唄月、ええかしら」

「へえ、おかあさん」

京の町に日暮れがやってきた頃、部屋で身支度を整える唄月に声を掛けたのは、彼女が籍を置く菊乃屋の女将だった。

唄月は女将をおかあさんと呼ぶが、血の繋がりがある訳ではない。唄月の血の繋がった本当の親は、とうに亡くなっている。
しかし唄月に目を掛けここまで立派に育て上げた女将を、唄月は本当の母同然に思っている。

唄月にとって母同然の女将は、唄月の真正面に腰を下ろすと、何を言うでもなくただ彼女の顔を見つめていた。


「おかあさん?」

訪ねてきておいて何も言わぬ女将に、唄月のほうから声を掛けた。

「・・・ほんま立派にならはったね、唄月

女将は唄月の顔を見ながらしみじみと言った。
そんな女将の様子が可笑しくて、唄月は笑う。

「おかあさんどないしはったん?」

クスクス笑う唄月の顔を眺めながら女将は思う。
孤児となり、身売りされた唄月を引き取ってから早幾年。幼い頃から器量の良かった唄月を禿の時分から厳しく育てた。
座敷に上がる為に必要な踊りや楽器は勿論、言葉使いから作法まで、同じ年頃の子供らが遊ぶ間も強いられた稽古の数々は、辛いものがあったと思う。
事実、厳しい稽古について行けず、島原に相応しくないと再び身売りされる禿も少なくない。

島原で生き抜くことは厳しい。
だが唄月は不屈の精神と絶えぬ努力で生き抜き、今や最高位である太夫に上がろうかというほどの立派な天神とまでなった。
それが、女将の誇りであった。


「なんでもあらしまへん。そろそろお客さんも来る時間やし、はよ支度しい」

女将は唄月にそう言うと、立ち上がってその場を辞した。


女将が唄月を誇りに思うその気持ちが、唄月にとっての誇りであった。
客の待つ部屋へと足を運びながら、唄月は先程の女将の言葉を思い出していた。

女将は自身を‘立派になった’と、そう称してくれた。
只の孤児だった自分が、女将に‘立派になった’と、そう称されるまでになった事が、島原で生き抜いてきた事が、唄月の誇りであった。


部屋の前まで来ると、唄月は膝を床に着けた。
しゃんと背筋を伸ばしたその姿だけで、彼女は美しい。


「みなはん、ようおこしやす。唄月どす。よろしゅうおたのもうしやす」

今夜の客は四人。男たちは既に出された酒に口をつけ、待ちに待った芸妓の登場に湧く。
男たちの視線の中、下げていた頭をゆっくり上げる唄月。客の顔をひとりひとり見回して、微笑を向ける。


「あ」

客の中のひとりに目を向けた時、唄月は思わず声を上げていた。
唄月が先日寺の前を通った時、子供たちと遊んでいた男。
唄月に『君も一緒に遊ぶ?』と、そう声を掛けた男だった。

まさかこんな所で会おうとは露程にも思っていなかった唄月は、面にこそ出ないが多少狼狽えていた。
そんな唄月とは裏腹に、男は彼女と視線を合わせても何を言うでもなく、その翡翠色の瞳で笑っている。


「どうした?ねぇちゃん。総司の知り合いか?」

唄月にそう声を掛けたのは、翡翠色の瞳を持つ男の隣に座る短髪の男。
短髪の男は、唄月を見た後、隣に座る男を見た。その様子から、翡翠色の瞳の男は名を総司というらしい。


「僕と彼女が知り合いだったらどうするんです?新八さん」

「羨ましいこと山の如しだ!!」

新八と呼ばれた短髪の男は、今にも隣に座る男に掴みかからんとする勢いだった。

総司・・・沖田総司に、永倉新八。
唄月は2人の男のやり取りを見つめながら、顔と名前を忘れぬ様にと、心の中で呟いた。


「落ち着け新八。美人の前で騒ぎ起てるな」

騒ぐ永倉にそう声を掛けたのは彼の向かいに座る男だった。


「テメー裏切んのか左之」

「裏切った覚えはねぇよ」

左之と呼ばれた男は、チラリと唄月の顔を見て微笑み掛けた。

左之・・・左之助、彼が原田左之助。なら原田の隣に座る、若い男は藤堂平助であろう。
自分が呼ばれた座敷に居る客の顔と名前を一致させ、唄月は立ち上がる。


「みなはん仲がよろしおすなぁ。ええお仲間をお持ちどすなぁ、永倉はん」

言って、唄月は永倉の横に腰を下ろし、徳利を手に微笑んだ。
永倉に酌をする唄月に、「新八っつぁんのこと知ってんの?」と声を掛ける藤堂。

「勿論どす藤堂はん。それに原田はんに沖田はん、みなはん壬生浪士組のお方でっしゃろ?」

唄月のその言葉に、「俺らも有名になったもんだ」と喜ぶ藤堂たち。
一方唄月の脳裏にはこの座敷に上がる前に女将に掛けられた言葉が蘇っていた。


『今夜のお客はん、壬生浪士組や。唄月、気を付けえ』

壬生浪士組。後の新選組である。彼らは‘壬生狼’と言われ人々に恐れられた。
容赦なく攘夷浪士を斬る彼らを、京の人々は恐れていたのだ。
しかし、ここ島原はどんな客でも受け入れる。
そんな島原に生きる唄月にとって、我が身を襲う不安や恐怖などはいつだって二の次なのだ。

微笑を称えたまま、永倉に続き、原田、藤堂と酌をして回る。
沖田の隣に膝を着け、彼の顔を覗く唄月だったが、沖田は彼女と目を合わせない。
そんな沖田の横顔を見ながら、‘やっぱりこの男だ’、と唄月は思う。

寺の境内で唄月に声を掛けた男。
何故『一緒に遊ぶ?』などと声を掛けたのか不思議に思う唄月だったが、男の方が何も言わない限り、黙っているしかない。
沖田という男が唄月のことなど覚えていないのか、もしくは素顔だった自分をわからないのかもしれない。
何より、あの日寺で子供たちと遊んでいたことが、他の男たちには知られたくない事だとしたなら、それを明るみに出してしまうなど言語道断だった。

唄月の内心など何処吹く風で、沖田は他の男たちと楽しそうに話している。
そんな沖田の隣に座る唄月に、「ねぇちゃん、ここらで踊りでも見せてくれねぇか」と、永倉から声が飛んできた。
永倉の声に笑顔で答え、唄月は立ち上がった。


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