いを浮かべていた雪村が、意を決したように唄月の瞳を見据え、言葉を紡ぐ。 「……‘僕は大阪に行くけど、唄月ちゃんのことは忘れないよ’」 「……え?」 「‘元気で。今までありがとう’」 小さな声で紡がれた、沖田からの言付け。唄月は全て聞き終えた後も黙ったまま、頭のなかでその言葉を繰り返し響かせていた。 何度繰り返してみようとも、別れの言葉にしか聞こえない。 唄月には、それが他人へ向けられた言葉のような気がしてならなかった。 |