元治元年6月5日。京の都は朝から蒸し暑く、日が暮れてからもいっこうに暑さが下がらなかった。
そんな日の京の一角。池田屋に新選組隊士の姿があった。
まるで闇夜にその姿を隠すかのように、息遣いさえ押し殺す緊張感を張り巡らせて、彼らは池田屋前に潜んでいた。


「もう突入しちゃいましょうよ近藤さん。ここで逃がしたらなんの意味もないじゃないですか」

池田屋内にいる長州藩士に届かぬ様にと声を潜め、沖田が言った。

彼ら新選組は、長州藩士が京の町に火を放とうと企てているとの情報を得、今夜池田屋に集まった藩士を一網打尽にするつもりであった。
しかしこの場にいる新選組隊士ではあきらかに数が少なく、応援を寄越すよう会津藩に求めた。だが幾分時が流れても、会津藩士の姿は見えない。
新選組隊士は焦り、痺れを切らしていた。

声を上げた沖田以外の組長たちも同調し、突入すべきと息巻いた。
近藤は数秒思案するかのごとく目を固く閉じる。そして目を開くと同時、隊士たちに池田屋突入の指示を出す。
近藤の指示を受け、隊士たちは其々目に力を宿した。

いつも飄々としている沖田とて例外ではなく、近藤の為に刀を振るう機会が巡って来たことに高揚していた。





唄月がその事件を知ったのは、まだ日が登りはじめて間もない時間であった。

昨夜蒸し暑かったせいで寝苦しく、湿った襦袢が気持ち悪い。深い眠りにつくことが出来ぬまま起床せねばならぬ時間となってしまい、身体を引きずる様にして布団を抜け出した。
芸妓として表に立つのは夜であったが、彼女たちには日々課せられた稽古が多々ある。この日も唄月はいつもと同じように稽古に向かおうと身仕度を整え、寝起きしている部屋を出て階下へ降りた。
下の位の者が姉さん芸妓よりも遅く起きてくることは許されず、唄月が降りた頃には複数の少女たちが忙しなく動き回っていた。


「・・まだ寝たはる姉さんらもいてはるんや。もう少し静かに仕度せなあかんえ」

身仕度をする際に騒がしく音を起て目覚めさせてしまうなど、姉さん芸妓の気分によっては折檻を受けても致し方ないことである。だから少女たちは自らの仕度をする時は出来るだけ音を立てずに行う術を身に付けている。
にも関わらず、今朝方は皆パタパタと足音をたてあっちこっちと歩き、そこここで落ち着きのない話し声が漏れていた。
そんな少女たちの行動を妙だと感じながら咎める物言いをした唄月に、一人の少女が恐る恐る声を掛けた。

「・・・すんまへんどした、唄月天神。せやけどうちら皆不安で・・・」

「・・・不安・・?」

「へえ。・・なんでも壬生狼の人らが長州藩のお侍はんらを池田屋で大勢殺してしもたらしいんどす」

少女はそう言葉にして、自分の細い腕でその肩を抱きながら、「京の町もよう歩かれへんようになってしもた・・・」と、独り言を呟いた。

新選組隊士が起こした池田屋事件は瞬く間に京の人々の知るところとなった。
もともと長州贔屓の風がある京で広がった新選組の名と大捕物の全貌は、人々に恐怖心を植え付けた。
時間が経つにつれて詳しく伝わる池田屋事件の全貌を、誰もが皆怯えたように小声で伝えあった。
唄月も、この池田屋事件の内容を、飽きるほどに耳にした。昼は芸妓同士で語り合い、夜になれば揚がった座敷で男たちが語り合う。
長州などの攘夷派だという男たちから見れば、完全に敵である新選組。男たちは彼らのことを憎々しげに口にしてはいたが、警戒心という一種の恐怖が見え隠れする様を、唄月はその瞳に映していた。




池田屋事件から一月が経ち、京の町はにわかにざわついていた。長州藩士が京都御所を狙い、続々と京に集まっているという。
唄月にすればそのような政治的な動きは、自身とは全く関係ない。だが座敷で相手にする客は佐幕派尊皇派と様々であり、みな政を論ずる。だから芸妓たちは客の話相手になれるよう、程度の政治的知識を仕入れている。
唄月が耳にしたのは、新選組隊士が京の町の警護を強化しているという話であった。

唄月は池田屋事件の後からずっと、新選組という言葉を耳にするたび、脳裏に沖田の姿を過らせていた。
理由は彼女自身にも解らない。解らないからこそ唄月は戸惑った。

沖田は唄月とともに雨宿りをしたあの日以来姿を見せていなかった。彼女を座敷へ揚げることもピタリと止み、唄月が最後に見たのは、男子のなりをした小柄な少女と沖田が並んで歩き去る後ろ姿である。
その姿を思い出す度に、唄月は胸の奥がむかむかした。
怒りなのか、悲しみなのか、焦りなのか。なんと呼べばいいのか解らぬこの感情を吐き出してしまいたくて、けれども出口を見つけられぬままでいた。
積もるばかりの感情のぶつけ処は、始めからひとつしかなかったのかもしれない。そう思い始めた唄月が赴いたのは、新選組の屯所近くに佇む寺であった。

寺の境内が見渡せる入口に立った時、唄月が目にしたのは走り回る子供たちと、そこに混ざった一人の青年の姿で。
声を掛ければよい。それなのに唄月は黙ったまま、子供らと共に境内を走り回る男の姿を目で追っているだけであった。

あの男と始めて出逢ったのもこの寺であったな、と、唄月は思う。
あの時も彼は子供たちと一緒になって遊んでいた。まるで体だけが大きい子供が一人混じっているようで、なんだか不思議な光景だった。
思い出して、唄月はひとりそっと笑いを漏らした。その瞬間、いつの間にか遊ぶ子供たちの輪から離れていた男と視線がぶつかったものだから、気恥ずかしくなり少し俯く。


「ひとりでにやけたりして、何か楽しいことでもあったの?唄月ちゃん」

男は・・沖田は、子供たちに言葉を掛けると、寺の入口で俯く唄月の傍までやって来てきた。
唄月がちらりと見上げた沖田のその顔には、笑みが浮かんでいる。
また、からかわれているのだろう。そう思えば腹立たしく感じてもいいはずなのに、沖田の笑う顔を見てしまえば何故かしら胸の奥が温かくなることに、唄月自身戸惑っていた。


「・・始めて逢うた時も沖田はんが子供らと遊んどったこと思い出して、なんや笑うてしもたんどす」

戸惑いを沖田に悟られぬ様、努めて何時もと変わらぬ自分を演じながら、唄月は言った。
いつも通りの自分であろうと思えば思うほど、何処かに歪みが出ていて、沖田にはそれが見透かされているのではなかろうかと、内心落ち着かぬ唄月

「よろしかったんどすか?子供らと遊んどる途中やったのに」

「うん、せっかく唄月ちゃんがきてくれたからね」

僕に会いに来てくれたんでしょ?そう口にする沖田は、唄月とは対称的に何時と変わりない。
沖田に会いに来たことは真実であるのに、素直にそう口にするのは些か勇気がいった。

「・・池田屋事件の後から沖田はんのお顔見ぃひんかったから、どないしてはるんやろかと思うただけどす」

どこか照れ臭く、唄月は小さな声で言葉を紡いだ。

「それって僕に会えなくて寂しかったってこと?」

「な、なに言うてはりますの。わてはただ、急に座敷に呼ばれへんようになったから気になって・・・」

「そうなの?僕は唄月ちゃんに会えなくて寂しかったんだけどな」

微笑みながらそう話す沖田のに気恥ずかしくなりながらも唄月は、『会えなくて』という言葉が気掛かりになる。

「会えなくてやなんて・・沖田はん、池田屋でお怪我でも負うたんどすか?」

池田屋事件で京にその名を轟かすに至った新選組。以来多忙で、それ故沖田が自分の処へ訪れることがなかったのだろうと、唄月は考えていた。
だが、池田屋事件では多くの死傷者が出ており、新選組隊士である沖田が怪我を追っていても何ら不思議はない。
唄月は案ずる気持ちから、眉を寄せて沖田に問い掛ける。彼女の言葉を受け、沖田はそれまで浮かべていた笑顔を消した。

「・・・怪我なんてたいしたことなかったんだけどね」

沖田の口振りは軽いものだった。にも関わらずその表情は苦しげに歪んでいる。
池田屋で沖田の身に何があったのか。それは唄月には解らない。だが沖田の表情には悔しげな色が浮かんでいて、それ以上問うことを戸惑わせる。


「・・・次に勝つのは絶対に僕だ」

独り言のように呟かれた沖田の言葉には、より一層の悔しさが浮かんでいた。
沖田のこんな表情は、初めて見る。

「沖田はんやったら大丈夫や。わてはそう思うとります」

悔しげな沖田に対して語った言葉は、決して気休めなどではない。
いつも飄々とし、自分の前で余裕を見せる男が、誰かに敗れて立ち上がれなくなる様など、唄月には想像できなかった。

寺の境内には子供たちの笑い声が響く。いつの間にか唄月と沖田の間には沈黙が訪れ、ふたりは暫く言葉を交わすことを止め、ただ聞こえてくる笑い声に耳を傾けていた。

沈黙の中、唄月は沖田の顔を見上げた。彼の横顔を見れば高鳴るばかりの心臓が痛い。

唄月がこの寺を訪れたのは、沖田に会うためだ。沖田に会わない日々に積もっていった不可解な感情を、吐き出してしまいたかった。
けれど実際に沖田の顔を見れば、また別の感情が唄月を支配してうまく言葉を紡げない。
その感情は苛立ちとは正反対で、胸の奥が温かくなるから、唄月は混乱してしまうのだった。


「・・・沖田はん」

「なに?」

「・・・前のことになりますけど、雨に降られた日のこと覚えてはりますか?」

「覚えてるよ。一緒に雨宿りした日だよね?」

「へえ、そうどす。それで、あの日・・・」

唄月はうまく言葉を紡ぐことが出来ず、語尾を弱めた。一体、どう口にすればよいであろうか。

あの少年は男子を装った女子。なぜ女子がそのような事をしているのか。
なぜあの日あの少女は沖田を迎えにきたのか。
ふたりはなぜ並んで同じ方向へ歩いていったのか。
そして最大の疑問は、そんな少女と沖田の並ぶ姿を思い出しては苦しくなる自分の胸だ。一体何故、自分の胸がこんなにも苦しくなるのか。
沖田に会いさえすれば解消されると思っていたばかりのこの感情は、益々複雑になっていく。


「・・・あの日会うた可愛らしお侍はん・・・あれは、男はんの格好したはる女子どすやろ?」

唄月がそう言葉にすると、沖田は驚く風もなく、

「よくわかったね。あの子が女の子だってすぐに気付かなかった人もけっこういたのに」

と、笑いながら答えた。
そんな答えが聞きたかったわけではないのに。唄月はそう思いながらも表情を崩さぬよう注意しつつ、さらに言葉を続けた。

「あの女子はんは、沖田はんと・・」

どういう関係なのか。そう言葉にすることが出来ない。
少女と沖田の関係を知ったところで、一体どうしようというのだろう。二人の関係を知りたいと思う心があるのに、その裏側では、自分にはなんの関わりもないことではないかと、そう思う心もある。
両極端な2つの心を抱えたまま、唄月は黙って俯いた。


「もしかして、あの子と僕のこと気になってるの?」

唄月の顔を覗き込むようにして、沖田は問う。
その表情にからかうような笑いが浮かんでいるから、唄月は思わず、「気ぃになんかしとりまへん」と、語気を強めて口にする。
唄月のそんな反応を見た沖田はといえば、一瞬目を見開いて、そして少し眉尻を下げて微笑した。

沖田の形容し難い表情に戸惑い、どう言葉を返せばよいか解らぬ唄月
身動きすらもうまく出来なくなった唄月に生まれた僅かな隙、沖田は彼女の手を取り、自分の胸の上に添えさせた。
予想外の沖田の行動に、唄月は慌てて捕らえられた自らの手を引こうと力を込める。が、唄月の手の上には沖田それが重ねられ、びくともしない。


「こうして・・・」

唄月の抵抗には気付かぬ振りで、沖田が言葉を紡ぐ。

「こうして触れ合うだけで僕の心が唄月ちゃんに伝わればいいのにね」

自分を捕らえる沖田の手に僅かに力が籠るのを、唄月は感じた。
見上げれば、沖田は微笑みながらも困ったように眉尻を下げている。この男にしては珍しく浮かべた困惑の表情が、唄月を一層戸惑わせた。

どれくらいの時間そうしていたかは解らない。
端から見れば一瞬であるかもしれぬこの触れ合いを、唄月は永遠の様に感じていた。
それはまるで夢の様で、それでも手のひらに伝わってくる沖田の温もりが、唄月に現実であると知らしめている。


触れ合うだけで心が伝わればいいのにね。
沖田の言葉が唄月の頭の中で何度も繰り返される。


「・・わても・・・わても、そう思います」

唄月は、呟く様に口にした。

この胸の中に渦巻く感情は、唄月自身にも理解出来ない。それでもこの感情が生まれる所以は今目の前にいる人物であり、その沖田にこの感情を伝えることが出来ないことが酷くもどかしい。

触れ合うだけで心が伝わればいい。心から強く思う唄月が見上げた先、沖田が微笑みを浮かべていた。


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