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小澤華梨と初めて顔をあわせた日――つまり引越し初日は特に何の問題もなく終わった。 引越し屋の言っていた通りに俺の荷物は昼過ぎに届き、俺は俺の、彼女は彼女の荷物を整理して、全てが終わった頃にはすっかり日が落ちていた。 「引越し蕎麦だよね、やっぱ」 まくっていたTシャツの袖を下ろしながら、小澤華梨が言った。 「え?」 「晩ご飯!体動かしたからお腹減らない?」 「もうそんな時間か」 「うん。わたしの手料理なんかでよければすぐ用意できますが」 いかがですか?なんて畏まった言葉を、いたずらっ子みたいな顔で言う彼女に、お願いします、と返した。 「了解」 そう言って片付けられたキッチンに立った彼女からは時々、「あれどこだっけ」とか、「間違えた」とか、少し怪しげな独り言が漏れていた。 「手伝いましょうか」 「彰くん料理とか出来るの?」 少し驚いたような顔をした彼女に、情けなくも「出来ません」と返すと、 「やっぱりね。まぁ一人暮らしの男の子なんてそんなもんでしょ。いいよ、わたしやるし。ちょっと座って待っててよ」 と、一蹴され俺はおとなしくリビングの椅子に腰を下ろした。 そして数十分後、テーブルに並んだのは二人分のざる蕎麦だった。 「手料理なんて言えたもんじゃないか」 そう呟いて、椅子に腰をおろした小澤華梨。 「そんなことないですよ。蕎麦とか久しぶりに見ました」 「気使わなくっていいって。さ、食べよ!」 いただきます。そう言って二人同時に手を合わせ、蕎麦を啜った。 「ほんとに気、使わなくていいからね」 一口目の蕎麦を飲み込んだ彼女が言った。 「昼間にも言ったけどさ、楽にやりたいし、気ぃ使われるとこっちも気使うし」 また蕎麦を啜る小澤華梨。 「決まりとか作るの嫌だけど、これがわたしと彰くんとの決まり。『お互い干渉せず、気を使わない。』」 どう?、と首を少し傾ける彼女。 「いいですよ。俺もそのほうがいいし」 「よしっ。決まりっ!」 これから始める共同生活のルールを決め、また二人で蕎麦を啜った。 ジリリリリリ――。 けたたましく鳴るのは目覚まし時計だ。それを認識して、腕を枕元に伸ばした。手探りでボタンを探し当てて、押す。再び戻ってきた静寂のおかげで眠ることが出来る。 コンコン、と遠くの方で遠慮がちな音がしたけど、ここは眠気の勝利だ。 「彰くん?起きたー?」 今度は小澤華梨の声。 ドアの向こう側からだろう。すごく小さな声だ。 「彰くんてば」 「……」 「もう……」 また静寂が舞い戻ってきた。やっと眠れる。 「あきらー!!」 見事なまでの大声で眠気は一気に吹き飛んでしまった。 「もうそろそろ起きないと遅刻でしょ?新学期早々遅刻はまずいんじゃないの?」 寝室からのろのろと顔を出した俺に、朝っぱらから爽やかな笑顔を向ける小澤華梨。 「なんで時間まで……」 知ってるんですか。そう続けようとしたけど、欠伸を飲み込む事は出来なかった。 「あれ?言ってなかったっけ?わたし陵南出身なのよ」 授業開始時刻くらいなら覚えてるわよ、彼女は得意げな顔で言った。 「わたしもう出るから。あ、朝ごはんあるよ。間に合いそうだったら食べて」 それから慌ただしく鞄を持ち、靴を履いて仕事先へと向かう彼女の背中を、ボンヤリと見送った。テーブルの上にはキツネ色のトーストと、真っ赤なトマトの入ったサラダが置いてある。 授業開始までに間に合うかどうかは微妙だったけど、とりあえずテーブルに着いて朝食を取った。 「どうしたんだよ、仙道。お前が遅刻しないなんて」 学校まで軽く走り、教室の席に着いた途端、越野が本当に驚いた顔で言った。 「起こされたんだよ」 「誰に」 「小澤華梨」 「は?」 越野はさっぱり訳がわからない、という顔をしていた。 小澤華梨と同じ部屋で生活するようになって、一週間が経った。 初めて会った日に言った通り、この一週間、彼女は何も言わなかった。 俺が何時に起きようが、何時に帰ろうが、「何処に行っていたのか」とか「何してたのか」とか聞いてきたりすることはなかった。(まぁ毎日部活だっただけだけど) 俺も彼女に関して何か聞いたりすることはなかった。 そもそも俺が起きる頃には彼女はもう仕事に出ていて部屋には俺一人だったし、仕事から戻った彼女は夕飯を作って飯を食い、風呂に入り、すぐ自室に入る。 必要以上に干渉してこない小澤華梨。 そんな彼女に起こされるのは今朝がこの一週間で始めての事だった。 「誰だよ小澤華梨って」 訝しげに聞く越野。 事の始まりから今日までの事を説明するのはめんどくさそうだ。 最初母親から『知り合いの娘さんにお世話になれ』なんて言われた時には、さすがの俺もすぐに言葉が出なかった。一度も会ったことない人間と生活しろなんて急に言われてビックリしない奴がいるわけない。 親が‘しっかりした娘さん’だなんて言うような人だ。口うるさい世話焼きなオバサンだと思ってた。 今までのように気楽には出来なくなるだろう。俺はそう思った けど実際小澤華梨とはこれといった問題もなく、俺は彼女に変に気を使うことも無く、わりと気楽だ。たぶん彼女の持つ雰囲気が、気を使わなくさせてるんだろう。 彼女が大人だから醸し出せるものなのかもしれない。 「なるほどな……」 なぜ見ず知らずの女と暮らすことになったのか。その経緯を話してやると、越野は腕を組んで唸った。 「仙道、お前それ大丈夫なのか?」 「何が?」 「いや、だからさ――」 「彰」 越野の言葉の途中に割り込んできたのはサエコだ。隣のクラスからわざわざやってきたんだろう。 「彰、話があるんだけど」 サエコは俺を見て、それから越野を見た。 越野は俺と視線を合わせると少し肩を竦め、「便所行ってくる」と言って席を立った。 越野が居なくなった途端に、サエコは口を開いた。 「なんで連絡くれなかったの?」 「いつ?」 微笑みながら問い返す。 「春休み中ずっと」 なんだ、話ってのはそんなことか。別に越野を追い出す程のもんじゃない。 「部活の練習があったから」 「そんなこと知ってる。それでも電話1回くらいくれてもいいんじゃないの?」 「ごめん」 申し訳なさそうな顔を作ってみた。サエコからはどう見えてるかは当然ながらわからない。 サエコに「好きだから付き合ってほしい」と言われたのは、春休みに入る少し前だった。 付き合い出して電話を一度もしてないんじゃ怒るのも無理はないかもしれないな。 「あたし、待ってたのに……。彰から連絡くるの」 語尾を少し震わせながらそう言うと、サエコは向きを変え自分の教室へと戻って行った。 ドアの所で、越野と彼女がすれ違う。 「……で?」 再び自分の席に腰を下ろした越野が言った。 「『で?』って?」 「だからさ、彼女に言ったのかよ。その小澤華梨って女と住んでるって」 「言ってないよ」 「お前……さすがにそれはめんどくさい事になるんじゃねぇの?」 「言ったほうがめんどくさいだろ」 俺がそう言うと、越野はもう何も言わなかった。 めんどくさいことはごめんだ。 小澤華梨とは、ただ同じ部屋に住んでいるってだけで、やましい事なんて何もない。それでもサエコに話せば話はややこしくなる。 怒る彼女に、弁解する俺。そのくらいは簡単に予想がついた。 そんな面倒なこと、誰だって避けたいに決まってる。 今日は始業式だけで授業は無かった。だけどバスケ部の練習は春休みだろうが始業式だろうが毎日あって、始業式の後教室で寝ていて部活に遅れた俺は、例の如く監督に怒鳴られた。 「おかえりー」 バスケ部の練習はいつも通り厳しくて、ぐったりした体を引きずるようにして家に帰ると小澤華梨がキッチンから顔を覗かせた。 今まで一年間一人でやってきてると、‘おかえり’って言葉がやたら懐かしく聞こえるな。 「ちょうど夕飯出来たとこなんだけど、食べる?」 「うん、食べるよ」 「じゃあさ、お箸と丼出して」 「丼?」 「そ、今日の夕飯牛丼だよ」 牛丼屋より美味く出来た、そう言い切った彼女の牛丼は食べてみると少し味が濃かった。 「まぁ次回は牛丼屋を越えてみせるからさ」 「期待してます」 キッチンテーブルの真向かいに座る小澤華梨の顔をまじまじと見つめる。 細い体にはっきりした目鼻立ち。 改めて見ると、やっぱり美人だと思う。 「なに?人の食事中の顔じろじろ見て」 俺の視線に気づいた彼女が、丼から視線を上げた。 「いや、華梨さんてやっぱり美人だなと思って」 「お世辞言ったって何にも出ないわよ?」 「結構本気なんだけどな」 「それはどーも」 そっけなくそう言って再び箸を進める小澤華梨。 彼女は美人だと思う。だけどサエコが疑いたくなるようなことは何もないし、これからだってない。 俺から見れば彼女は大人で、彼女から見れば俺は子供なんだと思う。それに彼女にだって男の一人や二人いるかもしれない。 サエコに話さなかったのは、変に疑われるのが面倒だったからだ。 「彰くん、おかわりは?」 俺の手元の空になった丼を見て、彼女が言った。 「お願いします」 「ん」 小澤華梨の作った少し味の濃い牛丼を、彼女の手から受け取った。 |