木ノ葉の里が夕方の赤い太陽に包まれていく様を、窓越しに見ていた。もうすぐ夜がやってくる。
『オレはお前が無事里に戻ってきて安心したよ』
任務へ赴くカカシと別れたあとも、頭の中でこの言葉を繰り返した。カカシの声も表情も、何度も、何度も。
『仲間だから』と言った彼の声と瞳に嘘は無かった。
十数年会わなかった間に、カカシの中のわたしという存在が、‘離れてしまった幼馴染み’から、‘同じ里の、仲間なのかも曖昧な人’になってしまったのではないかと、本気でそう考えていた。だからカカシがわたしに向かって、『仲間だから』と言ってくれたことが、胸が詰まってしまいそうなくらい、嬉しかったのだ。
オビトが亡くなった後、カカシの仲間を大切に思う気持ちの変化を目の当たりにしていた分、彼から向けられる『仲間だから』という言葉が、わたしに響く。
たった一言を、飽きることなく、噛み締める。
* * * * *
休暇2日目。辺りが暗くなり、空に月と星が浮かんでいる。すれ違う人々の顔に浮かぶ暖かい笑顔に、なんとなくほっとさせられた。
わたしが目指す場所は、里の大通りにある居酒屋だ。何度か足を運んだことがある、大きくもないけれど小さすぎもしない、落ち着く店。
「エリ」
店の中に足を踏み入れると同時に飛んできた声。声のした方を見れば、彼女の座るテーブルには、既に空の酒瓶がのせられている。
「紅・・・相変わらずみたいね」
「まぁね。それで、そっちはどうなの?」
紅の向かいの席に腰を降ろして、店員にビールを注文した。
「綱手様に休暇は要らないって反抗したんですってね」
紅は綺麗な口許を少し持ち上げて、言った。
わたしと紅は同じ上忍同士、昔からの顔馴染みということもあって、任務の合間に顔を合わせては互いの近況を報告しあう間柄だ。里に戻るたび、時間があればこの店で飲むのが定例になっていて、今夜もそれに習って二人は顔を合わせている。
「今日も任務命令が来るのを期待してたんだけど、結局来なかったわ」
苦笑いを交えて答えると、任務がないからこうして飲めるんじゃない、と、紅は言う。
それもそうか。いつも死の危険が隣り合わせのわたしたちが、こんな風に友人と顔を合わせることが出来るというのは、本当に素晴らしいことなのだと、そう思う。
わたしの注文したビールが運ばれてきて、二人はグラスを触れあわせて、喉に流し込む。久しぶりに味わうアルコールが、体を熱くする感覚。
二人して杯を重ねながら、色んな話をした。
互いが受け持った任務の話、わたしが遠国にいた期間に里で起きた出来事や、共通の知人の近状。紅が担当していた教え子の話をする時、いつもクールな彼女とはまた少し違う表情になるのが印象的だった。
数年ぶりの再開に、不思議と話題は尽きなくて、ある程度一段落すと、また違う話題へと移る。
合間合間にアルコールを口に運んでいた紅が、手にしているグラスを空にしてテーブルに置いたと同時、新たな話題を持ち出した。
「そういえば・・・あなたたち長期任務隊が追撃された時、里から送られた増援って、カカシ班だったんでしょう?」
「・・・あぁ・・・うん・・・」
「それで?」
「それで、って、何がよ」
「何がじゃないわよ。カカシよ、カカシ」
「・・・・・・」
わたしが何も答えぬまま黙っていると、紅は小さく溜め息を吐いた。
同じ時代を過ごしてきた紅は、わたしとカカシが幼馴染みであることも、そして、里から逃げ出した経緯も、知っている。
「・・・昨日、カカシに会ったわ」
「へぇ」
「・・・わたしが里に戻ってきて安心したって言ってた」
「そう・・・」
紅は新たなグラスに口を付けて、一口啜った後、ふと漏らした。
「頭で色々考えてばかりいないで、自分がしたいように動けばいいのに・・・。変なところ不器用よね、あなたも」
わたしは何も言葉を返すことが出来ずに、ビールを煽った。
「・・・わたしのことばっかり聞いてないで、紅こそどうなの?」
「え?」
「アスマと。付き合ってるんでしょう?」
わたしが問いかけると、紅は照れたような、困ったような笑いを浮かべるだけだった。
人から情報を掠め取ろうとするくせに、自分のことはひたすら秘密主義なんて、そんな忍の癖をこんな時まで発揮しなくてもいいのに。
そろそろお開きにしましょうか。そう言いだした頃にはすっかり日付が変わっていた。店を出ると夜の冷たい風が吹き抜けて、アルコールの熱を冷ましてくれる。
「明日からまた長期任務だったらいいなって思ってる?」
紅からの問いに、わたしは首を振る。
「正直、自分でもわからないけど・・・通常の任務でもいいかなって思う。まぁ、どちらにしろ休暇なんてそう長くは貰えないだろうし」
「そうね」
それじゃあまた。そう言葉を掛け合って、店の前で別れようとした時だった。紅は歩き出したわたしの肘を掴んで、ぐっと側に引き寄せる。
予期せぬ紅の行動に、訝しい視線を投げつける。すると彼女は、その大きな瞳だけで‘あっちを見てみろ’と指示を出す。
紅の示した方角に目を向けて、わたしは思わず、「あ」と、間抜けな声を上げてしまった。
「カカシ、今任務帰り?」
「まぁね」
通りの向こうからやって来たカカシが、紅に声を掛けられて足を止める。
「ちょうど良かった。カカシ、エリを送ってやってくれない?ちょっと飲み過ぎちゃったみたいなのよ」
「ちょっ・・・」
紅の思わぬ提案に抗議しようとしたわたしに、彼女はその視線だけで、「黙ってなさい」と、そう言った。
「あぁ・・オレはかまわないよ」
「ならお願いね」
紅はそう言い残して、足早にその場から去っていく。
勿論、わたしは酔ってなんかいない。紅ほどじゃないにしても、それなりにアルコールに対して耐久性はあるし、酔ってしまう酒量の境界線を自分で知っていて、それを踏み越えてしまうことなんてない。そんなこと紅だって重々承知の筈で。
なのにこうしてカカシとわたしだけを残して去っていったのは、彼女の気遣いなのだろうけれど。
「・・・綱手様への報告はよかったの?」
「任務報告はしてきたよ。オレはもう帰るだけ」
「そう。・・・・ごめん」
わたしがそう口にすると、カカシは少し困ったような顔をして笑った。
「なんでエリが謝るのよ」
「・・・・なんとなく」
カカシは少し目を細めて、「お前も変わったヤツだねぇ」なんて漏らして、歩き始めた。
彼が進む方角にあるのは、くの一居住地域。つまり、わたしの家。
謝罪をしたのは、こうしてわたしと時間を共にすることに対して、やるせない気持ちになったからだ。
本当はカカシも、わたしと顔を合わせることを苦痛に感じてるんじゃないだろうか。
カカシと向かい合うことを怖れて十数年も逃げ続けたわたしを責めてるかもしれないし、呆れてるかもしれない。それとも、もうそんな感情も抱かないほど、カカシにとってわたしは、どうでもいい存在になった・・・?
「エリ、どうした?・・・歩けないくらい酔ってるの?」
一向にその場から動こうとしないわたしを、カカシは振り返った。そんなカカシの姿に、幼い頃に見た優しい彼と、『仲間だから』と言った暖かな声が蘇る。
なんでもないの。そう答えて、カカシの後を追う。
隣に並んで、昨日一緒に歩いた時より少し、ほんの少しだけ距離を詰めて隣に並んだ。ゆっくりした足取りで歩き始めれば、隣のカカシも同じスピードで歩き出す。
「・・・結構飲んだの?」
「え?・・・あぁ、それなりに。紅ほどじゃないけど」
「ま、紅には敵わないよねぇ」
「・・・・カカシは紅とお酒飲んだりするの?」
「紅とっていうより、何人かで集まったりとかでたまにね」
「・・・そう、よね」
なんだか不思議な感じがする。
わたしが知ってるカカシは、まだ十代の、アルコールを摂取することも禁じられている年齢で。しかもその頃の彼は、仲間よりも、忍としてのルールや掟を何よりも重んじていた。そんなカカシが皆と集まって、和やかにお酒を飲んだりするなんて。
隣を歩くカカシを見上げる。銀色の髪が輝く月の色みたいだと思った。
十数年前、リンの墓の前で見た彼の横顔より、精悍で、当たり前だけど、大人だった。身長も、あの頃はきっと、こんなに差がなかったはずで。
「・・・ねぇ、カカシ」
「んー?」
「そっくりね、あの子。ミナト先生とクシナさんに」
「・・ナルトか」
「ええ。すぐには気付かなかったんだけど、もう随分大きくなったのね」
「あぁ・・・。世代交代もそろそろかもね」
カカシの視線は、遠くを見ているようだった。その瞳に浮かぶ色を、わたしは何度も見てきた。
紅が担当していた教え子の話をしていた時、ミナト先生がカカシたちを見詰める時・・・。
それは、師の瞳の色だ。厳しくも優しくもなる先生の瞳。
時間は、流れている。わたしの知らないところで、カカシはカカシの時間を過ごした。それは、彼にとってどんな時間だったのだろう。
九尾の出現と、ミナト先生の死。
暗部の任務。そして、師としての下忍担当。
大蛇丸の木ノ葉崩しに、三代目の死。
わたしが里から、カカシから逃げ出している間に起きた出来事を、カカシは、どんな風に見詰めて、どんな風に思ったのだろう。
逃げてばかりいたわたしには、それを知る権利もないだろうか。
「・・・もうここで大丈夫よ」
あと少し歩けば我が家という地点まで来た時、わたしは言った。
そもそも、最初から送ってもらう必要なんてなかった。酔っている訳でもないし、暗い夜道だからと言って暴漢に襲われる恐れもない。ここは安全な里内で、ましてやわたしは忍だ。そう簡単に襲われるはずもないのだから。
それなのに最初から『大丈夫』と言わなかったのは、カカシと少しでも一緒にいたいと思ったから。開いてしまった距離を縮めることが出来たらと、そう望んだから。
だけど、近付こうとするとカカシとの距離の大きさを感じる。
流れた時間を共有出来ない虚しさ。それら全部が自分自身で選んだことの結果だと思うと、後悔の念でいっぱいになってしまう。
「・・・大丈夫なの?」
「平気。送ってくれてありがとう」
「・・どういたしまして」
「・・・カカシは明日も任務?」
「ま・・・多分ね・・・」
「そう・・頑張ってね」
「あぁ・・・」
カカシは後頭部を掻きながら、遠くに視線を向ける。その様子から、彼が次の言葉を探しているのが解る。
「・・・・エリ」
「うん・・・」
「ま、あれだ・・・任務から戻ってきたら、皆で集まってもいいんじゃない」
「・・・?そうね、そうすればいいんじゃない?」
「そうすればって・・・オレはお前を誘ったつもりなんだけど」
「・・・え?・・ごめん、気付かなかった」
「アスマとかガイのヤツもエリに会いたがってたし・・・お前ずっと里から離れてたからそういうのないでしょ」
「・・・まぁ、そう言われれば・・・皆と顔を合わせたりする機会とかなかったし・・・」
「ガイとか・・・張り切って人集めてくれそうじゃない」
「あはは、確かにね」
自然に笑いが漏れる。ずっと緊張していたなにかが、少し緩んだように。
カカシを見ると、彼も目を細めていた。
「ま、ガイには話しておくよ」
「あくまでもガイ任せなのね」
「適任でしょ」
「そうかもしれないけど・・・。ま、いいわ」
「じゃあ、またな」
「・・・・えぇ・・また、ね」
またね。そうやって、また会うことを前提とした別れの、ありふれた挨拶を交わす日がやってくるなんて、思ってもみなかった。
人々が当たり前に口にするその挨拶も、わたしにとっては随分遠いものになっていたのだと実感する。
わたしとカカシの間に開いた距離は大きくて、取り戻せない時間と、大事なものを失った。
それでも、もう一度向き合いたいから。
だからどうか許してほしい。特別な存在でなくて構わないから。
同じ里の忍として、仲間として、もう一度、あなたと距離を近付けていきたい。そう思うことを、どうか許して。
← back →