元治元年七月。本格的な夏が訪れ、日差しが強く、蒸したような熱さの日が続く。今日も、そんな夏の空気が支配していた。

この日新選組隊士は京都守護職からの命を受け、御所周辺の警護に向かった為出払っており、数名しか屯所にいない。
普段はここそこに人の気配があり、どちらかといえば賑やかな屯所が珍しく静まり返っている。
そんな屯所の中庭で、沖田は一人空を見上げていた。

青い空の向こう側に唄月の顔が浮かんで、沖田は一人で笑いを漏らした。

『沖田はんやったら大丈夫や。わてはそう思とります』
池田屋事件のおり怪我を負い相手に逃げられ、その悔しさを滲ませた沖田に、唄月は強い瞳でそう言った。

『気ぃになんかしとりまへん』
新選組と行動を共にしていた少女と沖田の姿を見、本当は問い質したいくせに強がる唄月の表情。

『わても・・・わてもそう思います』
触れ合うだけで心が伝わればいいのにと、彼女の手を取り胸に重ねた。顔を赤く染め、戸惑いながら蚊の啼くような声で呟いた唄月

強がる癖に妙に顔に出やすくて。だけど、時折瞳に浮かぶ強い色は偽りのないものだ。
どこか滑稽だと思える唄月の、表情から視線を逸らせない。
こんな風に思う自分の方が滑稽だろうか。そう考えながら、沖田は自嘲気味な笑いを漏らした。





障子を開けた部屋は外からの強い日差しに照らされて、蒸し暑さが増すようであった。唄月の首筋に、一筋汗が伝う。が、彼女自身はそれに気付かない。


「どないしはったん、唄月

名前を呼んだのは唄月の華道の師であった。
師は、生けた花を前にぼんやりと呆けた唄月を咎めるような厳しい目をしている。

「すんまへん先生、なんや暑いせいかぼんやりしてしもて・・」

唄月が頭を下げてそう述べると、師は彼女が生けた花瓶へと目をやり、小さく吐息を吐き出した。

「暑いからだけとちゃうんやないの?」

「え・・?」

唄月が生けはったその花・・・なんや迷いながら生けたみたいになってはる」

師の言葉を聞き、唄月は改めて自分が花を生けた花瓶に目をやる。そこにある花の一本一本は美しいのに、花瓶の中では不揃いで、色彩が濁って見えた。
これが師の口にした‘迷い’であろうか。唄月にはそれが解らない。
だが自分の生けたこの花が酷く不恰好であることだけは、十二分に理解できた。




『こうして触れ合うだけで僕の心が唄月ちゃんに伝わればいいのにね』
唄月の手をその胸の上に置き、沖田がそう語ったのは暫く前の出来事であった。
それでも唄月は、その時の沖田の表情や手のひらに伝わる彼の温もりを、ありありと蘇らせることができた。
唄月の意思とはなんら関係なく、彼女の脳はふとした瞬間に沖田の姿形を思い浮かべてしまうから始末が悪い。
朝目覚めた時。稽古をしている時。時には揚がった座敷で脳裏に浮かぶ沖田の姿は、唄月の心を掻き乱す。
何より唄月が戸惑ったのは、沖田の姿を思い浮かべることを望む自分がいて、その姿を浮かべた後は必ず自分の記憶の中の沖田ではなく、実際の沖田の顔を見、言葉を交わしたいと、そう思う自身がいることであった。
芸妓として多くの男と接し、恋慕されることも少なくないこの少女が、自らの心をこんなにも乱されることは、初めてだった。



「お華の先生に怒られたそやね、唄月

稽古から戻り、一息吐く間もなく座敷に揚がる支度に取り掛かろうとした唄月に、声を掛けたのは桜田太夫であった。
桜田は間もなく迎える彼女最後の太夫道中を控え、今宵は化粧も施していない。が、それでも美しい桜田が厳しい表情で自分の前に現れれば、唄月はいやがおうでも背筋をしゃんと伸ばす癖が身に付いている。

「あんたが稽古の最中にぼんやりしとるなんて珍しいて、先生も心配しとった」

「へぇ・・・」

どこか気の抜けた返事をする唄月に、桜田は小さく息を吐き出す。

「・・・唄月、あんたはわてが落籍した後、太夫になってこの菊乃屋を背負うてく身や。そのこと、ちゃんとわかっとるん?」

「・・・・・・」

桜田の声音はどこか厳しく、唄月は言葉を返すことが出来ぬままでいた。

「・・・唄月、わてはな、心配しとるんや」

沈黙を続ける唄月を尻目に、桜田は言葉を続ける。

「あんたはいつか太夫になる女子やと、わてもおかあさんも昔から期待しとった」

「・・・・」

「太夫になる器量もあんたにはある。それに何より、唄月自身に太夫になる覚悟があると思とった」

芸妓としてしか生きる道の無かった自分の誇りは、磨いてきた芸であり、歳を重ねるごとに誰よりも優れた芸妓になりたいと、唄月はそう強く思うようになった。
勿論、その覚悟とてとうに出来ているつもりであった唄月からすれば、桜田のこの言い様は彼女の誇りを傷付けるに等しい。


「・・・桜田こったいの言わはったことがどういう意味なんかはよう理解しとります」

芸妓としての誇りを傷付けられては大人しく黙っていることの出来ぬ性分である唄月。それは目の前の姉さん芸妓に対しても同様であった。

「せやけどわての目標は誰より芸達者な芸妓になることどす。それだけを励みにここまで生きてきたわては、太夫になる覚悟かてとうの昔っから出来とりました」

唄月は感情を剥き出しにはしない。落ち着きながら言葉を述べる。しかし、その瞳に映る色は熱っぽい。
一方桜田はといえば、彼女にとって目下の芸妓である唄月からの、場合によっては折檻されてもおかしくはない言葉を受けながらも、冷静であった。


「・・・唄月・・・あんたはそう言いはるけれど、最近のあんたはどうや?芸妓として座敷に揚がっときながら呆けとることも多い。そないな女子が『誰よりも芸達者な太夫』やなんて、笑い話にもならしまへん」

桜田はそれだけいい放つと、席を立って部屋を辞した。
たった一人残された唄月には、桜田が最後に見せた厳しい目がその脳裏に焼き付けられた。
先程まで抱いていた、『誇りを傷付けられた』という憤りは、水を掛けられた篝火の如く消失してしまっている。
あれほどの厳しい言葉に対しても火を燻らせているほど、唄月は頑なではない。桜田の言葉は尤もであると、唄月自身が感じたのである。

自分が身に付けてきた芸とは、生きる為のものであった。唄月にとって‘生’とは、それ以上に賭けるものがないであろう。
生きることを賭け磨いた芸を、座敷で待つ客のために披露する。その座敷上で呆けているなど、桜田の言う通り、笑い話にもならないではないかと、唄月は思う。
足りないのである。生を賭け磨いた芸を披露する、そこに費やすべき気持ち。
芸と同様、‘生きる’ことを賭けて座敷に揚がり、客と向かい合わねばならぬということ。
情熱とも貪欲さともいうべき気構えが、ここ最近の唄月から見えぬことを、桜田は伝えたかったのだ。

桜田の意図するものを全て理解した唄月は、格子窓から見える夕焼けに目を向けた。
自分の中に生まれた戸惑いは、自身で制御することも出来ずに、彼女を侵食していくかのようで。
自分の内側だけに留まらず、外側にも歪みを発生させるそれに、苛立ちすら覚えている。
だが、それでもその戸惑いの原因とも呼べる沖田自身を憎く思うことは出来なくて、夕焼けの向こうに彼の姿を思い浮かべては、自己嫌悪する唄月であった。


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