夢の中だったのか、それとも現実での出来事だったのか。全部が曖昧だった。
華梨と身体を重ねた事も、夢だったかもしれない。
薄明かりの中、眠る俺を置き去りに華梨が部屋を出て行ったのも、夢だったのだろうか。
もし、全てが夢だったとしたら、華梨が恋人に振られた事も、夢なんだろうか。もしそうだとしたら、その方がいいのかも。華梨が心を痛ませていることもないだろうし。
俺にとって辛い現実だとしても、華梨が傷ついているより、マシな気がする。
微睡の中で、ボンヤリそう思った俺は、ゆっくりと目を開いた。

窓から差し込む光。そこは華梨の部屋で、俺が横たわっているのは、紛れもなく彼女のベッドだ。
床に散らばった自分の服を見下ろして、昨夜の出来事か現実だったと理解する。

眠気の覚めない体を引きずり、服に袖を通す。何時ごろなんだろうかと時計に目を走らせれば、いつもならまだ眠っている時間帯。
華梨が、出勤する前の時間だ。

俺と顔を合わせた瞬間、彼女はどんな反応をするだろうか。そう思いながらリビングへと続くドアを開いた。
だけどそこは、いつも華梨が見ているニュースの音も、いつも飲んでいるコーヒーの匂いも無い、薄暗い部屋だった。


***


タツヤに振られて、その寂しさを彰で紛らわす。どっからどう見たって最低なのは、わたしだ。

まだ日も昇りきる前に部屋を出たわたしは、どこに行くのかも決めないまま、電車に飛び乗った。電車の揺れは、いつもなら眠気を誘うのに、今日ばかりはわたしの涙を誘う。
悲しくって泣きたいんじゃない。自分の馬鹿さ加減が情けなくて、涙が出そうになるんだ。


「別れた!?」

行く当てもなく飛び乗った電車。気付けばそこは、東京で仕事をしていた時、同じ職場で働いていた友人の家の付近だった。
わたしとタツヤのこともよく知っているこの友人の前でなら、泣くことが出来るかもしれないと思い、訪れたのだ。

「別れたって……なんで?」

タツヤとわたしが別れた事に余程驚いたのか、友人は目を丸くして言った。

「……浮気、されてたみたいなんだよね」

あはは、と、乾いた笑いを漏らしてみせる。

「……夏ごろ相手に告白された?とか言っちゃってさ。断れよ!って感じよね」
「……うん」

友人がわたしを見つめる目は、同情に満ちた、痛々しい視線だった。

「……華梨、ごめん」
「なんであんたが謝んの」
「……だって、私、タツヤさん浮気してるかもって、思ってたから……」

友人は心底申し訳なさそうに言った。わたしは東京を離れてしまったけれど、彼女の職場は変わらずタツヤと同じ部署にいる。

「……どういうこと?」
「華梨と入れ違いで入って来た新人の子とタツヤさん、なんか妙に仲良いなって思ってたんだよね、最近……」

私が華梨に言っておけばよかった、と彼女は言った。

「わたしと入れ替わりに新人が入ったのはタツヤから聞いてたんだけど…….。そっか、その子なんだ……」
「多分……」

わたしも彼女も、それから暫く黙っていた。
彼女は、タツヤとの別れに傷ついたわたしを同情し、その痛みを理解してくれようとしている。それがわたしにとっては救いでもあり、だけど、同時に後悔の念をまざまざと感じさせてくれた。

「でも、わたしもタツヤと同じかも」
「え?……もしかして、華梨も浮気してたってこと?」
「似たようなものよ」

眉間にシワを寄せて、わたしを見つめる友人に、話してしまいたい。これ以上自分ひとりの内側に置いておいても、楽にもなれないし、罪悪感が募るだけだ。
話したって、楽になれるとも限らないけれど。

「タツヤと別れたその直ぐ後に、ね……」

それだけ言って、友人をチラリと見る。
彼女は何か考えるように暫く黙っていたけれど、タツヤと別れた直後のわたしの行いがなんだったのかを悟ると、やがてゆっくりと口を開いた。

「別れた後なんでしょ?じゃあ別にいいんじゃないの?」

そんなことか、と、半ば呆れたように彼女は言った。
わたしはそれに救われたけれど、彼女はまだ、全てを知ってるわけじゃない。

「あ、もしかして相手の男に彼女がいるとか、そんなの?」
「ううん、いないよ」
「ならいいじゃない。タツヤさんと別れる前から何かあったわけでもないんでしょ?」
「うん。相手はわたしのこと好きだって言ってたんだけど……」

わたしを好き、と、そう言った彰の優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。

「そうなんだ。……相手の人は今同じ職場の人なの?」
「ううん」
「前から知り合いだった人?」
「ううん」
「……?」

わたしに話すつもりがないと思ったのか、友人はそのまま黙ってしまった。
わたしも、相手が誰かなんて、話す必要はないけとわかっていたし、彼女がどう思うのかも不安だった。それでも、一人では抱えきれない罪悪感なの。

「……神奈川へ異動になる前、知り合いの息子と一緒の部屋に住むって話、したじゃない?」
「ああ、高校生だっけ、その子」
「……その子なの」
「なにが?」
「……タツヤと別れて直ぐに寝た相手」

わたしが寝た相手は高校生なの。それを聞いた友人は、『タツヤと別れた』と、そう告げた時よりも驚いた顔をしていた。
やっぱり、そういう反応になるのよね。

仕事があるからと部屋を出た友人に代わり、この部屋でひとりぼんやり過ごす。自分の職場には、「具合が悪いから」と電話して、休みを貰った。失恋ごときで仕事を休むなんて、寧ろ笑える話だわ。
いい歳した大人がズル休みだなんて、なに小学生みたいなことしてるんだろう。たったひとりきりの部屋で、そっと溜め息を吐いた。

東京に住んでいた頃によく泊まりに来た友人の部屋は、あの頃と全く変化がない。だけど少しだけ狭く感じるのは、自分が住む部屋と比べてしまっている所為だろう。

自分の部屋を思い出せば、自然と浮かぶ彰の顔。
今頃は彰も学校だろうか。
わたしのいないあの部屋で一人目覚めた彰は、一体どう感じただろう。



「せっかく華梨が東京まで出てきたんだから、外で美味しいものでも食べようよ」

1日中同じ事を考えてばかりで、気が付けばもう日の沈む時間だった。仕事を終えた友人から誘われ、わたしたちは居酒屋へ向かった。
失恋した時にはお酒だなんて安直な気もしたけど。

「華梨さ、その高校生の子、好きなわけ?」

2人して酒を煽り、顔が赤みを帯びてきた頃に、友人がそう切り出した。

「……わかんない」
「『わかんない』?」
「嫌いじゃ、ないよ。……だけど――」

嫌いなんかじゃない。
だけど『好きか』と問われれば、答えは『No』なんだ。

「いっそ彰のこと、好きだったらよかったのに……」

彰のことを好きだったなら。そしたらわたしはこのまま彼の恋人になっていたかもしれない。
だけどわたしは、彰に恋愛感情を抱いていないし、これからもきっと抱かない。それなのに、彰の優しさに甘えて、利用したんだ。
度々襲ってくる罪悪感に再び飲み込まれたわたしを気遣い、友人は暫く黙っていた。

「もう彰に合わす顔がない」

彰に、一体どんな顔で会えばいい?
あの部屋に戻っても、もう前の様に楽しく過ごすことは出来ない。
部屋には、帰れない。

「暫く泊まってもいい?」
「構わないけど……華梨、仕事は?明日からはもう行くんでしょ?」
「……こっちから通う」
「華梨がいいなら私はいいけど……」

それなら食料買い込まないとね。友人は、明るい声でそう言った。
たとえ友人に迷惑をかけようが、通勤に不便だろうが、わたしは、あの部屋に戻れない。彰を利用しておいて、彰と向かい合うことが怖くて逃げ出すわたしは、なんて卑怯者なんだろう。

「じゃあそろそろ帰る?華梨明日から朝早いし」
「……そうだね、帰ろっか」

食料品も買いにいかないといけないしね。そう冗談っぽく漏らした友人に、わたしは少しだけ笑った。
会計を済まそうと席から立ち上がった時、テーブルの上に置きっぱなしだったわたしのケータイがバイブした。
手を伸ばし、画面を見つめる。そこにあったのは、彰からの着信表示。

「出なくていいの?」

通話ボタンを押すことに躊躇して、バイブし続けるケータイを握ったままのわたしを不思議そうに見つめ、友人は言った。

「……出る」
「うん。じゃあ私先に外出てるわ」

そう言って自動ドアから店の外へ出て行く友人の背中を見送りながら、恐る恐る通話ボタンを押した。

「――もしもし」

自分の声が緊張しているのがわかる。

『あ、華梨?』

電話の向こうの彰の声はいつもと何も変わらない、少し暢気そうな声。

『今どこ?』
「……友達の所」

今日は帰らない。暫く帰らないから。そう言いそうになったところで、彰の声が耳に響く。

『帰り遅いから華梨に何かあったのかと思ってたんだ』
「……ごめん」
『謝らなくていいよ。……でも、よかった』
「……何が?」
『華梨はもう俺の電話には出てくれないかと思ってたから』

彰の声は、心底安心したような響きだった。

「彰……ごめん」

あんたの気持ちを利用してごめん。
あんたの優しさに甘えてごめん。
あんたと顔合わせるのが怖くて逃げ出すような臆病者でごめん。

『華梨が無事だってわかったから、もういいよ』

ありとあらゆる「ごめん」を込めたわたしの謝罪を、彰は単に心配掛けたことに対するものだと思った様だった。

電話越しでは顔は見えない。だけど、きっと彰は電話の向こうで笑ってる。
いつもと何も変わらない、あの優しい笑顔で。

『華梨』
「うん……」
『華梨が居ないとさ、部屋がすげー広く感じる』
「……うん」
『俺、淋しくて死ぬかも』
「……ばか。ウサギじゃないんだから」

そう言うと、彰は笑った。
わたしも、笑った。

『華梨』
「うん」
『早く帰って来てよ。俺、待ってるから』

彰の声は優しい。

「うん……もうすぐ帰るから……」
『うん、待ってる』

わたしは携帯を閉じると、急いで外にいる友人の元へ向かった。

「……ごめん、わたし、やっぱり家に帰る」

情けなさで胸いっぱいのわたしがそう告げると、友人は少しだけ目を見開いたけれど、すぐに優しく微笑んだ。

「うん、好きにすればいいよ」
「本当にごめん。今日はありがとう、また連絡するから」

友人に別れを告げて、小走りで最寄り駅までの道程を急いだ。走っていると、ドクドクと脈打つ自分の心臓の音と、彰の声が頭に響く。
彰、ごめんね。またあなたの優しさに甘えてしまう。
甘えたがりのわたしを、どうか許して。