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「なんで今日部活に来なかったんだよ。魚住さんと池上さん、最後だったんだぞ」 越野はさっきからこれを数回繰り返し言っている。正直、耳にタコだ。 ベッドに横になっているせいか眠気に襲われ、俺は大きな欠伸をした。 「聞いてんのかよ、仙道」 涙で視界がぼやけていたけど、越野が俺を睨んでいるのはよくわかった。 これで新キャプテンだもんな。越野がぶつくさ呟いている。 「これ、合宿のプリント」 鞄の中から無造作に取り出した一枚の紙をテーブルの上に置いた。 「合宿?」 「夏休み入ったらすぐだからな。キャプテンが来ないとか、やめろよ」 「わかってるよ」 ついこの前試験を終えたばかりなのに、もう夏休みがくるのか。一日ってのは、案外過ぎていくのが早いのかもしれない。 「わざわざ家まで届けてやったんだから感謝しろよな」 ふん、と鼻息荒く越野が立ち上る。 「もう帰んの?」 「ああ。それ届けに来ただけだし」 テーブルに置いたプリントを見遣って越野が言った。 「明日からはちゃんと練習出ろよな」 「気が向いたら行くよ」 またもジロリと俺を睨んだ越野に、笑顔を作り、手を振ってやった。大きなため息を吐き、俺の部屋のドアを勢いよく開ける越野。 ドアが開いたと同時に‘ゴン’という音と、「イタッ」という声が聞こえた。後ろ姿でもわかるほどに越野が固まっている。 その姿が可笑しくて、笑い声を漏らしそうになるのを必死で堪えていると、ドアの向こうから声が聞こえた。 「彰!あんたねぇ、ドアはもうちょっと丁寧に開けて――」 「……」 顔を覗かせた華梨と越野が視線を合わせたところで無言になった。 ドアを開けたのが俺だとばかり思い込んでいた華梨の表情が、驚き一色に染まっている。 「華梨大丈夫?」 俺はベッドから起き上がると越野の横をすり抜け、ぶつけたらしいおでこを抑えてフリーズしている華梨に声を掛ける。 「……」 「……華梨?」 「……ん、全然大丈夫」 ニコリと微笑んで俺に言い、その笑顔のままで越野に向き直る。 「ごめんね、いきなり。びっくりしたでしょ」 華梨は少し恥ずかしそうに笑いながら越野に言った。 その声はいつもより少し高い。 「あ、いえ」 「ふふ。きみ、越野くんでしょう?陵南の試合何度か見に行っててね、彰に名前教えてもらったの」 「はあ」 「あ、わたし小澤華梨っていいます。よろしくね」 「あ、はい」 にっこり笑った華梨の差し出した手を、戸惑いながらも握り返す越野。 握られた二人の手を見つめながら、俺は華梨と初めて会った日を思い出していた。 あの日も彼女は手を差し出した。握った瞬間、細い手だなと思ったのをよく覚えている。 だけどあの時、華梨は今越野に見せているような笑顔を俺に向けてただろうか。 越野が羨ましく思えるのと同時に、小さな苛立ちみたいなものが俺の中で発生するのを感じた。 「じゃあな、仙道。絶対明日からは来いよ」 華梨からの「夕飯一緒にどう?」という誘いを断った越野は、俺にトドメの一発を吐き、隣に立つ華梨に頭を少し下げて部屋を出て行った。 「越野くんてそのまんまだね」 二人だけになった部屋で、越野が出て行ったばかりのドアを見つめたまま華梨が言った。 その声のトーンは、いつものアルトな響きだった。 「そのまんまって?」 「んー、試合してる時のままっていうか……わたしのイメージのまんまって感じ?」 「へー」 俺はちらりと華梨の横顔を見た。 すっと通った鼻筋、細い顎。ノースリーブを着てるおかげで剥き出しになった肩。肩からのびる細い腕。そして白い手。 「……華梨」 「ん?」 「握手しない?」 「……は?」 華梨の顔にはハッキリ「訳わかんない」とかいてあった。 「だめ?」 「いや、どうしたのよ、あんた。意味わかんないし」 「……だよな」 俺自身も口に出してしまってから「何言ってんだろう」と思ったのに、彼女にわかるはずがない。 「それにしてもめずらしいんじゃない?彰が家に誰か連れてくるなんて」 「連れて来たんじゃないよ。越野が勝手に来たんだ」 「勝手に?」 「プリント届けに」 夏休みに入ったらすぐ合宿なんだ。華梨にそう言うと、彼女は目を真ん丸くした。 「ちょ……そういうことは早く言いなさいよ」 「なんで?」 「なんでって……嫌じゃないの、同じ家にいるのに旅の予定も知らないなんて」 旅じゃないんだけどな。そう思ったけど、言うのはやめておいた。 「で?何日から?どのくらい行くのよ」 「さあ」 「もー、自分が行くんでしょう」 華梨が呆れたような顔して言った。 俺は自分の部屋に越野が置いていったプリントを手にして、華梨に見せる。 俺から紙を受け取り、その内容に一通り目を通す華梨。 「偶然ね。彰が合宿の期間、わたし仕事が休みなの」 「そうなの?」 「うん。有給取っちゃった」 休みを心待ちにしているのか、華梨は嬉しそうにクスクス笑った。 「俺のために?」 「んな訳ないでしょ」 いつもなら彼女からのツッコミには手が(頬をつねられたり、頭をはたかれたり)が付いてくるのに、よほど機嫌がいいのか言葉のみで終わった。 「もしかして、彼氏来るの?」 春に一度だけ、華梨の彼氏が家に訪ねて来たことがあった。 俺に気を遣わせるのが嫌だからと、あれ以来華梨と彼女の恋人がこの家で会うことはなかったけれど、俺が居ないのであれば、気兼ねなく男を呼べるってことだ。 俺が居ないこの家で、華梨と彼氏が二人きり。その様子が頭の中に浮かびあがり、俺の中でもやみたいなものが発生するのを感じた。 「呼ばないわよ。彼は仕事」 ちょっと眉毛を下げて笑い、華梨が言う。彼女のその言葉で、生まれたてのもやが、ふっ、と薄らいだ。 だけどそれは、つかの間でしかなかった。 「わたしが彼の家に行くのよ」 *** 「忘れ物とかない?あってもわたし届けに行ったり出来ないわよ?」 「大丈夫だよ」 合宿に向かうために、いつもより早起きした彰に向かって最終確認をした。 なのに彰ときたら「華梨こそ忘れ物とかないの?」だなんて聞き返す。 「あ、ガス栓絞めてない」 「やっぱり」 やっぱりってなによ。玄関に荷物を置き去りにしてキッチンまで戻ったわたしは、そう叫んだ。 彰の部活合宿とわたしの夏休みがこうも上手く重なるとは思ってもいなかった。 正確には、わたしのほうが1日多く家を留守にする。彰は2泊3日の合宿で、わたしは3泊4日をタツヤの家で過ごすのだ。 約2日間、この家はもぬけの空となる。 用心するに越したことはない。改めてキッチン回りや、電気の消し忘れなどを確認してから玄関に舞い戻った。 「じゃあね、合宿頑張ってくるのよ」 「うん」 「家に戻ったら、ガス栓とか、その他もろもろよろしくね」 「うん」 アパートの外に出ると、太陽の光とそれに照らされて熱を持ったアスファルトのおかげで、ただ立っているだけでも汗が身体を伝う。 早く涼しいところへ避難したい。 だけどその前に、彰に聞いておきたい事があった。 「ねえ彰」 「うん?」 「最近……なんかあった?」 照りつける太陽の下、向かい合って立つ彰にそう聞いた。 「なんで?」 「なんでって聞かれても困るんだけど、なんとなく」 そう、ほんとになんとなくなんだけど、ここ数日彰はおかしかった。 落ち込んでるとか怒ってるとか、そんなわかり易い違いじゃなくて、もっと些細な、小さい違いが、確かにあったのだ。 「なんか彰、ここのところ笑ってないっていうか……」 「そんなことないけどなあ」 彰はとぼけたような口調でそう言い、わたしと目が合うと口端を持ち上げてみせた。 ああ、そうだ。ここ数日間、彰の笑いはこんな感じだった。笑ってるのに笑ってない。心がどこか別の場所へ行ってしまってるような笑い方。 こんな風に笑うようになったのは、彰が夏休みに入る直前。越野くんが家に来た日あたりから。 あの日なにかあったんだろうか。特に変わったことは無かったような気がする。 学校でなにかあったのかな?でも、わたしが帰って来た時には普通だったし・・・。 あれこれ考えを巡らせていると、「華梨」と彰に声を掛けられた。 「眉間に皺が出来てる」 「げ」 思わず手で眉のあたりを隠す。 なにを考えているのかが彰にばれている気がした。 「彼氏に会うのに眉間に皺なんてかっこ悪いって」 「……わかってるわよ」 ジロリと彰を睨むと、「いってきます」と片手を挙げて、わたしに背を見せ歩き出した。 彰の笑い方が、少し淋しげだった。 「夏休みは取れたら取る」と言っていたタツヤは、結局仕事が忙しくて夏休みを取る事ができなかった。 「ごめんな」と謝るタツヤに、「ならわたしがタツヤの家に行く」と言い出した。 部屋が汚いだとか、仕事が詰まってるから来ても退屈だろうだとか言う彼を、「大丈夫だから」と言いくるめてタツヤの家で過ごす事にしたのだ。 「で、そっちはどう?」 タツヤの部屋で過ごす夏休み二日目。 仕事を終えて帰宅したタツヤと二人で夕食を共にしている時に、彼がそう問い掛けてきた。 「……うん」 「『うん』てなんだよ。あ、もしかしてあの子と上手くやってないんだろ」 「彰と?それなりに上手くやってるよ。ただ……」 「ただ?」 「なんか最近あの子元気ないっていうか・・・どことなく不自然なのよね」 わたしはふぅ、とため息を漏らし、自分で作ったカレーを口に運ぶ。 いつも穏やかに笑う彰。その彰がいつもの笑いを見せない。そのことがこんなにも気になっている。 それは不自然なような、ごく当たり前のような、不思議な感覚。 だけど今は自分の中にある不思議な感情よりも、彰の内側の方が気に掛かる。 テーブル上に置かれた卓上カレンダーに目をやる。 彰は明日合宿を終えて帰宅するはずだ。誰もいないあの部屋に。 「タツヤ」 「うん?」 「明日も仕事よね?」 「ああ。でもなるべく早く帰るよ」 タツヤがそう言ってくれたのは嬉しかった。 だけど――。 「ごめん。わたしどうしても気になる事があるから、明日帰るわ」 様子のおかしい彰が真っ暗な部屋に一人で帰る姿を想像すると、なんだかやる瀬なかった。 彰の為にしてあげれることなんてなにもないけれど、せめて『おかえり』と言ってあげたい。 *** 『笑ってない。』家を出る前華梨にそう言われて驚いた。 『何かあった?』そう聞かれて戸惑った。 正直、俺にもよくわからなかった。華梨に対していつもどおり笑っているつもりだったから。 いや、本当は気付いてたんだ。いつもと同じ様に振る舞ってるつもりだったけど、胸の奥がチクチクしていたから。 俺が合宿に行く間、華梨が彼氏と家で過ごす。その姿を思い浮かべた瞬間‘嫌だ’と、そう思った。 だけどどうしてそう思うのかは解らなくて、自分の留守中に他人が上がり込むのが嫌なだけだ、と自分を納得させた。 だから華梨が『彼氏は呼ばない』と言った時、安堵したのも自然な事だった。 でも華梨が彼氏の家に行くと聞き、俺は自分でも解るくらいに落胆していた。 その理由を探そうとはしなかった。答えを見つけた時、何かが終わってしまう予感がしたから。 理由は探さない。そう決めていたのに、結局頭の片隅でチラついて練習に集中できず、合宿中は監督にいつも以上に怒鳴られた。 2泊3日の合宿は学校で解散になり、終わった。厳しい合宿が終わっても夏休みはまだまだあって、練習は毎日の様にある。 このくそ暑い中での練習を思い浮かべると、もう夕食時で腹が減っているにも関わらず、家への帰り道に寄ったコンビニで買ったのは、アイスクリームだけだった。 いつだったか、華梨がCMを見ながら「これ食べたい」と言ってたアイス。家に帰っても彼女は居ないとわかっているのに、自分の分と華梨の分を買ったりしていた。 コンビニの袋をぶら下げて部屋のドアの前に立ち、鍵を差し込む。日が沈み始めるこの時間、部屋の中はきっと薄暗いだろう。 電気を点けずにそのまま寝るのもいいかもしれない。そう思いながらドアを開けると、部屋の中には明かりが点っていた。 「おかえりー」 玄関のドアが開く音が聞こえたのか、華梨が自分の部屋から顔を見せてそう言った。 「……ただいま」 「どうだった?合宿」 「うん。監督と越野に『それでもキャプテンか』って怒鳴られまくった」 「あはは。……え、ていうか彰、キャプテンになったの?」 なんで教えてくれないの。華梨はそう言いながら俺の肩をバシリと叩いた。 「華梨、帰ってくるの明日じゃなかった?」 彼女の夏休みは俺の合宿より一日多くて、彼氏の家から戻るのは明日だと聞いていた。 「んー……そうなんだけど……。彼仕事忙しくてあんまり構ってもらえないからさ、帰ってきちゃった」 肩を竦める仕種をして、ニコリと笑い彼女は言った。 「それより夕飯にしない?……あ、もしかして買ってきちゃった?」 俺が持つコンビニの袋に目を遣り、そう言った彼女に袋からアイスを1個取り出して見せる。 「あ!コレCMやってたやつ!」 キラキラした、期待の篭った眼差しで俺を見つめる華梨。 「ごめん、華梨は居ないと思ってたから1つしか買ってないんだ」 「えー!?」 あまりにも期待たっぷりに俺を見るから、ちょっとイジメてみたくなって言った言葉に、華梨は頬を膨らませた。 「冗談だよ」と言って袋ごと彼女に渡す。中に入っているアイスを確認して、華梨は嬉しそうに笑った。 そんな彼女を見て、俺の口から笑いが漏れる。 「……?何が可笑しいのよ」 「華梨ってやっぱり面白いなって思ってさ」 「バカにしてるわけ?」 「まさか」 暫く黙ったまま見つめ合い、やがて二人同時にふっ、と笑いを漏らした。 「彰、合宿でなんかイイことでもあった?」 「特にないけど……なんで?」 「笑い方、いつも通りになってるから」 言いながら、華梨はアイスの袋を開けた。 「ねぇ、合宿で何があったの?」 「なんもないって」 「えー、教えてくれてもいいんじゃないの?」 ニヤリと笑い、肘で俺の脇腹を小突く彼女に、思わず苦笑いか漏れる。 俺がいつもの様に笑えていなかったのも、今、いつもの笑いを取り戻したのも、全て華梨のせいだというのに、当の本人は何にも気付かず笑っている。 そんな彼女の顔を見ていると、なんだか体の内側がむず痒くなって、華梨をからかいたくなった俺は、彼女の持っていたアイスを自分の口に運んだ。 俺に対して、華梨は予想通り、「わたしのアイス!」と漏らし、俺の頭を軽く叩いた。 |