『なんでわてだけがこんな風にならなあかんねん!わてかて町の子らみたいにおんなじ年頃の友達と遊んだり、家族揃っておまんま食うたりしたいんや!』

それはまだ唄月が禿であった頃のこと。この頃菊乃屋には唄月と同じ年頃の少女がいた。
唄月はその少女を友人だと思っていた。

禿。座敷に揚がることを許されぬ見習いであり、姉さん芸妓の世話をしながら座敷での立ち振舞いや作法を学び、稽古に励むこの時期は、幼い少女らにとって非常に厳しいものであっただろう。厳しい日々、唄月と少女は友情を育んだ。
辛い時には互いに励まし合い、立派な芸妓になるまで共に差さえあっていける。そう思っていた。しかし、厳しい日々が永遠に続くかの様に思われる中で、少女は耐えられなくなり、叫んだのだった。
その言葉を聞き、鬼のような形相で少女の頬を叩いた女将の顔と室内に響いた激しい音は、その場に同席していただけに過ぎぬ唄月の脳に深く刻み込まれた。

『芸妓になるんが嫌やったらどこにでも行かはったらよろしおす。せやけど身寄りのないあんたのような子が生きてかれるほど、世の中甘くはあらしまへんえ』

女将は言った。
少女は叩かれた頬を抑えながら涙を流し、心底憎そうな顔で女将を睨み上げていた。幼かった唄月が‘憎しみ’という感情を初めて垣間見た瞬間であった。
そしてその数日後、少女は菊乃屋から姿を消した。菊乃屋の芸妓たちの間では、夜中のうちに置屋を抜け出したとも、呆れた女将が少女を再び身売りしたとも噂された。どちらもが、島原の置屋においては日常茶飯であったのだ。
この噂も菊乃屋ではあっという間に広がり、そして花が散るごとくに消えていった。厳しい日々に耐えられず逃げ出す者。島原芸妓として不向きな者。華やかな芸妓たちのいるその裏で、姿を消してしまう少女たちは絶えず存在し、島原で生きる芸妓たちにとって少女の一人が姿を消したことなど、意にも返さなかったのであろう。

唄月は、他の芸妓たちとは違った。友情を育んだ少女が自分を残して去って行ったことが悲しかったわけではない。友人を再び身売りした女将に腹を立てていたわけでも、消えた少女の消息を気にかける様子のない姉さん芸妓たちに呆れたわけでもなかった。
唄月は、芸妓として生きることに不満を持ち、普通の町娘の様に生きたいと望んだ少女の気持ちが理解出来ずにいたのだ。

少女たちが島原にやって来るに至ったその経緯は其々であっただろう。親を亡くした者や親に捨てられた者…。彼女たち全てに共通していたのは、戻る場所など無いということ。普通の町娘の様に生きたいなどと望み逃げ出したとしても、待っている結末など、のたれ死の一択。
一度島原の女として足を踏み入れたのならば、芸妓として生きていく以外に道はない。唄月は島原に身売りされて間もなく、そう思う様になっていた。
だから『町娘の様に生きたい』と望み、姿を消した少女の気持ちが理解出来なかった。芸妓として生きていく以外の道など、自分たちにとっては淡く儚い夢幻であることを、唄月は知っていたから。

幼い禿の時から、他の少女たちの様に『普通の暮らし』を望まなかった自分は、子供らしさの欠片もなかったであろう。しかしながら、『芸妓としてしか生きる道は無い』と、早くから定めていた自分は、芸妓に成るべくして生まれ落ちたのかもしれないと、唄月は思っていた。





「今日はあんまり喋らないんだね」

「・・沖田はんが喋られへんから、わても喋らへんのどす」

島原に店を構える揚屋の一室。夜が深まり蝋燭の灯りによって照らされた室内に、二人の男女がいた。
男は口許にうっすら笑みを浮かべながら、彼の隣に腰を下ろす芸妓が酌した酒を味わう。一方で女の方は男の視線から逃れる様にその目を伏せていた。

久方ぶりに沖田に呼ばれ揚がった座敷で、唄月は彼に言葉を掛ける訳でもなく、黙ったまま隣に座っている。
凡そ芸妓として相応しくない唄月の態度にも、沖田は文句を漏らす事なく黙って酌をされていた。

室内に響くのは隣の座敷から聞こえる男女の話し声や、どこかの部屋で弾いているのであろう琴の音で、この部屋から発せられる音といえば、二人のひそかな息遣いと、時折ぶつかる陶器の音のみであった。
そんな静かな室内で、先に声を上げたのは沖田であった。

唄月ちゃん」

「へぇ」

「笑ってくれない?」

「・・・・・?」

唄月ちゃんの笑った顔が見たい気分なんだけど」

言いながら唄月の顔を覗き込む沖田。その口許には笑みが浮かび、瞳は真っ直ぐ唄月を見詰める。
やはりこの人のこの目が苦手だと、唄月は思う。『笑顔が見たい』と、そう言葉にされればそれを叶えたくなってしまう様な、そんな瞳。
沖田の願い通り笑みを浮かべそうになる自分を諫め、唄月はその視線を沖田から外す。
唄月の仕草に、沖田はただ黙って唄月の様子を窺っていた。


唄月は今宵、沖田に対し己の決心を告げる腹積もりでこの座敷へ揚がっていた。

『自分はじき太夫になる身である。だからもう二度と逢うことはない』と告げるつもりであった。

太夫ともなれば、座敷に呼ぶだけで多額の金が必要になる。置屋のほうでも、太夫を揚げる座敷となれば客選ぶ様になるであろう。
沖田という男にそんな金があるようには思えなかったし、唄月が身を預けている置屋・菊乃屋の女将は、新選組の隊士を少なからず嫌っている。
何より、唄月は嫌だったのだ。

誰よりも美しく、芸の達者な芸妓になる。その為に日々稽古に励み、糸を張りつめたような心持ちで座敷に揚がってきた。けれど最近はどうであっただろう。
稽古中には師に注意を受け、呼ばれた座敷で呆けてしまう。そんな時唄月は何時だって、沖田を思い浮かべていたのだ。

唄月は幼い頃から知っていた。芸妓としてしか生きる道のないことを。
必死に芸を磨いてきた自分の胸中にあるのは何時だって、芸事のことだけだった。
しかし、唄月の胸の内には、いつのまにやら沖田が巣食うようになってしまったのだ。
けれども沖田を恨むことなど出来なくて、ただただ自分の身の内を責めるのみ。そんな自分が、嫌だった。

どうすれば、自分の胸に巣食う沖田という男を追い出すことが出来るのか。
唄月が導きだした答えは、‘もう二度と沖田に逢わぬ’こと。
それを沖田に伝えるのだと決意して揚がった今夜の座敷。
しかしながら、実際に沖田の顔を目の当たりにしてみれば、伝えると決めていた言葉は喉から上へはあがってこない。

自らで決めたことさえも寸でのところで迷ってしまう自分を、唄月は呆れつつ情けなく思うのだ。



唄月ちゃん・・初めて僕らが逢った日のこと覚えてる?」

唄月の内心など知るよしもない沖田は、唄月の横顔に問い掛ける。
問われた唄月は戸惑いながらもゆっくりと首肯した。

「覚えとります・・・。寺の境内で沖田はんが子供らと遊んどって、それからわてに声掛けはりましたやろ」

『君も一緒に遊ぶ?』と、沖田は唄月にそう問うた。
初めて沖田に逢ったあの瞬間を、唄月は昨日のことの様に蘇らせることが出来る。


「あの時の君は本当に羨ましそうな顔してた。一緒に遊びたいのに、仲間外れにされちゃった子供みたいだったんだよ」

だから『一緒に遊ぶ?』って話しかけてあげたのに、君は恥ずかしそうにして逃げちゃうんだもんね。
沖田はその時の唄月の姿を思い出し、笑いながら語る。

「何時だったか、君に『殺す』って、僕がそう言ったこともあったよね」

『殺す』などと物騒な言葉を、沖田は口に微笑を称えたまま言葉にする。まるで、殺すことなどなんでもないという風な、そんな物言いで。
その言葉を聞いている側である唄月は、沖田にそう言われた時の感情が蘇って、背筋がひやりとする。
芹沢暗殺を他人に漏らしていたら、唄月の馴染み客村田が殺された夜、動き回っていたら。どこかで僅かな違いがあれば、唄月は沖田によって命を奪われていたかもしれず、今こうして沖田と向かい合うことも、言葉を交わすことも出来なかったであろう・・・。


「自分が斬られると悟った人はたいてい恐怖するんだ。その恐怖が一瞬その顔に浮かぶのを、僕は何度も見てきた」

「・・・・・」

「でも、君はそんな顔を見せなかった。怯えて泣き出すかと思ったのに、挑むみたいな強い瞳で僕を見返してきたから」

君は強い人なんだって、僕は思ったんだ。沖田は、そう語りながら唄月を見詰めた。
唄月は、沖田を見詰める。
自分を見詰めるその瞳が酷く優しいことに気付いて、唄月はただ胸が苦しくなるばかりであった。


「・・・・・何故、そないな話をしはりますの?」

絞り出したような頼りなさげな声で、唄月は言葉を紡ぐ。
沖田はそんな唄月を、変わらず優しげな瞳で見詰めていた。

「どうしてだと思う?」

「・・・わからへんから聞いとるんどす」

「君がどう思ってるのか知りたいんだよ」

相変わらず自分を茶化すような沖田の口振りを、むず痒く思う唄月
それでも沖田の微笑む顔を見てしまえば、何も反論出来ない。


「僕はね、僕が唄月ちゃんの事どう思ってるか、君に知ってほしかったんだ」

沖田の言葉は唄月にとって、大事なことを包み隠した様な曖昧さであった。
それでも、沖田の真摯な眼差しは、唄月の胸を締め付けて離さない。


言えない。『もう二度と沖田に逢わぬ』などと、言葉にすることが出来ない。
沖田を絶ちきることは、自分には出来ない。
沖田と向かい合うことを、言葉を交わすことを、その瞳に見詰められることを、自ら望んでしまっている。
唄月は、沖田の瞳の中に映る自分の姿を見て、それに気付いてしまった。


「・・・・唄月ちゃん」

「・・・へえ・・・」

「どうして泣いてるの?」

沖田の言葉で初めて、自分の頬を伝う生温かいものに気付く唄月
慌てて拭おうと顔に寄せた着物の袖よりも早く、沖田の指がそっとそれを拭った。


「・・・沖田はん」

「うん?」

「わては・・・沖田はんが思とるような強い女子やあらしまへん・・・」

太夫になるため、誰よりも優れた芸妓になるため。その為に自分の心を乱す沖田とは、もう逢わぬ。そう決めたはずだった。
それでも、実際に沖田の瞳に見詰められれば、大きく崩れる決心。
意志薄弱な自分の強さとは一体何であろうかと、唄月は思う。

沖田はそんな唄月を、見詰めるのであった。優しげな微笑みを浮かべたままで。


「僕は弱い生き物は嫌いだけど――」

「・・・・・」

「君の弱い部分なら、嫌いにはならないかもって思ってるよ」

沖田はそう言って、唄月の手を握った。
沖田の大きい手のひらの熱を感じながら唄月は、今この瞬間が永遠に続けばいいと、そう願っていた。


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