唄月、大事な話がおます。わての部屋にきいな」

それは、ある日の昼下がり。夏の厳しい日射しも和らぎ、涼やかな秋が忍び寄ってきた日のことだった。
稽古を終え、菊乃屋の裏口から自らの支度部屋へ戻ろうとした唄月の背に、女将が声を掛けた。
慌てて視線を上げた唄月が目で捉えることができたのは、部屋へ引き返す女将の後ろ姿だけであった。

大事な話とはなんであろう。多少の不安を感じながら、唄月は女将の部屋の襖に手を掛けた。


唄月、ええ知らせどす。あんたの旦はんが決まりましたんえ」

唄月が腰を下ろすなり、女将はそう口にした。

「・・・旦はんて・・・」

「あんたの旦はんや。あんたの為やったら金に糸目はつけへん言うてくれはっとる。勿論、太夫になる支度金かて、そのお客はんが出してくれはったんや」

自分の旦那になるというその男は、以前から唄月の元に足繁く通っていた男であった。
代々続く公卿の名家の次男であるその客は、唄月にかなり入れ揚げていた。


「これであんたは名実ともに太夫や。島原太夫の名に恥じんよう、立派な芸妓になって、旦はんによう尽くしなはれ」

唄月がこれまで見たことが無い程に期待の籠った瞳で、女将は言った。




唄月天神、太夫上がり、おめでとうございます」

女将の部屋から引き下がった唄月は、二階にある自分の部屋の窓辺に腰を下ろしていた。
唄月の部屋の前の廊下に正座した禿の少女は、開口一番、そう伸べた。

「・・・・・・」

「・・天神・・・?」

「・・・あぁ、あんたやったんか」

鈍い反応の唄月に戸惑いながら、禿は立ち上がり、おずおずと室内へ足を踏み入れる。
禿は持ってきた色艶やかな着物を掛けながら、ちらと唄月を盗み見た。
窓際から、呆けた様にぼんやりと外を眺める唄月。禿の少女は未だかつて唄月のそんな姿を目にしたことがなく、訝しげな顔で唄月を見ていた。

「・・・・その着物、どないしはったん?」

「えっ・・・あっ、これ」

禿の視線に気付いたのか、唄月は少女が手にしている美しい柄の着物に目を遣りながら問い掛けた。不意に声を掛けられた禿の少女は多少狼狽しながらも、唄月の問いに答える。

唄月天神への贈り物どす。旦はんからの」

禿の少女は眩しいくらいの笑顔でそう言った。唄月の太夫上がりを、旦那となる男からの贈り物を、我がことの如く喜んでいるようだ。
しかし笑顔を向けられた当の唄月はと言えば、喜色を浮かべるでもなく、曖昧な微笑で返すだけであった。

やがて禿の少女は用を済ますと、恭しく頭を下げて部屋から下がる。一人残された部屋で唄月は、禿が置いていった、旦那からの贈り物だと言う着物を見遣った。
艶やかで雅な柄のその着物は、まさに太夫に相応しい、素晴らしい品である。その品に籠められたのは、旦那となる男の、唄月への強い想いであっただろう。

芸妓の最高位、太夫となった初めての座敷で、唄月はこの着物に袖を通すことになる。そんな日が刻々と近付き、唄月の胸は踊る・・・筈であった。

嬉しくない。
唄月は、華麗な着物に施された金色の刺繍糸が太陽の光を受けてキラキラ輝く様を見ながら、思った。

太夫上がりをする。それは誰よりも優れた芸妓になると、そう定めた唄月にとって、幼い頃から夢見た自分の姿であろう。
しかし、唄月の気持ちは浮かない。
太夫になることとなり、旦那となる男も決まった。そう考えると、唄月の頭に浮かぶのは、旦那となる男と自分がひとつの床で横になる姿。
自分の頭で起こった想像に、唄月はぞわりと背筋が寒くなった。

臆しているのだろうか?
太夫となれば旦那となる男と床を共にせねばならぬという影の慣わし。それが水揚げ。
そんな影の慣わしさえ、唄月は受け入れていた。芸妓として生きていく以上は避けられぬ道であると、そう覚悟していた。
それなのに、いざ旦那が決まり、太夫上がりが目前に迫った今になって臆すなど、今までの覚悟とは一体なんだったのであろうか。

いつだったか、自分より目下の芸妓に問われたことがあった。『好きでもない男と床を共にすることが、怖くはないのか』と。
唄月はその問いに答えた。『怖くなどない』と。
だが、今は怖いのだ。好きと、そんな感情を抱かぬ相手に体まで捧げることが、怖くてしかたがない。

唄月は、膝の上に載せていた自分の手を、ぎゅっと握った。
自分でもはっとするほどにひんやりしていることに気付く。そしてそれと同時に甦る、沖田の手の大きさと、その温度。
手だけではない。
沖田が微笑むその顔も、唄月を見るその瞳も。唄月を呼ぶその声が、次々に溢れて止まらない。

『君も一緒に遊ぶ?』

『君も殺すよ』

『また逢いに来てもいい?』

『こうして触れるだけで、僕の心が伝わればいいのに』


唄月ちゃん』
微笑みながら自分の名を呼ぶ沖田の姿を甦らせ、唄月は、ただただひたすらに思った。
沖田が、恋しい。

旦那となる男が、沖田だったら?芸妓としてではなく、町娘として沖田と出会っていたら?
考えても致し方のないことだ。そう理解しているのに、自分の思考から抜け出せない。
一体どうしたら、この胸の苦しみから解放されるのであろう。
唄月は、苦しいくらいに締め付けられる胸を庇う様に、屈み込んで、小さな嗚咽を漏らした。


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