唄月、あんたに逢いたいてお客はんが来とる。ここはわてに任せてそっち行きなさい」

壬生狼と呼ばれる男たちのいる座敷に上がっていた唄月にそっと声を掛けたのは桜田太夫だった。
桜田太夫は隣に腰を下ろし、耳元で唄月を待つという客の名を告げた。
それは唄月を贔屓にする客の名で、どちらを優先すべきかは一目瞭然だった。


「おおきに、桜田こったい」

桜田太夫にそう礼を告げ、この座敷にいる客のひとりひとりに目を向けた。

唄月がこの座敷に上がった時は4人だった客が、今は1人減っている。
沖田という男は、先ほどふらりと席を立ったまま部屋に戻っていない。本来なら彼にも挨拶すべきであったが、不在であれば致し方ない。
唄月は座敷にいる3人の客に向かって軽く頭を下げた。

「みなはん、えらいすんまへん。わてはここで失礼さしてもらいます。ここからは桜田こったいがみなはんのお相手致しますよって、よろしゅうおたのもうしやす」

天神である自分の代わりが、位が上の太夫であれば文句をいう様な野暮な男はいないだろう。
男たちはやはり文句も言わず、寧ろことさら美しい芸妓の登場に喜んでいる様に唄月には見えた。

壬生狼といえば浪士を斬り殺す恐ろしい連中。怒りに触れ、唄月や桜田太夫にまで刀を抜くのではと内心怯えていた唄月は、ほっと胸を撫で下ろした。


「こったい、ほんまえらいおおきに」

唄月は今一度桜田太夫に礼を告げ、席を立った。
部屋を辞して、襖をそっと閉めると唄月は歩き出す。
数歩足を進めた所で、唄月は立ち止まった。
彼女は今まで自分がいた部屋の隣の部屋の前にいる。
襖は開き、部屋の中、窓の前で1人の男が・・・沖田が唄月に背を向け立っていた。
唄月は男の背に声を掛けるか否か迷っていた。


「もう帰っちゃうの?」

迷う唄月の心中を知ってか知らずか、先に声を掛けて来たのは男の方だった。
それをきっかけに、唄月は一歩だけ進み敷居を跨ぐ。だが、それ以上は男に近づかない。

「沖田はんにもご挨拶せなと思うとったんどす。・・こないなとこにお一人で・・・・わての踊りも歌も退屈おした?」

唄月がそう問い掛けると、沖田は振り向き、彼女と視線を合わせて頬笑んだ。
唄月は沖田のその表情を見て、寺で会った時の事を思い出す。

「ううん、そんなことないよ。ただ・・・」

「・・・ただ?」

「月が綺麗だなぁって思ってさ」

沖田は言うと、視線を再び窓の外へと向けた。
唄月もそれに習い、沖田と同じ方へ視線を向ける。
そこには暗闇の中にぽっかり浮かぶ白い月があった。闇の中、真珠のような輝きを放つ月。
主張し過ぎないその慎ましさが、美しさをさらに引き立てている。


「・・・ほんま、不思議なお人どすなぁ」

唄月は思わずそう呟いていた。彼女の言葉が、沖田の耳に届く。

「不思議って、僕が?どうして?」

真っ直ぐ唄月の瞳を見る沖田。唄月は、彼の視線から目を逸らせない。

「壬生浪士組のお人やさかい、もっと恐ろしゅう人やと思っとったんどす」

「そうかなぁ。もしかしたら僕は君が予想していた通りの恐ろしい人間かもしれないよ?」

口元の笑みを絶やさぬまま、沖田は言う。

「わてにはそんな風には見えまへん」

「それじゃあお互い様だね。僕も最初君を見た時は島原芸妓だなんて思わなかったから」

「・・・寺で会うたこと、憶えてはりましたん?」

「僕はそんなに忘れっぽくはないよ」

悪戯小僧みたいな目で唄月を見る沖田。
そんな沖田を見て、素知らぬふりで面食らう自分を見て心の中で笑っていたのだろうかと、唄月は思った。

「なら沖田はん、ひとつ聞いてもよろしおすか」

「なに?」

「沖田はんはどないしてわてに『一緒に遊ぶ?』やなんて言いはりましたん?」

初めてこの男に会ったあの寺で、子供らと共に遊ぶ沖田にそう声を掛けられたことが、唄月には不思議だった。
まるで幼い子供に問いかけるように言った沖田の言葉。何故自分にそう問いかけたのかが不思議だったのだ。

真剣な顔で沖田を見つめる唄月
沖田はそんな彼女の表情に思わず声を起てて笑った。

「ぷっ・・・あはははっ」

「・・・わて、なにか可笑しなこと言いました?」

「はは・・・ううん、だって君あんまりにも真剣な顔してるから可笑しくて」

自分の真剣な顔のどこにそんな笑える種があるのだろうか。
顔を見て笑われるなんてことが初めてだった唄月は些か腹立たしく思った。


「ごめんね、怒っちゃった?」

表情に出したつもりはこれっぽっちもない唄月だったが、沖田は彼女の顔を窺うように覗き込む。
けれど彼の顔には相変わらず微笑みが残されていて、唄月が機嫌を損ねたことさえ楽しんでいる様だった。


「君に『一緒に遊ぶ?』って声を掛けたのはね、君が僕たちを見て一緒に遊びたそうな顔してたからだよ」

ニッコリと微笑み、沖田は言った。

「・・・わてが?」

「そう、君が。自分じゃ気付かなかった?」

凄く羨ましそうな顔してたよ、君。沖田は言う。


「・・そ・・・」

そんなことはない。唄月はそう口にしようとしたが、言葉を飲み込む。

「・・そうどすなぁ・・・沖田はんの仰るとおりかもしれまへん」

唄月はそう言って、薄く微笑む。
確かにあの日あの寺で、沖田に『君も一緒に遊ぶ?』と問い掛けられて、唄月は自分が子供らしい遊びなぞ一度もしたことがないと気付いた。
自分では意識していなかったが、もしかしたら心の奥では自分が出来なかった事をする幼い子らが羨ましかったのかもしれない。
たが、
「ほな沖田はん、わてはこのへんで失礼さしてもらいます」

唄月は沖田に向かってゆっくり頭を下げると、静かな動作で部屋を出る。

楽しそうに遊ぶ子供たちを羨ましいと、そう思った所でどうにもならないことを唄月は知っている。
過ぎた過去は戻ることなど無いし、自分が生き残る為には芸事を糧にするこの世界で必死になることしかなかったのだから。

選択肢など初めから無かった。島原の女としてしか生きる道は無かった。
後悔も、普通の町娘の様な暮らしへの羨望もない。
あるのは島原で生き、磨いてきた芸への誇りと、生かしてくれた事への感謝だけだ。


「ねぇ」

部屋の敷居を跨いだ唄月に、沖田は声を掛ける。
唄月は振り返り、沖田を見た。


「遊びたくなったらいつでもおいで」

青白い月を背景に、そう言いながら微笑む沖田の表情が、唄月の目には何故だか恐ろしく見えた。
沖田の言葉に、唄月は何を言うでもなく、ただ微笑みだけを返してその場を後にした。


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