慶応三年。時勢は確実に動き、その流れは止まることを知らない。
将軍徳川慶喜による大政奉還、王政復古の大号令。大きく変動していく世間の流れのなか、唄月の心境は複雑であった。
薩摩長州による同盟と幕府軍の対立が始まり、いつ戦が始まってもおかしくはないこの情況で、京の人々の心が穏やかである筈はなかった。ここ島原でもその影響は大きく、毎夜賑わいを見せていたのが嘘の様に客が遠退き、静かな夜が続いていた。



「いつまでもこないな情況が続いとったら、この島原にある置屋もみな潰れてまう」

珍しく焦りの色を浮かべながら漏らす女将に、唄月は微笑み掛けた。

「そないに心配せんでも大丈夫ですよ、おかあさん。すぐまたお客はんも戻っていつもの島原になりますよ」

そう言葉にしながらも、唄月は沖田のことを考えていた。

目に見えて体力を落としていく沖田が漏らした、‘新選組の刀でありたい’という思いと、‘刀であり続けることが出来ないかもしれない’という不安。
唄月の顔を見れば笑みを浮かべる沖田だったが、その心内にはいつでも焦りと葛藤が渦巻いていたであろう。
新選組は伏見奉行所の警護に当たることになったと、唄月の耳に届いていた。隊士たちが命を張ってその任に当たるなか一人床に臥せる沖田は、一体何を思っているのか。

沖田の体も心も、救いたい。そう強く思うのに、どうすれば彼を救えるのか、唄月にはわからない。
島原一と持て囃される芸妓にまでのぼりつめたものの、苦しむ沖田を前にすれば、それはなんの意味もないことに思われた。自分の無力さを痛感させられるばかりである。



「そろそろ稽古に行ってきます」

唄月は女将にそう声を掛けたが、無論嘘である。今日とて沖田のところへ向かうつもりであった。
女将を目の前にして嘘をつくことは良心を痛めたが、今唄月に出来ることといえば、沖田に会うことだけであると、彼女はそう思っている。


唄月

唄月の背中に、女将の声が掛かる。
振り向いた先に佇む女将の表情は、思わず身を硬くするほど、厳しいものであった。

「ほんまに稽古に行かはるの?」

「ほんまにって・・・他に行くとこなんてあらしまへん」

「・・・あんたの嘘に気付いてへんとでも思とるん?」

女将の言葉に、唄月の心臓が大きく跳ねた。

「ここんとこ、ずっと稽古に行ってへんそやね。一体何処に行っとるん?」

「・・・・かんにんえ」

「何処に行っとるん、唄月

唄月に向けられた女将の視線が冷たく、厳しい。それでも唄月は言葉を紡ぐことなく、黙ったままでいた。
暫し続いた沈黙。それを先に破ったのは女将であった。

「・・・あんたが稽古に行くことよりひいきしとるもんが何なのかは知らん。せやけどそれが許される立場でないことは充分解ってるでっしゃろな。稽古の先生に支払うお金もうちが立て替えてるだけであって、あんたはその分を稼がなあかん」

「・・・・へえ」

「ましてやあんたは太夫。他の芸妓の見本にならなあかん存在」

「・・・充分わかっとります」

「うちの店含めて島原ちゅう街がえらい時に、あんたがしっかりせんと誰が引っ張っていくん?」

「・・・・・・」

女将は大きな溜め息を吐いた。

「あんたの外出は暫く禁止や。馴染みのお客はん以外の座敷には揚がらなくてよろしい」

「そない・・・」

「嘘つきの言葉なんか聞きたない。早う折檻部屋に行きよし」

有無を言わさぬ女将の態度。その厳しい物言いに、自分のついた嘘でどれ程女将の怒りを買ってしまったのか思い知らされる唄月であった。





廊下を駆ける足音や話し声でにわかに騒がしい伏見奉行所、控えの間。それまで浅い眠りに落ちていた沖田は、寝床から起き上がると幹部たちのいる部屋へ足を向けた。

新選組が伏見奉行所の警護に当たることになってからも沖田は隊務に参加することを許されず、部屋に籠らされることが多い。「隊務に参加する」と口にしても、近藤に休んでいるようにと諭されてしまえばさすがの沖田も大人しくせざるを得なかった。
ただ不安だったのは、‘近藤はもう自分を必要としていないのではないか’ということ。そして、自分はまだ戦えると強く思いながらも、段々と衰えていく身体を否が応でも意識せざるを得ない現実。

部屋の前まで来ると、中から聞こえて来る声の主が土方、島田、井上らであることがわかる。何を話しているのか、沖田には彼等の話の流れはわからない。
皆の声の様子は、切迫した響きである。何かよからぬことが起きたのであろう。沖田は襖を開けた。


「・・・・何の騒ぎ?」

室内にいる面々へ、不機嫌さを隠そうともせず沖田は言った。
誰もが口を開くことを躊躇するなかで、答えたのは土方であった。その顔は苦痛に耐えるように歪められている。

「・・・近藤さんが撃たれた」

「―――なっ!?」

一瞬にして、沖田の思考を停止させる言葉であった。
この日近藤は幕府重鎮たちとの会議の為、二条城へ赴いていた。薩摩・長州との睨み合いが続くなか開かれた会議。近藤は護衛もろくに付けず城へ向かった。そして城からの帰り道、街道で待ち伏せていた狙撃隊により、肩を撃たれたのだ。傷の具合は、楽観視できるものではないという。
ことのあらましを聞かされても、沖田の動揺は収まらない。

「今は危険なときだってわかってるくせに、どうしてそんな情況で行かせたんです!?」

「お偉方の集まる二条城へ、新選組局長である近藤さんが護衛なんか引き連れていけるかよ」

「・・・近藤さんの命よりも、見栄をはることのほうが大事だったんですか」

沖田は声を荒げる。いつもの沖田らしくない言動に戸惑いを見せる隊士も多いなか、古い馴染みである井上が、彼を宥めようとした。
しかし当の沖田に井上の声は届かない。

「・・・もしも近藤さんが死んだら、土方さんのせいですからね」

土方を睨みながら言い放った沖田は、勢いよく飛び出していく。
沖田の身体を突き動かしているのは、土方に対する恨み。そして近藤を狙撃した敵への激しい憎しみであった。


自分に宛がわれた部屋へ舞い戻った沖田は、他のものには目もくれず、床に置かれた刀を手にした。鯉口を切って刀身を覗かせると、白い刃がギラリと光る。

敵を斬らなければ。そう思いながら、沖田は立ち上がる。
立ち上がると同時に、視界が大きく揺らいだ。手足に力が入らず、畳の上にうつ伏せになる。倒れた衝撃からか咳が洩れ、奥から血がせり上がってくる。口を開くと、赤い液体が畳を汚した。刀のつかを握ろうにも、手にうまく力が入らない。

病は確実に進行し、刀を握ることもできなくなる程に侵されいる。自分の身体が新選組の剣であることもままならないことを、沖田は悟った。
戦えぬ身体になってしまったことが、悔しかった。このまま、もう二度と戦うこともなく、床の上で生涯を終えるのだろうか。

ふと、沖田の視界に飛び込んできたのは、懐に隠し持っていた赤い液体の入った小瓶だった。転倒した際、懐から転がり出たのであろう。
沖田は手を伸ばし、小さな瓶を握り締めた。
その時沖田の頭には、唄月の顔が浮かんでいた。





唄月こったい、お食事はいかがされますか」

部屋と廊下を隔てた襖の向こうから聞こえてくるのは禿の声であった。
唄月は小さな吐息をひとつ吐き出して、声の主に答える。

「・・・さっきも言うたけれど、食事はいらへん。食欲がへんさかい」

「せやけど・・・」

「あんたはわてを見張るようにおかあさんに言われとるんでっしゃっろ?それやったら折檻部屋に入れられたもんと軽々しく口を聞いたらあかんよ」

「・・・へえ」

唄月にたしなめられ、禿は口を開くことを止めた。
静まり帰った部屋の隅で、唄月は夜空に浮かぶ月を、窓越しに見つめる。


女将の言い付けに従い、唄月は座敷に揚がることもなく折檻部屋に詰めていた。
身体を横たえることさえままならぬ狭い部屋。こんな場所に閉じ込められていたら、気が触れてしまいそうだと、唄月は思う。
しかし、自分が吐いた嘘はそれだけの報いを受けるべきものだったのだということも、彼女は理解している。
芸妓である以上、課せられた稽古の数々も座敷に揚がるのと同様に手を抜くことは許されることではない。
嘘を吐き、女将を騙していたことにも罪悪感を覚えた。それでも唄月は、少しでも多くの時間を沖田と共に過ごしたいと思ったのだ。

自分がこうして小さな部屋に閉じ込められている間に、沖田は何を思っているのだろう。
唄月の頭のなかを占めるのは、弱りきった沖田の姿であった。


ふと、人の叫び声のようなものが何処かから聴こえたような気がした。唄月は、廊下に控える禿に向かって、「今、何か聞こえなかった?」と問いかける。
禿は「何も聞こえませんでした」と、答えた。唄月の耳にも微かに聴こえたような気がしただけだったから、襖を隔てている禿には聴こえなかったのかもしれない。

それから少しばかり時間が経った頃、襖の向こうで廊下をバタバタと慌ただしく駆ける足音がした。今の時刻、芸妓は座敷に出払っているはずだから、足音の主は禿であろう。
足音の主は唄月の見張り役である禿に何やら耳打ちしているらしい。ひそひそとした声が、唄月にも僅かに聴こえる。
話を終えたらしい少女が走ってきた廊下を再び歩く音を確かめて、唄月は側に控えている禿に声を掛けた。

「どないしたん?なんや慌ただしかったけれど・・・何かあったん?」

「・・・へえ・・・それが・・・」

言葉にするのを戸惑う禿に、唄月は続きを離すようにと促す。禿は躊躇しながも、口を開いた。

「・・・ここから少し行った通りで、人が殺されとるのが見つかったそうで・・・」

「・・・・殺した人は?」

「 見つかってへんそうどす。もしかしたら、下手人がこの島原に逃げてくるかもしれへんから、その時は報せるようにと、土佐の人があちこちまわってるらしゅうて」

禿の言葉を聞きながら、唄月は浅葱色の羽織を纏う集団を思い浮かべていた。
土佐藩といえば、今や薩摩長州に並ぶ勤王倒幕藩である。土佐の人間が斬られたのだとしたら下手人は、佐幕派の者である可能性があるのではないか。そう思うと、自然と頭に浮かんでくるのは新選組で。
刀でありたいと願った沖田の冷たい瞳が、唄月の脳裏を掠めたのだった。

・・・ありえない。自分の脳に過ったものを振り払うかのように、唄月は首を振った。
沖田は病に臥せっている。そんな沖田が、人斬りを行える訳がない。そう自分に言い聞かせる唄月であったが、なぜか、嫌な予感がした。



「・・・・唄月ちゃん」

自分の名前を呼ぶ沖田の声が、聞こえたような気がした。彼のことを考える余りに、その声まで記憶から引きずり出してしまったのだろうか。


唄月ちゃん」

もう一度。今度は気のせいなどではない。暗い窓の向こう側から唄月の名前を呼ぶ沖田の声が、確かに聴こえたのだ。

唄月は窓際へ駆け寄ると、通りを見下ろした。
表は月が雲に隠れ、暗い。そんななかに、ひとり佇む人影がある。

沖田だ。ぼんやり浮かぶ人影でも、見紛うことはない。
確信した唄月は、口を開いた。


「沖田は・・・―――」

しかし、唄月の声は尻すぼみに小さくなり、やがて音は消えた。
通りから自分を見上げる男の姿に、唄月は思わず息を呑んだ。

雲が流れ、月が顔を覗かせる。
銀色の淡い光が照らし出したのは、唄月の知っている沖田によく似た、別の人間だった。
いや、人間であったかどうか。

白髪に赤い瞳を爛々と輝かせた見知らぬ男が、唄月を見詰めていた。


 back