どうしてこんな事態になったのだろう。唄月は、月明かりのみが頼りの京の街の一角で、息を殺すようにじっと身を潜めながら、そう思った。


太夫上がりを目前に控えた唄月は、このまま好いてもいない男のものになるその前に、沖田に逢いたいと、衝動的に菊乃屋を脱け出し、新選組の屯所へ向かっていた。
道の途中、奥まった小路の曲がり角に差し掛かった時、唄月は目の前の光景が信じられず、ただ立ち尽くしてしまった。

唄月のいる通りを折れた先、土の上に男が一人横たわっている。その男から流れ出た血の量は暗がりでもわかるほどにおびただしいものであり、男が絶命していることは明らかであった。
そしてもう一人、死んだ男の胸元に口を近付け、流れ出る血を啜る男。

あまりにもおぞましい光景を前に、唄月の身体からは嫌な汗が滴る。
逃げ出さなければ。そう思う唄月だったが、脚は小刻みに震えるばかりで、その場から動こうとしない。
目を背けたくなる光景ではあるものの、そうしなかったのは、警戒心からだったのか。混乱した唄月の脳では、とても理解出来ない。

人間が人間の血を啜るなど、この世のものとは思えない。もしかしたらあの男は妖か、もしくは鬼ではないか。
唄月がそんなことを考えていると、男は血を啜るのを止め、おもむろに頭を上げた。
爛々と光る男の瞳が周囲を見回す。
唄月はその姿を見て、慌てて体を男の死角へと潜めた。

気取られたのかもしれない。そう思うと、心臓の鼓動が激しく乱れた。
男のものと思われる足音が、ゆっくり、しかし確実に唄月の方へ近付いてくる。

もし見つかれば、自分はどうなるのだろう。そんなもの、思考せずともよい。
あの、人間とは思えぬ男に殺され、流れ出た血を啜られるのであろう。
唄月は、ぎゅっと目を瞑った。
そして、瞼の裏に浮かぶ、微笑む沖田の姿。


「・・・・沖田はん・・・」

頭の中で唱えたのか、口から漏らした言葉だったのか、唄月自身には解らなかった。
着実に迫ってくる足音を前に唄月は、こんなところで死にたくないと、強く思った。



「やっと見つけた。こんなところまで来てたんだ」

突然聞こえてきた声に、唄月は閉じていた目をはっと見開く。
声の主を確かめようと、おそるおそる曲がり角の先へと視線を向けた。

血を啜っていた男は、いつの間にか方向転換し、唄月に背を向けていた。
甲高い、声にもならぬ音をその口から吐き出しながら、突如表れた人物を警戒するかのように見据えている。
その人物こそ、唄月が名を紡いだ男、沖田総司であった。

逢いたいと、そう思った沖田がこの場に現れた。だが唄月は、なぜか不安な気持ちになる。
垣間見えた沖田の顔は、月に照されながら、冷たい微笑を浮かべていた。
それが唄月を不安な気持ちにさせ、沖田の前に自分の姿を見せることを戸惑わせた。


「血が欲しくて殺しちゃったんだ。また土方さんが溜め息吐くだろうなぁ」

唄月が変わらず身を潜めていると、沖田の声が聞こえた。
あの、血を啜っていた男に掛けたであろう言葉には、緊張感や憤りはなく、寧ろ冷徹で無感情なもののように聞こえた。

「君を見付けたのが僕で良かったね。・・・って、話てることなんてわからないか」

次の瞬間、金属同士がぶつかり合う音がして、唄月は思わず曲がり角の先を覗き見た。
血を啜っていた男が抜刀し、沖田に襲い掛かったらしい。沖田も刀を抜き、それを受け止めている。
狂ったように甲高い奇声を吐き続ける男が、力任せに沖田を押す。それを受けている沖田は、刀を交えている状況でも微笑を浮かべていた。

「・・・苦しまずに殺してあげるよ」

沖田がそう口にしたのと同時、せめぎあっていた刀が離れた。
次の瞬間には、沖田の刀が相手の心臓を突いていた。刺された男は呻き声を上げ、やがて事切れたのか、手にしていた刀が路上に落ちる。

沖田は刀を抜き、付着した血を払う。
先程まで狂気に満ちていた男はもはや魂の抜け殻に成り果てている。
男の遺体を見下ろす沖田の横顔を、唄月は見詰めた。
月灯りに照らされたその顔は青白く映り、まるで、沖田には血が通っていないような、そんな印象を受ける。

危険は、去った。だが、唄月の心臓は未だに大きな音を起て、ちっとも落ち着いてはくれない。


「・・・で、君はいつまで隠れてるつもり?」

暗闇が支配する路地に、沖田の声が響く。
他に人影はない。
彼の問い掛けは、角に身を潜めている自分へのものだ。
沖田には、最初から自分の存在を気取られていた。
そうと解っていながらも、唄月はその場から動こうとしなかった。
否、動くことが出来ずにいた。

通りの向こうで、沖田が息を吐き出す音がした。そして、一歩ずつ近付いてくる足音。
その音を聞きながら、唄月はゆっくりと瞳を閉じた。

やがて足音は唄月のすぐ横で止んだ。
目を閉じていても、聞こえる息遣いや、僅かに伝わる体温から、沖田の存在を感じることが出来る。


「・・・唄月ちゃん・・・」

唄月は目を開くと、沖田と向かい合った。見上げた先で、沖田が目を見開いている。
唄月がこの場にいることを、うまく呑み込む事が出来ないでいる。そんな表情で。

「・・・沖田はん・・・」

血を啜っていた男は、一体何だったのか。
どうして沖田がここへ現れ、あの男を斬り殺したのか。
混乱し、なにもかもが解せない苗字の脳内で、唯一の手掛かりである沖田への言葉が次々と浮かぶ。
だが、唄月を見下ろす沖田の瞳は先程までの戸惑いの影を潜め、無感情な冷たい色になっていることに気付き、それらは言葉になる前に消え去った。

「・・沖田はん・・一体何が」

「しっ、黙って」

沖田は一瞬辺りに視線を走らせてから、唄月の腕を掴むと力強く抱き寄せた。そのまま沖田は壁に背を預ける格好で、二人は身を潜める。
耳をすませば、通りを僅かに離れたところから、人の話し声がする。

唄月は、後頭部に添えられた沖田の手に籠る力と、伝わってくる彼の心音を感じていた。
沖田から伝わる心臓の鼓動は、この場に似つかわしくないくらいゆっくりと穏やかで、早く大きくなるばかりの自分の心音が、不安を物語っている。

声の主たちは酔っているのか、陽気な会話が耳に届く。大きくなった声は次第に遠のき、やがて聞こえなくなった頃、唄月は沖田の腕の中でふっと息を吐き出した。


「・・・沖田はん・・・」

沖田は唄月を開放し、彼女に視線を向けた。
唄月は唾を飲み込んで、言葉を紡ぐ。

「・・・さっきの人・・・血を啜っとりました・・・人が・・人の血を・・・」

ついさっきまで繰り広げられた光景を思い出すと、風も無いのに身が震えた。

「沖田はんは・・・あの男を斬りはった・・・。あの人、一体なんやったんどすか・・・?沖田はんはどないしてあの人を・・・?」

何故沖田は他者の目から逃れる様に身を潜めたのか。全てはあの横たわる男にあるのだろう。
見てはいけないものを目撃してしまったのだと、唄月はすでに悟っていた。それでも、唄月は答え求めた。
唄月が抱えた混乱を解く全ての答えは沖田が握っている。唄月はそう思ったのだ。
しかし沖田から与えられたのは、瞳に浮かぶ冷たい感情で。
それが彼女の背中に汗を流させた。


「・・・やっぱり君は全部見てたんだ」

「・・・・・」

「なら僕は・・・」

沖田がそう口にすると同時、唄月の喉元に冷たい何かが添えられる。それが刀だと理解するまで、幾分か時間が掛かった。

「・・・君を殺す」

「・・・・・」

唄月は、声が出せずにいた。月に照されて輝く銀色の刀を、恐ろしいと感じたからではない。
唄月を支配していたのは、悲しみだった。
唄月を見詰める沖田の瞳の中に、優しさの欠片も見付からない。
沖田は間違いなく自分を殺す。その事に迷いなど一切ないとでも言うような、無感情な目が自分に向けられている。
それが、酷く悲しい。


「・・・沖田はん・・・」

「・・・・・」

「・・・前にも沖田はんに言われたことがおました。わてのことを殺す、って」

「・・・そうだったね」

「・・・せやかて沖田はんはわてのこと殺したりはしませなんだ」

「なんでこの状況でそんな話をするの?僕がまた君のこと助けるって思ってる?」

刀を握る沖田の手に力が籠ったのか、刀身が僅かに揺れた。

「・・・そうどすなぁ。わては死にたくあらしまへんから、助けてくれたらと、そう思とります」

唄月は、力強い目で沖田を見上げた。

「・・・せやけど、沖田はんが生きる為にわてを斬らなあかんのなら、しゃあないのかもしれまへん」

ここで命が尽きるかも知れぬという境地で、唄月は死を覚悟した。

生きる為に芸妓として必死にやってきた自分の命が、他者の手によって摘み取られるというのは、なんとも味気無い最後だと思った。
それでも、沖田が生き抜く為に自分を斬らねばならぬのだとしたら?
それならば、沖田の手で殺される自分の命も、僅かながらに救いようがあるのではないか。

唄月は、目を閉じた。沖田の感情のない冷めた瞳を、これ以上見るのが辛かった。
最後は記憶の中に宿る、暖かな瞳で自分を見詰める沖田を思い浮かべて、微笑みながら終わりたかった。


どれくらいそうしていたかわからない。風で雲がながれ、月が見え隠れするのが、瞳を閉じていてもわかった。
やがてひゅっと空を切る音がして、唄月は目を開けた。
目の前の沖田は刀を鞘に収め、何処か遠くを見ている様だった。


「・・・君がこのことを他言すれば、必ず僕が君を殺す。・・・いいね?」

僅かの間唄月に向けられた沖田の目が鋭い。
唄月は、黙って頷いた。

「もうじき人が来るから、君はもう行きなよ」

「・・・・・」

唄月は沖田に掛ける言葉を見つけられぬまま、その場をあとにした。

もう二度と沖田と会うことは叶わぬだろう。そんな予感が彼女の胸を占めていた。
それでも唄月は振り返らない。
夜が明ければきっと、何事もなかったかのように明日が始まる。
今夜見たおぞましい出来事も、刀を突き付ける冷たい瞳も、沖田と出逢ったことも、全てが無かったかのように。

唄月は、溢れ出そうになる涙を堪えながら、一歩一歩足を進める。
ただ真っ直ぐに先を見詰める彼女に、「・・・さよなら、唄月ちゃん」と呟いた沖田の声が聞こえたかどうか。
全ては闇の中に溶けて、消えて無くなった。


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