「聞いた?三条大橋に立てられた制札が抜かれたらしい」

「誰がそないなことしたん?」

「土佐の人らしうて・・・この前新選組の人らが捕縛したんやて」

芸妓たちの口から洩れる言葉に、唄月は無意識のうちに身体を反応させてしまっていたらしい。唄月の頭に簪を挿そうとしていた禿が、戸惑ったようにその動きを止めた。

この街にいれば自然と聞こえてくる新選組の名。時には隊士たちを実際に目にすることも珍しくはない。だが唄月にとって彼らの存在は、聞きたくもなければ見たくもない。なんとしてでも拒絶したいものになっていた。
新選組という名を聞くだけで沖田の声が蘇り、あの浅葱色の隊服を見かけるだけで沖田の姿が浮かぶ。そんな自分が、たまらなく嫌だった。
忘れると決めたのに。過ちだったと気付いたのに。それでもまだ未練たらしく沖田を思い浮かべてしまう自分自身に嫌気がさす。


唄月こったい・・・お身体の具合悪いんどすか?」

問いかけたのは唄月の身支度をしている禿であった。禿は心配そうな顔で、鏡越しに唄月を見詰めている。

「そないなことあらへん」

淡い微笑みを浮かべて、唄月は鏡に映る自分を見遣る。そこには酷く情けない顔をした自分がいた。


「こったい、そろそろええどすか?」

今宵共に座敷に揚がる芸妓が、唄月の身支度が整う頃合いを見計らって声を掛ける。

「ほな、いきまひょか」

支度を終えた唄月は立ち上がる。
客を前にする以上、情けない顔は決してしてはならない。心の中で力強く呟き、唄月は今宵呼ばれた揚屋、角屋へと向かった。





「今夜の金全部持ってくれるなんて、左之さん太っ腹!」

月が浮かぶ夜空の下、暗い夜道ではしゃいだ声を上げたのは、新選組の藤堂平助であった。
三条大橋に立てられた制札を守り会津藩から報奨金を受け取った彼ら幹部たちは、今宵島原での酒席を設けている。


「・・・総司、お前本当によかったのか?」

皆から少し離れ、後方を歩いていた沖田に声を掛けたのは原田であった。

「いいって言ったじゃない。変に気を使わないでよ」

答えた沖田の顔に浮かぶのは、苦い笑みだった。

今宵島原へ出向く事が決まった折、原田は『呼びたい芸妓はいないのか?』と、沖田に問いかけていた。沖田が島原へ通っていた事を知る原田なりの気遣いであったのだろう。しかし当の沖田は、その気遣いに対しても『そんなのいないよ』と、実にそっけなく返した。
芸妓遊びを好まぬ沖田が島原に通っていたというのは珍しいことだ。沖田には目を掛けている芸妓がいるのだと踏んでいた原田にとって、彼のそっけなさはどこか腑に落ちないものがあると感じた。
だが男女のことなど周りには解からぬことも多いもの。沖田本人が熱心さを見せぬのであれば、もう構わない方がいいのであろう。
感情の読めぬ沖田の横顔を見ながら、原田は思った。





「さすがは島原一と名高い唄月太夫」

「お褒めに預かり光栄どす」

宴もたけなわになった頃、したたか酒に酔った男が上機嫌に口にした言葉に対し、唄月は恭しく礼を述べる。
島原の中でも格式高い角屋の一室での宴。唄月は歌や舞を披露し、男は始終満足げであった。
客が自分を見る目の中に浮かぶ、歓喜と思慕の色。自分に向けられているそれが、唄月の芸妓としての誇りを満たす。


「こったい、そろそろ」

唄月に声を掛けたのは、菊乃屋から共に連れてきた芸妓であった。
唄月は芸妓へ視線を向けると無言で頷き、再び客へと視線を戻す。

「そんなら、このへんで失礼させてもらいます」

名残惜しそうな表情をする客に笑顔を見せ、唄月は立ち上がった。


角屋の長い廊下に響く、他の部屋から楽器の音色や人々の声。
ずっと奥まった場所で動いた人影を、唄月は見逃さなかった。
部屋から素早く廊下へ出、そしてすぐさま灯りの無い隣の部屋へ入っていった人物の後ろ姿に、唄月の心臓は大きく跳ねた。

薄茶色の髪と、長い手足。
見間違いかもしれない。そう思いながらも、唄月は連れの芸妓に先に帰るよう伝えると、男が消えた部屋の前で、足を止める。

開いたままの襖。蝋燭ひとつ灯されていない暗い部屋が廊下からでも見渡せる。
男は部屋の奥で膝を付き、何かを庇うように背を丸めていた。
自分が知っている彼よりも幾分頼りなさげな姿だったが、やはり見間違いでは無かったのだと、唄月は思う。


「・・・・・・沖田はん・・・?」

唄月は迷った末に、恐る恐る男の背に声を掛けた。しかし沖田は屈み込んだまま、動くこともしない。
返事の変わりに返ってきたのは、こほこほと咳き込む音だった。

「・・・!沖田はん・・・?どうしたんですか?」

沖田の異変に気付いた唄月は、慌てて部屋の中へ入り、彼の顔を覗きこむ。
苦しそうに歪んだ表情と、止まらぬ咳。顔が青白く見えるのは、月明かりのせいだけではないと、唄月は感じた。

「・・・・誰か・・!」

明らかに自分一人では応対しかねる状況に、助けを求めるべく声を上げようとした瞬間、唄月は手首に圧迫感を覚えた。
見ると、沖田が自分の手首を強く握り、険しい表情のまま首を横に振った。

「・・・・大丈夫だよ・・・こほっ・・・ただの・・風邪だから・・・」

そう呟く間にも漏れる咳に、不安が募る。

「せやけど・・・・沖田はん、咳も止まらへんし顔色も悪うおす・・・。誰かに来てもろたほうが・・・」

「・・・こんな咳・・・すぐに止まる・・・から・・・」

人を呼びに行こうにも、唄月の手首は沖田によって捕らえられ、簡単には振りほどけそうにない。
人を呼ぶことを何故こんなにも拒絶するのか訝しく思いながらも、頑なな沖田を前に、唄月は諦めざるをえなかった。
それでも変わらず、苦しそうに咳を漏らす沖田。唄月は、緩慢な動きでその背を摩った。


次第に沖田の咳は収まり、唄月は添えていた手をそっと離した。
室内を支配する、重苦しい沈黙。自分の心臓の音が、耳にまで届くようだった。

こうして唄月と沖田が顔を合わすのは、あの夜以来だった。
この世のものとは思えぬ光景を目にしたあげく、逢いたいと思った沖田に冷たい瞳を向けられ、刀を突き付けられた夜。

あの夜、唄月の中で何かが終わりを告げた。
大事に抱え込んだものが壊され、傷付き、もう二度と同じ思いはしないよう、全てを忘れると決めた。なのにこうして沖田の姿を見ると、心臓が高鳴るのは何故だろう。
頼りなさげに見える今の沖田から、離れがたいと思ってしまう。
ふいに、隣の部屋から男たちの陽気な笑い声が聞こえてくる。その声は、唄月にも聞き覚えのあるものだった。

「・・・新選組のみなはんと一緒だったんどすな」

唄月が声を掛けると、沖田は少し目を見開き、それから淡い微笑みを浮かべた。

「制札を守ったから貰えた報償金で左之さんがご馳走してくれるんだって。みんなすごく楽しんでるよ」

「そないどすか・・・」

再び訪れる沈黙。
沖田に握られたままになっている手首が、妙に熱い。


「・・・唄月ちゃんと話せてよかった」

唄月がよく耳にする意地悪な物言いとは程遠い、驚く位に弱々しい口調で沖田は言う。
その顔に、安堵したような笑みが浮かんでいるから、唄月は狼狽えることしか出来なかった。


「もう口も利いてくれないんじゃないかって思った。君は僕のことなんて嫌いになったと思ってたから」

沖田の瞳が唄月を捕らえる。
余裕のある微笑みも、その言葉も、気に食わない。

この男は、これまで自分がどんな想いでいたか知らないのだ。
『殺す』と言われ、どれだけ傷付いたかも、忘れなければと思いながらも上手く捨て去る事が出来ず苦しんだことも、沖田は知らない。
何も知らないくせに、再び前に現れて、自分の心を掻き乱していく。


「・・・・――い・・・」

「・・・・・」

「・・・・沖田はんなんて・・・嫌いや・・・」

か細い声でそう呟くと、沖田は苦い笑いを浮かべ、小さくため息を吐いた。

「そんな顔で嫌いだなんて言われてもなぁ・・・」

「・・・・・」

「そんな顔されたら、君を抱き締めたくなる」

刹那、握られていた手首を力強く引き寄せられる。
気が付いた時にはもう、唄月の身体は沖田の腕の中に収まっていた。


「・・・・嫌や・・・・」

「・・・・・」

「・・・離しておくれやす・・・」

身体で感じる沖田の温もり。
背中に回された腕は、唄月を閉じ込めたまま、緩みそうにない。


唄月ちゃんは嘘つくのが下手だね」

耳元で囁く沖田の声は、何時もの悪戯っぽさを含んだ甘い声は、唄月の身体に優しく溶けていく。

「・・・・嫌や言うてるのに・・・」

唄月は震える声でそう言いながら、自らの腕を沖田の広い背中へと伸ばした。


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