淡い月の光を受けて美しく輝くそれが、刀であると理解するのにそう時間はかからなかった。
大きく振り上げられた刀が、月光を反射してギラリと、艶かしい光を放つ。


「・・・・君を殺す」

刀を手にした男が、感情の籠らぬ冷たい瞳でそう呟くのを、彼女は聞き逃さなかった。
美しい刃が振り下ろされるその瞬間、彼女は思わず男の名を呼んだ。




「・・・・沖田はん・・・」

唄月が目を覚ますと、そこには見慣れた天井があった。
格子窓から射し込む夕陽が、彼女を完全な目覚めへと促す。


「そろそろ仕度のお時間どす」

部屋と廊下を隔てた襖の向こう側から聞こえてくる禿の声に、唄月は横たえていた体を起こした。稽古を終えて置屋に戻った後、睡魔に負けて意識を手放していたらしい。
禿が襖を開け、足音静かに室内に入って来ると、唄月の身支度をするべく、着物やら化粧道具やらを手近な所へ整え始める。
機敏で余計なものが一切ないその動作は、着付けるのが遅いだとか紅が切れただとか、そういった小さなへまひとつで折檻されるという、厳しい躾が禿に施されてきたことを物語っている。
唄月は無駄なく動き回る幼い少女の姿を見詰めていた。


「・・・・わてがなんか寝言を言うとったのを、聞いとった?」

「いいえ。うちがお部屋前に来やはった時にはえらい静かにお休みになってはりました」

「ほうか・・・ならええの」

自分の髪に櫛を通している禿に気付かれぬ様、唄月は小さく吐息を吐き出した。

唄月こったいでも寝言言わはるなんて意外どす」

禿はそう言って、くすりと笑いを漏らした。
そんな少女に、唄月はちらと視線を向ける。すると少女は慌てた様子で、「えらいすんまへん」と、詫びを述べた。



あの出来事から、もう幾夜も過ごしてきた。それでも、唄月はあの夜の出来事を、今でもこうして夢で見る。

人が人の血を啜るという、この世のものとは思えぬおぞましい光景。
自分の喉元に添えられた刃。
自分へと向けられた、沖田の感情の籠らぬ冷たい瞳の色。

あの夜から今日に到るまでの間に、唄月は天神から太夫へ昇格した。太夫に上がりたてのころは『こったい』と呼ばれるのがくすぐったかったが、それにももう馴れた。
それだけの時間が流れたにも関わらず、あの夜の出来事を夢で見るのだ。


「・・・・忘れるて決めたんや。忘れなあかん・・・」

自分に言い聞かせる様に、唄月は呟いた。
そんな彼女を、禿は簪を飾る手を止めてじっと見上げる。

「こったい?なにか言いはりました?」

「・・・なんでもあらへん」

正面に置かれた鏡の中に、艶やかな着物に身を包み、華やかな簪を差した女が座っていた。



仕度を整えた唄月は、禿を従え階下へ下る。菊乃屋の出入口には既に数人の禿と男衆が控えていた。
唄月が階段を降りてくるのを確認した男の一人が、出入口の引戸を開ける。
禿二人が先に通りへ出、唄月がその後に。そして唄月に続いて禿が二人と男衆が二人、菊乃屋の出入口をくぐった。

島原に軒を連ねる置屋や揚屋の提灯が道々を照らす。街を行き交う人々の目に、菊乃屋から現れたこの太夫がどんな風に見えたであろう。
唄月がその姿を現すと、通りを行く人々はふと足を止め、その場から半歩下がった。道を譲られた唄月の太夫道中は、つつがなく進んでいく。
遠目からでも見てとれる美しい柄の着物と眩しく輝く簪は、店先に提げられたどの提灯よりも目映い程で。
一歩一歩ゆっくりと足を進める唄月の姿を食入るように見詰め、その背中が見えなくなるまでその場から動かなくなる者も少なくない。


「菊乃屋の唄月こったいや。太夫上がりして間もないそやけど、風格が備わっとるわぁ」

「今島原で一番の芸妓といえば唄月太夫ってのは間違いねぇな」

通りのあちらこちらから聞こえてくる会話に、唄月は殊更背筋の伸びる思いがした。





「大丈夫ですか?沖田さん・・・」

巡察の途中、隊から僅かに離れた沖田に気付き、駆け寄ってきた千鶴がその顔を覗き込んだ。

「なんでもないよ」

心配そうな千鶴をよそに、沖田は止めていた足を再び進める。

「人が多い所ですね」

先を歩いていた沖田に追い付き、隣に並んだ千鶴が呟く。

「君、島原の巡察は初めてだっけ」

「はい。・・・話には色々聞いてましたけど」

「そう。この街には不逞浪士が会合場所にしてる店も多いから。途中ではぐれちゃっても、助けてはあげられないかも」

「・・・・・」

初めて訪れた花街島原が珍しいのか、千鶴はあちらこちらへ視線を向ける。そんな千鶴を目の端で捉えながら、沖田はその脳に唄月の姿を甦らせていた。


あの夜、自分たち新選組幹部以外に絶対見られてはならぬものを目撃した唄月
悲壮感に満ちた表情で自分を見詰める唄月の顔が、沖田の脳裏に焼き付いている。

殺すしかなかったはずだった。しかし唄月を手に掛けることをせず、解き放った。
これで、あれを目撃にした上で生きている人間は二人だ。唄月と、今隣を歩く千鶴。
千鶴の場合は生かしておくことで利用価値があると、近藤や土方が判断したから生かされている。
なら唄月はどうであろう。
彼女を生かしておくことで得られるものなど何も無い。寧ろ新選組にとって危険な存在でしかないのだ。
それでも唄月を殺さなかったのは・・・


「沖田さん、見てください」

千鶴にそう声を掛けられ、沖田は現実に引き戻される。
千鶴が指差す先、通りの向こう側に人だかりが出来ている。人々の視線を一身に集めているのは、煌びやかに着飾った一人の芸妓であった。

「綺麗・・・」

「・・・・行くよ、千鶴ちゃん」

芸妓に魅入られる千鶴や、行く手を人垣で塞がれ立ち往生する隊士たちに構うことなく先頭へ進んだ沖田は、躊躇することなくそのまま歩んでいく。





道の向こう側から歩んで来る集団にいち早く気付いたのは唄月であった。
浅葱色の羽織は、夕暮れの中でも一際目を引く。その集団の先頭に立つのが沖田だという事にも、気付かずにはいられなかった。


「見てみ、新選組や」

「太夫道中に道も譲らんなんて、ほんま東の人は田舎者や」

唄月の太夫道中に足を止めている人だかりのどこかから、そんな声が聞こえる。


「こったい」

道中を共にしている男衆の一人が唄月に声を掛ける。皆まで言わずとも、男衆が何を言おうとしているのか唄月には予測がついた。
この島原では、太夫道中の行く手を塞ぐのは不作法とされている。それは相手が侍であろうとも揺るがない。
男衆は、唄月の行く手の先で脇に避けようともしない彼ら新選組に文句を付けようというのだ。

「かましまへん。放っておきなはれ」

「しかし・・・」

「せやけど、わても道を譲る積もりはあらしまへん。真っ直ぐ進むんや」

唄月の揺るぎない言葉に男衆は口をつぐんだ。

唄月は言葉通り、ただ真っ直ぐ前だけを見据えて歩みを進める。
その一方で、正面から近付いてくる沖田たちも、歩みを止めるでもなく、両者の間は徐徐に縮まっていく。


唄月がこうして沖田の姿を目にするのは、あの夜以来だった。
刀を向けられ、『殺す』と、そう言われたあの夜。
あの夜の沖田の冷たい瞳を思い出しそうになる。それだけで唄月の心にずきずきと嫌な痛みが奔る気がした。
だが、決めたのだ。全て忘れると、唄月は自分の心でそう定めた。


身売りされ、行き場を無くした自分がたどり着いた先。それがこの花街島原だった。
立派な芸妓になり、多くの客を魅了し、売られた置屋に奉仕する。それが生きていく為の唯一の手段。
普通の町娘たちが鬼ごっこやまりつきに興じている間に強いられてきた苦しい稽古に厳しい躾。
全てに耐え、受け入れてきた。そして生まれた芸妓としての誇りと、強い願望。

誰よりも優れた芸妓になる。

町娘として沖田と出会っていたならば・・・と、そう考えたこともあった。
だが所詮は叶わぬ願いで、今現在自分は芸妓として最高位の太夫となり、羨望の眼差しを受けている。
自分は芸妓になるために生まれ、今この瞬間のために必死で生きてきたのだ。


徐徐に近付く唄月と沖田の距離。
ついに間は無くなり、二人はすれ違う。
唄月はすれ違うその瞬間まで、ついに沖田に視線を向けることはなかった。
そしておそらくは沖田も、唄月を見ることはなかったであろう。

すれ違ってからも、唄月は振り返ることもせず、ただ一心に前だけを見据えて歩み続けた。
そんな彼女の背後で、沖田が咳き込んでいたことなど、唄月は知るよしもない。


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