あれは、いつかの誕生日だった。
わたしのじゃない。お母さんの誕生日。

その日、お母さんとわたしは夜遅くまで起きていた。
もう寝なさい。お母さんはそう言ったけれど、わたしは首を横に振る。本当はすぐに目が閉じてしまいそうなくらい眠たかったのに。

お母さんはソファに座って本を読んでいた。
夜の深まった時間。静かな部屋に響くのは時計の秒針が進む音と、お母さんが本の頁を捲る音。
わたしはお母さんの隣に座って、こっくりこっくり船を漕ぐ。今よりずっと子供だったから、夜更かしには慣れていなかったのだ。

不意に、お母さんが立ち上がった。わたしはお母さんのぬくもりが遠ざかったことに気付いて、うっすら目を開ける。
手にしていた本をテーブルの上に伏せて、玄関に向かうお母さんの背中が見えた。

――おかえりなさい。
お母さんの声がする。おだやかで優しい、弾む声。

――ただいま、ミドリ。
低く、温かな声。お父さんが帰ってきたんだ。眠気の覚めない頭で、ぼんやりと思う。

――なんとか間に合ったな。
――え?
――誕生日、おめでとう。

お父さんが差し出した、小ぶりな花。
わたしも知ってる、お母さんの好きな花だ。
お母さんはきっと、もう何度もこの花を受け取っているに違いない。それでも嬉しそうに言うんだ。ありがとう、と。

――ふふ、今日2回目よ、この花を貰うの。
――そうなの?
――ええ。見て。

お母さんがポケットから取り出したのは栞だ。
お母さんの好きな花を押し花にして添えた栞は、わたしからのプレゼント。

――幸せ者だね、ミドリは。
――そうね。自分でもそう思う。

ふたりの声を聞きながら、わたしは再び眠りについた。平穏で暖かな、深い眠りの中へ。

 


「ただいま」

アカデミーでの授業を終えて、まっすぐ家に戻った。
玄関のドアを開ける時、わたしは毎回期待してしまう。
おかえり。そう言って、お父さんが迎えてくれるかもしれない、と。期待するだけ無駄だとわかっていても、期待してしまうのだ。

家には誰の姿もなかった。お父さんどころか、お母さんの姿もない。
しんと静まる家にひとりでいると、心細くなってしまう。わたしはもう、ひとりきりの留守番に怯えるような年齢でもないのに。

自分の部屋に荷物を置いてから、リビングのソファに腰を下ろした。ここにいれば、帰ってきたお母さんをすぐに出迎えられる。
読み途中になっていた忍術指南書に視線を落とす。文字を目で追うけれど、頭に意味がうまく入ってこない。きっと集中力が足りないんだ。
読書は諦めることにして、本を閉じた。何をするでもなく、ぼんやりと室内を眺める。

この家には、写真というものがほとんど存在しない。だから友達の家へ遊びに行った時、驚いたのだ。
友達の家のリビングには写真立てが並び、クローゼットの中にはアルバムが数冊あるという。
わたしの家にある写真は、数枚だ。
赤ん坊のわたしを抱くお母さんとお父さんの写真(これはリビングに飾られている)。お父さんがアカデミーを出たばかりの頃、先生や仲間と写したもの。そして、お父さんがその教え子たちと撮ったもの。後者2枚の写真に到っては、わたしも数回しか見たことがない。

わたしの家に写真が少ししかない理由について、お母さんにたずねたことがあった。

――私もお父さんも、写真があまり好きじゃないの。
お母さんは、さらに続けた。
――写真に残さなくても、思い出は消えてなくなったりしないわ。


「ただいま」

ぼんやりしていたせいだろう。背中から突然聞こえたお母さんの声に、びっくりしてしまった。
いつもなら気配だけで帰宅に気付くことができるのに。

「おかえりなさい。買い物に行ってたの?」
「調味料切らせてたから」

買ってきたものを片しながら、お母さんが言う。

お母さんの思い出は、一体どこまで残っているのだろう。こんな些細な日常も、お母さんは覚えているんだろうか。
お父さんと過ごした時間やわたしと過ごした日々は、どこまでが思い出として残っているのだろう。
そしてわたしは、大人への階段を登りながら、どこまで思い出を残しておくことができるだろう。


「お母さん」
「んー?」
「お父さんと結婚するまでの話、聞かせて」
「随分熱心ね」

好きな人ができたから?
お母さんにそう聞かれたけれど、わたし自身、よくわからない。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。わたしにしては珍しい、曖昧な返答をした。

「何から話せばいいかしら」
「なんでもいいよ。恋人同士になったお父さんとお母さんの話なら、なんでも」

お母さんは視線を遠くに向けた。そして少しだけ微笑む。

「……思い出し笑い?」
「ふふ、そうね」

恥ずかしそうな顔で笑うお母さんは、ちょっとかわいらしい。


* * *


お父さんとお母さんが初めてキスをしたのは、里が見渡せる小高い場所だった。

お父さんもお母さんも忍だ。ふたりはそれぞれ任務に赴き、忙しない日々を送っていた。任務の合間、時間を見つけてふたりは会っていた。
会いたいな。そう感じた時にタイミングよく現れるお父さん。
カカシには人の心を見透かす能力があるのかもしれない。お母さんは、そんな風に思った。


「ちょっと遠回りしてかない?」

任務が終わったばかりのお母さんを、火影邸前で待ち伏せしていたお父さんが言った。
もうすぐ日付が変わろうかという時刻。半分に欠けた月が優しい光を落としていた。
お父さんがどこへ向かっているのかわからないまま、お母さんは歩く。ふたりの間で交わされる言葉は、決して多くはなかった。お母さんはそれがとても心地よかった。

お父さんの目指した先は里が見渡せる小高い場所で、そこに辿り着いた時、お母さんの口元から感嘆の吐息が零れた。

「良い眺めでしょ?」

ミドリに見せたかったんだ。お母さんの隣で、お父さんは静かに言った。

「ええ。とても良い眺め」

そこから里を見下ろすと、人工の灯りが暖かく家々を包んでいた。多くの人々が息づいてる、その証しのような光。
見上げれば、月を囲むようにして輝く星たちが視界いっぱいに広がっていた。

「ねえ、あそこにある星――」

夜空で一番輝く星を指差しながら、お母さんはお父さんへと視線を移した。
言葉は遮られてしまう。不意に重ねられたお父さんの唇によって。

「ごめん、話遮ったな」

唇が離れると、お父さんは言った。口元に笑みを浮かべた顔が、すぐ目の前にある。

「話の続き、きかせて」

お父さんの優しく熱っぽい瞳が、お母さんを見詰める。

「――うんと小さい頃、任務に出ていた両親が恋しくなって、ひとりで里を出たことがあったの。両親のいる任務先へ行こうと思って」
「子供の頃から無茶してたんだね、ミドリは」

お父さんはきっと、幼いお母さんを思い浮かべていたのだろう。少し眉を下げた、困った表情をしていたけれど、声には慈しみが含まれていた。

「途中で疲れ果ててしまって、情けなくなりながら、とぼとぼ里に帰ったわ。そしたら私と入れ違いで任務から戻っていた両親が出迎えてくれた」
「うん」
「とても安心した。だけど自分のしたことがとても恥ずかしくて、両親の顔が見れなかったの。そんな私に、両親が教えてくれた」
「……」
「――あの星の星言葉は『強さと優しさの共存』。まるで、ミドリみたいでしょう?って、そう言ってくれたの」

それからは、悩んだ時や迷った時、あの星を見るようになった。あの星を見ると、自分の強さを信じられたから。
私のための星言葉。

「でもね、今は違うの。『強さと優しさの共存』……カカシにぴったりの星言葉だと思ってる」

お母さんは、隣に佇むお父さんを見上げる。

「だからカカシも悩んだり迷ったりしたら、あの星を見て」

苦しみも悲しみも、たくさん知ってるお父さんへ。いつでも心が穏やかに、幸福であってほしいから。
お母さんの願いを込めた言葉を受け取って、お父さんは言った。ありがとう、と。

「……でもオレには必要ないかもね」
「どうして?」
「どうしてかわからない?」

ミドリがいてくれるからだよ。お父さんはそう言って、お母さんに二回目のキスをした。
たとえ悩んでも迷っても、お母さんがいるから大丈夫。重なった唇から伝わる、お父さんの想い。
この人の為にできることなら、なんでもしたい。暖かく優しいキスを受け止めながら、お母さんはそう思ったのだ。



「……お母さんは今でもその星を見上げるの?」
「時々、ね」
「悩んだり迷った時に?」
「それだけじゃないわ。あの時から、嬉しい時にも、なんでもない時にも、星を見上げるようになった」
「どうして?」
「あの星を見ると、お父さんの顔が浮かぶからよ」

あなたが生まれてからは、あなたの顔も浮かぶようになった。私はこれからもずっと、あの星を見てはあなたとお父さんの顔を浮かべるわ。
そう語るお母さんの瞳が、キラキラ輝いていた。まるで星のように。



ふたりでベッドに入る。お母さんはお父さんの足に自分の足を絡ませるのが好きだった。
夏は少し冷たく、冬はほんのり暖かい、不思議なお父さんの足。

「どうなってるの?カカシの体の構造は」

体温も自分で調整できるの?
クスクスと笑いを漏らしながら、お母さんは言う。ふたりでは少し手狭なベッドの上、お父さんの広い腕の中で。

「ミドリに合わせてたら自然とこうなったの」
「ふふ。本当に?」
「本当に」
「なら、私もどこか変化させたほうがいいかしら。カカシばかりじゃ不公平でしょう?」
「お前はそのままでいーの。変わっていくのはオレの役目だよ」

お父さんはそう言ったけれど、お母さんにも、確かに変わったものがあった。
お父さんと手を繋げば幸せになった。キスをしたら、優しくなれた。お父さんの腕の中にいると、怖いものなんてなにもなかった。
お父さんと見詰めあう。それだけでお母さんは、何よりも強くなれる。

お母さんはお父さんの瞼に、そっと唇を落とした。傷痕の残る、左の瞼。
お父さんは気持ち良さそうに目を閉じた。

苦しみも悲しみも知り抜いた、寂しそうだったお父さん。
すべてを分かち合いたい。これからもずっと、ずっと。

「……ミドリ」
「なあに?」

ゆっくりと目を開けたお父さんが、お母さんをまっすぐ見詰める。

「……愛してるよ」

自分の感情を表に出さないお父さんの、ストレートな愛情表現。
お母さんへと向けられた眼差しに込められた、深い愛。
お母さんは思った。この人のために生きていきたい、と。



「それでお母さんはお父さんと結婚したのね」
「ええ。私が一緒に生きていく相手は、お父さん以外にはいないと思ったから」

きらきら輝く瞳をしたお母さん。わたしが生まれる前、お父さんを見詰めていたお母さんの瞳は、きっと今と同じように輝いていたのだろう。

「プロポーズはお父さんからだったの?」
「ええ、そうね」
「すごく嬉しかったんでしょう?」
「もちろんよ。とても嬉しかった。でも、私はすぐに答えることが出来なかった」
「どうして?」
「私とお父さんの考えの違いを初めて知って、戸惑ってしまったのね」



お父さんと過ごす、穏やかな日々。
喜びはふたりで共有した。お父さんの喜びはお母さんの喜びで、お母さんの喜びはお父さんの喜びだった。お父さんが笑っていると、お母さんは幸せな気持ちになれた。
日々のなかには悲しいことや苦しいこともたくさんあったけれど、お父さんが支えてくれたから、お母さんは真っ直ぐ前を見ることが出来た。
お父さんが悲しんでいる時、お母さんはずっと傍にいた。お父さんの悲しみが癒えるまで。

どんな危険な任務でさえ、お父さんのことを想えば乗り越えられた。必ず里に帰ってお父さんに会うんだと、そう思えばお母さんはとても強くなれた。
けれど、時には無茶をしてしまう。お父さんはそんなお母さんを見て、『また無茶してる』と、困ったように笑っていた。

お母さんは、そんな日々が続いていくと思っていた。
任務に出て、時には傷付いて。けれどお父さんが傍にいるから、一緒に闘っているからお母さんも頑張れる。
この日常がずっと続くと思っていたし、お父さんもそう望んでいると思っていた。

お母さんが望んでいた日常と、お父さんが望んでいた日常の違い。それが露わになったきっかけは、お父さんのプロポーズだった。

「……いいかげんにしなさいよ、ミドリ」

お父さんが盛大なため息を吐いた。場所は木ノ葉病院の一室。夕陽がさしこむ暖かな部屋。
お母さんはベッドの上で横になり、呆れ顔のお父さんを見上げていた。

「……カカシだって写輪眼の使いすぎで入院するじゃない」
「それとこれとはまた別でしょーよ」

お母さんは任務で負傷した。一時は昏睡状態だったほどの重傷。
複数名による敵襲の際に受けた傷が原因だった。敵襲を受けたお母さんは、仲間たちと共に撤退することをよしとせず、自分ひとりその場に残り、仲間を逃がすことを選択した。
お父さんの憤りは、怪我をしてしまったことではなくて無茶な選択をしたことに対してだ。お母さんにもそれが充分わかっていたから、強く反論することもできない。

「どれだけ心配したと思ってるの」
「……ごめんなさい」

はぁ、と、お父さんがため息を吐き出す。
呆れてるんだろうか。そう思うと、お母さんの胸は痛んだ。

「……ミドリ」
「うん」
「お前は待っててくれない?オレが帰ってくるのを」
「私はカカシが無事に里へ戻ってくるのを、いつでも待ってるわ」
「そうじゃなくて、ミドリはずっと里にいて、待っててほしいんだ」
「それって――」
「結婚しませんかってこと」

お父さんは優しく微笑んだ。お母さんの大好きな笑顔。

お母さんは嬉しかった。お父さんと生きていきたいと思っていたから。家族になりたいと、そう思っていたから。
けれど心の違う場所では、寂しさを感じた。どこか端のほうに追いやられたような寂しさだった。

「嬉しい……。私は、カカシと家族になりたいって思ってたから……。だけど――」
「……だけど?」
「私も忍なの。カカシと一緒に闘っていたい」

お父さんが望んでいるのは、お母さんが忍としての生活から離れること。お母さんの望みとはまるで正反対だ。
お母さんは、お父さんひとりが命を張って闘うことが嫌だった。お母さんも同じように闘いたかった。
お父さんと一緒に、ふたりで。

お父さんと生きていきたい、家族になりたい。その願いは忍としての生活を終わらせなくても叶うことだと、お母さんは思っていた。
ふたりが描く未来に、溝がある。それを埋めることができるのかどうか、お母さんには自信がなかった。

「……ミドリはそう言うと思ったよ」
「……」
「ま、急いでもしょうがないし、ゆっくり考えてちょうだい」

お母さんは黙ったまま頷いた。
お父さんは少し緊張していたのだろうか。お母さんには、お父さんが肩の力を僅かに抜いたように見えた。

「オレは任務があるから、そろそろ行くよ」
「うん。……いってらっしゃい」

お父さんの背中を見詰めながら、お母さんは不安になった。
次に会う時ふたりは笑いあえるだろうかと、そんな考えが頭を過った。


「……ミドリ」

病室のドアの前で、お父さんは立ち止まる。お母さんに背を向けたまま。

「待っててほしいと思ったのはオレの我が儘かもしれないけど――」
「……」
「それでも、お前がいると思えばオレは強くなれるんだ。失いたくない」
「カカシ……」
「守りたいんだよ。なによりもミドリが大切だから」

肩ごしに振り返って、お父さんは笑う。

「じゃあ、いってくる」

ドアの向こう側にお父さんの姿が消えた途端、お母さんの目から涙がこぼれた。一緒に闘うことだけが、お父さんと生きる術ではないことを、お母さんは知った。
これから先、お父さんの望みはすべて叶えたい。お母さんは強く強く、そう思ったのだ。



「それじゃあ、お父さんが任務から戻った時にプロポーズの返事を伝えたのね?」
「里の正門でお父さんんを待ち伏せて、カカシと結婚したいって伝えたわ」

お帰りなさいっていうのも忘れてた。そう言ってお母さんは、クスリと笑いを漏らす。

「……忍じゃなくなること、辛くなかった?」
「ええ。私はお父さんが無事に戻ってくることを信じていたし、笑顔で出迎えることが、何より幸せだった」
「本当に?」
「本当よ。それに、あなたが生まれてからは、あなたを守り育てることが私の大事な任務だったもの」

お父さんがいなくても、私があなたを守ってみせる。
言いながら、お母さんはわたしの頭を撫でる。力強い言葉とは裏腹の、優しい手付きで。

「……わたしも、守られてばかりじゃないから」
「ん?」
「わたしだって、お母さんのこと守れるわ」

わたしの言葉を聞いてお母さんは目を見開き、やがてふわりと微笑んで言う。ありがとう、と。

わたしは、お父さんとお母さんの娘だ。いつの日か、ふたりのような忍になりたい。
大切なひとを守る、優しく強い忍に。