「それにしても、土方さんがあの子の外出を許可するなんてちょっと意外だったな」

新選組屯所八木邸の門前でそう口にした沖田は、向かいに佇む斎藤を見遣る。

「・・・副長が雪村の外出を許可したのは、あんたがきちんと見張っておくことが条件だろう」

斎藤は何事か思案しているのか、その瞳を伏せたまま言葉を返す。
斎藤の言葉を受け、沖田は僅かに眉を寄せた。

「それ別に僕じゃなくてもいいよね。一君でもよかったんじゃない?」

「副長はあんたに雪村を見張れと命令した。副長の命令には従わねばならない」

付け入る隙が無いほどの土方への忠誠を見せる斎藤。そんな彼の姿に沖田は呆れた様に溜め息を吐いた。
一君ってホント真面目だよね。そう口にしようとした沖田の言葉は、母屋から駆け足でやって来た少年の声で遮られた。

「お待たせしてすみません」

少年は軽く息を乱しながら頭を下げる。それを合図にするかのように、斎藤は数名の隊士を引き連れ歩きだした。
沖田も斎藤の後に続くように足を進め、少年もそれに倣う。
あと数歩で八木家の敷地から出ようというところで、不意に前を歩いていた沖田が足を止め、少年を振り返った。

「前にも言ったけど巡察は命懸けだからね。僕の目の届かないところに勝手に行っても助けられないし、変な動きを見せたりしたら君を殺すよ」

沖田は口元に笑みを浮かべたままそう少年に告げた。
逃げようとすれば殺す。そう諭す沖田の瞳に映る、その言葉の揺らぎなさ。
少年にはそれが恐ろしく、背中に伝う嫌な汗を感じながら、首を縦に振るう。
すっかり身を硬くした少年には前を歩く沖田の「雨が降りそうだ」という呟きも、耳に届いていなかった。





「・・・雨や」

これから稽古へ向かう為島原を出た唄月は一人呟いた。
降りだした雨が、空に向けて差し出した唄月の掌の上にポツリと落ちた。
見上げれば上空には雲が広がり、辺りに降り注ぐ太陽の光を覆い隠してしまっている。

唄月は島原大門の梺で、今来たばかりの道を振り返った。
傘を取りに菊乃屋まで戻ろうか。そう思案した唄月だったが、再び見上げた空に浮かぶ雲の隙間から太陽の光が垣間見え、直に雲が流れていくのだろうと思い、そのまま足を進めた。

大門が小さくなっていくたびに強くなる雨脚は、ついにはザアザアと激しい音をたて始めた。辺りを歩く人々が慌てて走ったり軒下に避難する様を唄月も真似て、雨の避けられる場所へ逃れる。
こんなことなら傘を取りに菊乃屋まで戻れば良かったと、唄月は思った。

厚い雲が太陽を隠し、昼だというのに薄暗い町並みを眺めながら、唄月は今朝がた女将に言われた言葉を反芻させていた。



『桜田こったいが落籍することになったんや。せやから唄月、あんたに太夫上がりしてもらおうと思とる』

稽古に向かう仕度を整えていた唄月の部屋を訪れた女将の言葉がこれだった。

『旦はんはわてがええお客はんを選んだるさかい、心配することはあらしまへんえ』

まるで我が事のように瞳を輝かせて語る女将とは対称的に、唄月は自分が太夫上がりするという事実を上手く受け止められないまま、どこか気の抜けた声で「へえ」、とだけ返した。

『なんや気ぃの無い返事やないの。唄月、わてはな、あんたやったら島原の歴史に名を残すような芸妓にならはると、そう思っとるんや』

女将が述べたこの台詞は、唄月に寄せる評価や期待の高さを現す言葉としては、最上級のものであろう。
それが唄月の胸を踊らせる言葉だと、女将も、そして唄月自身も、そう思っていた。

太夫上がりをする。芸妓として最も位の高い太夫になる。
自分が、だ。

誰よりも美しい芸妓でありたい。
誰よりも客を魅了する芸妓でありたい。
唄月が芸妓として生きてきた中で目指していたもの。太夫という称号は、それが認められた証である。
ずっと追い求めて来たものが目の前にやって来た。手を伸ばせば届くほど近くに。
しかしながら唄月には自分が太夫になるという事実に現実味が無く、女将から聞いた際にも他人の話であるかのように感じていた。




大粒の雨が打ち付ける地面を見詰めながら、唄月は小さく息を吐き出す。
ふと視線を上げた先、通りの向こうから人がこちらに走ってくるのが目に留まった。
きっと雨露をしのげる場所を求めているのだろう。唄月と同じく傘を持たなかったのだろうその人物は、手のひらを雨避け変わりにと頭上にかざしていた。

降り続く雨のせいでぼやけて見えた人影も、唄月との距離が縮まるたびにその輪郭を露にする。
近付いてきた人物の顔をその目で捉えた途端、唄月の心臓が小さく跳ねた。


「あれ?唄月ちゃんも雨宿り?」

目指していた場所の先客が唄月であることに気付き、沖田は声を掛けてするりと彼女の隣に納まった。
狭い場所に二人で並んだせいで触れ合う肩。その箇所ばかり意識が集中してしまう。
そんな自分が気恥ずかしくなり、意識を反らそうと思った唄月は、隣の沖田をちらと見上げた。
浅葱色の羽織を纏った沖田の髪から滴る水滴が、その肩に落ちる。着物までもが濡れたその姿は、あまりにも寒々しい。

「沖田はん、御髪もよう濡れてはります。そのままやったら風邪引きますえ」

唄月はそう言うと、袖口から手拭いを取り出して沖田に差し出す。
「ありがとう」と礼を述べ、唄月の手から手拭いを受け取った沖田は、それで髪を拭う素振りを見せたが、その手を止めた。

唄月ちゃんこそ濡れてるよ」

沖田は、まるで小さな子供に向けるような優しい眼差しで唄月を見た。
唄月の頬に張り付いた髪をそっと指で掬い、水滴が伝う頬を手拭いで拭う。
頬に触れる沖田の指と真っ直ぐ自分を見詰める瞳に、顔に熱が集中するのを唄月自身感じていた。

沖田のこの瞳が苦手だと、唄月は思う。
沖田の瞳の中に自分が映る。ただそれだけのことで動揺する自分が嫌だったのだ。
見詰められるだけでこんな風に狼狽えるなど、唄月には未だかつて経験の無いことであった。
隣に佇む沖田を見上げれば、唄月の動揺など素知らぬ顔で、髪を拭っている。


「どうしたのそんなに見詰めて。僕の顔、なんか変?」

視線に気付いた沖田が、不意に声を掛けるものだから、唄月は慌てて「なんでもあらしまへん」と返したのだが、その声の大きさに自分自身で驚いてしまった。


「それにしても・・・沖田はんも雨に降られるやなんて災難どしたなぁ。御勤めやったんですやろ?」

「うん。巡察中だったんだけど急に雨が降ってきちゃって。他の人たちとはぐれちゃったんだよね。君は?」

「わてはこれからお稽古に行くとこどす」

「そう。それにしても止みそうにない雨だよね」

「へえ」

唄月と沖田は揃って空を見上げる。上空に立ち込める雲は切れ間無く何処までも続いて見えた。

こうして沖田と肩を並べ、空を見上げている今この瞬間。唄月の心臓は大きく、しかしゆったりと鼓動していた。
不思議だな、と、唄月は思う。
隣に佇むこの男は、時に自分の胸の内を乱したり、かと思えばこんな風に言葉を交わす事なく過ごすこの瞬間がひどく穏やかで。
この時間がもうしばらく続けばいいと、そう願がうこの気持ちは、なんという感情なのであろうか。
どうしてこんな感情が自分の身の内に宿ったのだろう。沖田という男は腰に刀を差し、人を殺すことを厭わない、人々に怖れられる新選組の人間であるのに。
自分自身も『殺す』と、そう言われた事も、彼が人を手に掛けるその瞬間を見ていた事もある。そんな相手だというのに・・・。

そんなことを考えあぐねていた唄月は、その答えを求めるかの様に沖田を見上げた。
沖田は何かに気付いた様に、遠くを見ていた目を少し見開く。
沖田の視線の先にあるものを確めようと同じ方角を見る唄月
その目に映ったのは、いつの間にか弱まった雨と、雲の間から覗く太陽の光だった。


「・・・雨、もう止みそうどすな」

「そうだね」

雨は今やほんの数滴の雫となり、雨宿りしていた人々も続々と通りに戻っていた。
言葉を交わしてからもその場を動く気配を見せぬ沖田と、まるで足が地面に張り付いたかのように一歩を踏み出せぬ唄月

このままでいられる訳などないと、沖田に別れの挨拶を述べ、立ち去ろうかと思った時だった。通りの向こうからこちらへ向かって駆けてくる人影があることに気付く。
段々と近付く人影は、真っ直ぐここに向かって来る。

「沖田さん・・・、よかった、皆さん沖田隊長が何処かに行かれたって、探されてます」

駆け寄ってきたその人物は沖田の前まで辿り着くと、肩で息をしながらそう口にした。

「僕は子供じゃないんだから迷子になったりしないんだけど」

声を掛けられた沖田の返答に、どうやらこの二人が知人であることを唄月は悟る。
新選組の隊士であろうか?しかし沖田が着ている浅葱色の羽織を纏ってはいない。腰に刀を下げてはいるが、脇差しは1本。それも小太刀だ。
それに、隊士と呼ぶには頼りない背格好は少年というより、まるで少女の様で・・・。
気付けば唄月は、見ず知らずの少年に対して些か不躾な視線を投げていた。そんな彼女の視線に気付いてなお、少年は嫌な顔ひとつせず唄月に会釈をする。頭を下げると、高い位置で結い上げた少年の艶やかな髪が揺れた。


「・・・なんや新選組には随分かあいらしお侍はんがいてはりますな」

唄月は少年を見、それから沖田を見上げてそう口にした。
沖田を見詰める唄月は、その瞳で問い掛ける。

‘この少年は、男はんやのうて女子どすやろ?’

確信がある訳ではない。所謂勘というものであろう。
それでも、僅かに見てとれる小さな仕草や表情の動きは、同じ女子の身で唄月には特に目に留まるものであった。

唄月の言外の問い掛けに気付かなかったのか、はたまた素知らぬふりをしているのか、沖田は、「そろそろ戻らなきゃいけないみたい」と、少し困った様に笑ってこの場を後にした。
小柄な少年は、再び唄月に向け頭を下げると、小走りで先を行く沖田の後を追った。

小さくなっていく二人の背中を見詰めながら、唄月は小さく息を吐き出した。
あの小柄な少年が女子であるからといって、自分自身には何も関わりのないことであると、唄月は思う。
だが、沖田に真実をうやむやにされた様な気がして、不快な気分になる。
並んで歩く二人の背中を見れば、胸の奥底に濃い霧のかかったような、なんとも言えぬ感情が新たに芽生えて。

つい先程まで穏やかであった自分の心は今や酷く乱れ、まるで何かに毒されていく様だと、唄月は思った。


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