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「僕は大阪に行くけど、唄月ちゃんのことは忘れないよ」 大阪へ向かうことになった。千鶴からそう聞かされた沖田は、身体中を駆け巡る熱のような痛みを堪えながら、唄月への言葉を紡いだ。 「……元気で。……今までありがとう」 「……」 「唄月ちゃんに……伝えて……」 沖田の言葉を聞いている間、千鶴はぎゅっと唇を結んでいた。 沖田は枕元に控える千鶴の顔を見上げた。 その瞳にうっすら涙のようなものが浮かんで見えるのは、傷のせいで朦朧とした意識のせいだろうか。今の沖田には、それさえはっきりしない。 「沖田さんそれって……」 「必ず……伝えて」 「でも……」 「……僕の言うことがきけないの?」 沖田の鋭い視線が、千鶴を射抜く。それでも千鶴は怯まなかった。 沖田自身、傷によって弱りきった自分の睨みが効力を発揮するとは思っていない。 「いいんですか?本当に……」 千鶴の問い掛けに、沖田は少し目を伏せた。構わないという意思表示のつもりで。 沖田の反応を見た千鶴は立ち上がり、廊下へと続く障子に手を掛ける。 彼女が躊躇いがちに自分を振り替える気配を、沖田は感じた。 「いつまでいるつもり?……僕は休みたいんだけど」 千鶴の背を押すべく投げられた沖田の言葉。彼の言葉を受け、千鶴は渋々といった様子で部屋を下がる。 ひとりきりになった沖田は拳を握り、固く目を閉じた。 身体に残る傷の痛みが全身を駆けぬけ、思わず呻き声をもらした。 ――これでよかったんだ。 今にも意識を手離してしまいそうになりながら、沖田は思う。 大政奉還が相成り、戦が始まらんとする緊張が続いている。新選組はこれから、長く続くであろう戦いのなかに身を置くことになるだろう。 今は身体の自由がきかないが、傷が癒えさえすれば、当然自分も戦いへと赴くことになるのだ。 羅刹と化したこの身体は、新選組にとって何よりも武器になるはずである。以前と同様、新選組の、近藤の刀として戦うことができる。 刀として戦場へ向かう以上、そう易々と戻れはしない。近藤の為なら、この命を懸けることなど、沖田にとってはなんでもないことなのだから。 唄月に別れを告げたのは、もう逢うことが叶わないと、そう思ったからだ。 切なさを伴わないと言ったら嘘になる。しかし、自分は新選組の刀なのだ。 戦かわなければ、自分の存在に意味などない。 せめて唄月が、自分のことなど忘れて、幸せになってくれればいい。 身体を支配する傷の痛み。遠くなっていく意識の中、沖田は唄月の笑顔をその脳裏によみがえらせていた。 * * * 雪村が去ってからもなお、唄月は菊乃屋の裏口で、ぼんやり佇んだままでいた。 ――僕は大阪に行くけど、唄月ちゃんのことは忘れないよ 雪村から伝えられた沖田の言葉を、唄月は頭の中で反芻する。 ――元気で。今までありがとう 何度繰り返してみようとも、別れの言葉としかとれない。 何故だろう。何故、沖田は別れの言葉など残していってしまったのだろう。 まるで、もう二度と逢わないと、そう決まっているような口振りで。 釈然としないながらも、こうなることがわかっていたような気がするから、唄月自身戸惑っていた。 新選組に身を置き、刀として戦う沖田と、芸妓である自分。永遠に一緒にいられることなどない。いつか終わりを迎えるだろうという予感を、心の奥に抱いていたように思う。 自分の胸に潜んでいた予感に気付いた今、唄月は途方にくれていた。 悲しめばいいのか、怒ればいいのか。それとも、狂ってしまうべきなのか。どうすればいいのか、唄月にはわからない。 涙とて流れぬ乾いた瞳を、冷たい冬の風が刺激する。 沖田や近藤が大阪へと立った後、新選組ら幕府軍も大阪へと向かった。 錦の御旗を掲げた薩摩・長州が官軍となり、幕府軍は事実上賊軍と化した。伏見では官軍に押される形となり、幕府軍は体制を立て直すべく、将軍のいる大阪へと下ったのだ。 唄月のもとにこの報せが届いたのは、幕府軍が伏見を退いてまもなくのことであった。 伏見で上がった戦の炎は、島原からでもよく見えた。幕府軍が大阪へ退きながら、徐々に戦場も後退していく。 唄月は混乱極まった京の街に身を置きながらも心はどこかへ抜け出してしまったかのように、心もとない日々を過ごしていた。 「ちゃう!もういっぺん!」 前に差し出した手の甲を扇子でピシャリと叩かれ、唄月は思わず顔をしかめた。 「すんまへんどした」 「ええから、もういっぺん始めから」 「へえ」 唄月が舞の振りを間違えるたび、師匠は始めからやり直すようにと指示をする。このやり取りも既に数回繰り返され、師匠は呆れたのか大きなため息を吐いた。 師匠の口からため息がこぼれるたび、唄月は心苦しさを覚えた。 こんな筈ではないのに。思うように身体が動かず、悔しいのは唄月自身だっただろう。 何時も通りの舞を舞っているつもりなのに、師匠から振り下ろされる扇子が、何度も唄月の舞を止めさせた。 「こったい、おかあさんが呼んどります」 稽古を終え、菊乃屋の戸を潜った唄月を出迎えたのは禿の声であった。 「なんやろう」 「さあ……うちにはわかりまへんが……」 禿の不安げな瞳が、唄月を見詰めていた。 「どないしたん?」 「……なんや、伏見で戦が起こってから、以前のような賑やかさはなくなってしもて、おかあさんも元気がないように見えて……」 こん先、どないなってしまうんでっしゃろ。独り言のように、そっとこぼれた禿の言葉を聞き、唄月の胸は締め付けられた。 「あんたが心配しはることなんてなんもない。またすぐにいつもの島原になるさかい。あんたは今のうちにしっかり稽古に励んで芸を磨かなあかん」 唄月がそう言葉にすると、禿は幾分安堵したのか、ほっと息を吐き出した。 禿にとって今の自分は、どんな風に見えているのだろうか。唄月はふと、そう思う。 かつて自分が禿であった頃、憧れていた太夫たち。美しく、芸に優れ、その背中をみては‘自分もいつかあんな芸妓になりたい’と思った。 芸妓としてしか生きる道はない。それを悲観することなく、誇り高く生きていた女たち。 かつて憧れた芸妓たちのように、今の自分は生きられているだろうか。 「おかあさん、唄月どす」 「入りよし」 声を合図に、唄月は廊下と部屋とを隔てる襖を、ゆっくりと開けた。 室内には女将一人であった。さほど広くない部屋の中に正座する彼女の姿は、以前よりも小さくなっているような気がして、唄月は少し悲しくなった。 「稽古はどうや?暫く折檻部屋にいたさかい、身体がなまっとったりしてへんやろね」 正面に腰を下ろすなり、女将がそう声を掛ける。 つい先日『贔屓客の座敷以外の外出は禁止』という女将の言い付けが解かれたばかりの唄月。稽古中思うように身体が動かなかったなどという報告は決してできないと、女将の険しい視線を受けながら思った。 「どうもないどす。何時も通りどした」 「そんならええんや。お客はんも遠退いて、不安に思ってる芸妓も多いけれど、あんたが見本としてしっかりしとってくれれば安心や」 女将が自分を見詰める瞳。そこに籠る期待の色が、唄月の気持ちを重くしていく。 「お話はそれだけどすか?」 これ以上女将の視線には耐えられない。唄月が立ち上がり掛けたところで、女将が言う。 「あんたの旦はんが来やはるそうよ」 「……え?」 「明後日や。……この前のような失態はゆるしまへんからね、唄月」 太夫になって始めて旦那に呼ばれた座敷で、唄月は抱き寄せられた際に恐怖を抱き、水揚げを避けていた。女将はその出来事を咎めているのだ。 女将の厳しい視線を前に、唄月はうまく言葉を紡ぐことができず、ただ頷くばかりであった。 女将の部屋を後にし、唄月は支度部屋へと足を進めた。二階へと続く階段を登る。 背後に迫る焦燥感に気付かぬわけにはいかなかった。 このままでは、旦那である男と床を共にせねばならぬ。かつての唄月なら、なんの恐怖も嫌悪もなく、受け入れていただろう。 でも、今は違うのだ。 唄月の心のなかには、沖田がいる。 想うひとが心にいるのに、別の男に身体を渡すことが苦しくない筈はない。 しかし芸妓として、それは許されぬことである。太夫となったからには、旦那と床を共にするのが習わしなのだと、唄月自身、痛いほど理解している。芸妓として生きていく以上、避けては通れぬ道、と。 唄月の脳裏に甦る沖田。 新選組の刀でありたいと言った、真剣な表情。刀を振るう際の、冷たい瞳。 今も何処かで戦っているのだろうか。 それとも癒えぬ傷痕を抱え、何処かで苦しんでいるのだろうか。 こんな風にしか生きれないのだろうか。 唄月は芸妓として、沖田は刀としてしか、生きていけないのだろうか。 もっと違う生き方ができれば、今頃ふたりはなんの不安もなく、寄り添い合っていたのではないだろうか。 考えてもせんのないこと。そう思うのに、唄月の頭からは離れない。 違う生き方などなかったのだ。そして、今まで生きてきた道こそが、唄月の誇りであった。 その筈だったのに。 今はただひたすらに、沖田に会いたいとばかり願ってしまう。 今まで生きてきた道を捨ててでも、遠い地で刀として戦場を駆ける沖田の傍にいたい。 叶わぬ願いだとわかっていても、願わずにはいられない。 芸妓として誇り高く生きてきた唄月にとって、自分の運命を呪わしく思うのは、始めてのことであった。 |