いま、この瞬間に決断しなければ、これから先もずっと沖田に会えぬまま芸妓として生きていくことになる。唄月には、そんな予感がある。
沖田たち新選組が大阪を離れ江戸に向かったという噂話が届いたのは、つい先ほどのことであった。また、彼らは官軍である薩摩・長州と戦うべく、会津へと向かった、とも聞いている。
沖田が遠く離れていく。
彼が無事なのかどうか、安否さえ確認することのできぬ遠い場所へ、行ってしまう。
唄月は寂しかった。
声を聞くことも、触れることもできない。無事かどうかを確かめることのできない相手を想うことは、ただ寂しく、ひたすらに不安であった。
*
京から遠く離れた江戸の街。
沖田は京で負った銃による傷がなかなか癒えず、大阪へ向かった後、医者である松本良順の手配で江戸に身を潜めていた。
傷の癒えぬ沖田は隠れ家の一室で床につき、床については身体を襲う痛みに目が覚める。それをもう何日も繰り返していた。
目を覚ますたび、眠っている間にみていた夢の内容を反復させる。
夢の中にはいつも、唄月の姿があった。
座敷に揚がった華やかな彼女。その誇りと強い意思がこもった瞳。淡い微笑み。好きだと言葉にして、羞恥を浮かべた表情。
逢いたいな。唄月の夢をみるたびに、沖田は思う。
しかし、それは叶わぬことだ。もう二度と会うことはない。それがわかっているからこそ、唄月に別れの言葉を残したのだ。
遠く離れた京の島原に、唄月はいる。自分が床に臥せっている今この時も、彼女は誇り高く生きている。
その姿を思い浮かべて、沖田は瞳を閉じた。そうすることで、傷の痛みにも煩わされず、穏やかな眠りにつける。そんな気がした。
「―――・・・はん」
「・・・く・・」
「――沖田はん・・・」
疼くような痛みが沖田を襲ったのは、彼が眠りに就いて暫く経った頃だった。身体を襲う痛みに、沖田の口からは呻き声が漏れる。
はっきりしない意識の中、自分が漏らした呻き声の合間に唄月の声が聞こえたような気がした。
痛みの最中でさえも唄月の声を聞いた気がするなんて。自嘲的な思いに駆られながら、沖田は目を覚ました。
「沖田はん・・・お加減はどうえ?」
声だけではない。沖田の目に、不安そうな顔をした唄月が映る。
これも夢なのだろうか。ぼんやりした意識のまま、沖田は思う。
だが、自分の手をしっかり握り締める唄月の暖かく細い指先までもが夢だとは、到底思えない。
「―――唄月・・・ちゃん・・・?」
「へえ、唄月どす」
目を覚ましたことに安堵したのか、唄月は淡く微笑んだ。
「・・・どうして・・・君がここに・・・?京からどうやって・・・」
自分の目に映る女が夢のなかだけの生き物でないことに気付き、沖田の頭が疑問で埋め尽くされる。
聞きたいことは沢山あるのに、身体の熱が言葉を発することを阻み、もどかしくてしょうがない。
沖田のそんな内心を見透かしているかのように、唄月は静かに微笑んだままでいる。
「・・・今は休んでおくれやす。わてはずっと、ここにいますから」
唄月の手に力が籠るのを、沖田は自らの手で感じた。
唄月の温もりを感じながら、沖田は再び眠りのなかに落ちていく。
*
再び沖田が眠りにつき、唄月はふっと安堵の息を漏らした。呻き声を漏らすことなく、穏やかに眠っている。
つい先ほどまで沖田は治りきらぬ銃の爪痕によってうなされていた。苦しそうな沖田に対し何もすることができず、唄月は歯痒い思いでいっぱいだった。ただ手を握ることしか、できなかったのだ。
目を覚ました沖田が自分の存在を認め、疑問をぶつけようとする。まだ傷の癒えきらぬ沖田に、無理をしてほしくなかった。
松本良順から聞かされた話では、沖田の傷は普通の人間であれば死に至ったもので、生きていることが不思議なくらいだという。傷の治りも常人に比べれば数段早い―――とは聞いていたものの、実際傷に苦しめられる沖田の姿を目の当たりにすると、安心感など消え去ってしまった。
「目が覚めたのかね?」
障子の開く音がして、松本良順が顔を覗かせた。
唄月は淡く微笑んで、首肯する。
「またおやすみになられました。さっきまでうなされとったようやけど、もうどうもなさそうどす」
唄月の言葉を聞き、松本良順は頷いた。
「あんたももうずっと休んでないんだ。少し休みなさい」
「へえ。でも、つぎに沖田はんが目を覚ました時、傍におりたいさかい・・・」
唄月の返答に、松本良順は深い溜め息を吐いた。唄月の言動に余程呆れたらしく、「まったく」と、言葉を漏らす。それでも唄月を強く咎めるわけでもなく、障子の向こうに姿を消した。
部屋を出る寸前に、「何かあったら呼びなさい」と声を掛けていくことを忘れないこの医師に対し、唄月は感謝の気持ちでいっぱいだった。
唄月が江戸にある沖田の隠れ家に辿り着くまでの道は、険しかった。
このまま、沖田に会わぬまま芸妓として生きていくことに正しさを感じられなくなった唄月は、夜影菊乃屋を抜け出した。
勿論、許されることではない。もし抜け出したことが露見すれば、女将は手を尽くして唄月を探すであろう。その追っ手に捕まってしまえば、折檻部屋に詰めるだけでは許されぬ。より厳しい罰を受けねばならない。
危険だと、そう思いながらも、唄月は夜の京を駆け抜けていた。沖田に逢いたい、その一心で。
菊乃屋を抜け出した唄月は、知り合いの伝手で大阪行きの船に乗った。
沖田たち新選組の行方はわからない。風の噂を頼りに、追いかけてゆくしかない。
大阪に着いた唄月の期待は裏切られる。そこに新選組の姿がなかったのだ。
大阪の人々の話によれば、彼らは将軍を追って江戸に向かったという。
江戸――唄月にとって全く馴染みのない、未開の地。多少の戸惑いを覚えながらも、彼女は足を止めなかった。
しかし唄月の勇み足も、無駄になってしまう。唄月が江戸に着いた頃には、新選組は既に江戸を離れていた。
彼らのいない江戸の町で、途方に暮れていた唄月の脳裏によみがえったのは、新選組に身を寄せていた雪村千鶴という少女の言葉だった。
―――松本良順先生といって、幕府にも貢献してらっしゃらる方
沖田が京を発つ前、彼からの言付けを預かってきたといった、雪村千鶴の言葉。
傷を負った沖田は、松本良順という医師に看てもらうのだと言っていた。ならば、その医師のもとに沖田はいるのではなかろうか。なによりここは幕府のお膝元、江戸の町なのだから。
「あんたもたいした根性だな。京からたったひとりで江戸までやってくるなんて」
部屋を出ていった松本良順が再び姿を現した。その手には盆を持っており、上には膳が載せられている。
「これ以上患者が増えても手に終えんからな。飯はしっかり食べなさい」
運んできた膳を唄月の前に置きながら、松本良順は言う。
えらいおおきに。礼を述べて、唄月は膳に手をつけた。
唄月が松本良順のもとにたどり着いたのは、つい先日のことだった。
江戸の町を方々歩きながら、人に出会っては松本良順のことを訊ねた。
どれだけの人数に訊ねたのかわからない。返ってくる返答が「知らない」ばかりで、唄月自身が諦め始めた頃にようやく、松本良順のことを知っているという人間にたどり着いたのだ。
「・・・・ん・・・」
気が付いた時、唄月は身体を横にしていた。松本良順から出された膳を平らげたあとに睡魔に襲われ、そのまま深く眠ってしまったらしい。
身体は暖かく、気持ちが良い。このまま微睡んでいたくなるような、そんな心地好さだ。
「おはよう、唄月ちゃん」
頭上から声が降ってきて、唄月は寝返りをうつ。
唄月の視界に映るのは、沖田の顔だった。自分の顔を覗き込み、微笑んでいる。
沖田の膝を枕にして寝入ってしまっていたらしい。状況を理解した唄月は、大慌てで身体を起こした。
「すんまへんどした・・・いつのまにか眠ってしもて・・・」
「もう起きちゃうの?唄月ちゃんの寝顔可愛かったから、もう少し見ていたかったんだけどな」
飄々と自分を戸惑わせる台詞を吐き出す沖田。それは自分がよく知る沖田そのもので、唄月は安堵する。
「沖田はんは起きてて平気おすか?休まれたほうが・・・」
「平気だよ。傷はだいぶよくなったから」
「・・・よかった・・・」
ふっと息を漏らす唄月。そんな彼女の様子を見詰める沖田。
暫しの沈黙。
沖田と見詰め合っていると、唄月の胸が高鳴る。逢いたいと願った沖田が、今、目の前にいる。その事実が、唄月の胸を高鳴らせたのだ。
「唄月ちゃん」
「へえ」
「今、とても君を抱き締めたいんだけど」
「え・・・」
「いい?」
「そんなん・・・」
聞かれても、困る。
そう言葉にするより前に、唄月は沖田の腕のなかにおさまっていた。
「松本先生に聞いたよ。君が僕に会う為に、京から江戸まで来てくれたこと」
耳元で優しく響く沖田の声。
唄月は沖田の背中に腕をまわした。
伝わる温もりが、とても嬉しい。
「君に会えて、凄く嬉しい。もう二度と会えないって、そう思ってたから」
「わても、嬉しい。沖田はんに会いたかったさかい」
「・・・・うん」
「・・・あの女子はんから言付け聞きました。どないして・・・あないな・・・」
「・・・・・」
「沖田はん・・・?」
沖田はその腕からそっと、唄月を解放する。
すぐ傍にある沖田の顔を、唄月はじっと見詰めた。
「唄月ちゃんが会いに来てくれたのは、すごく嬉しい」
「・・・・・」
「でも、君は京に帰るんだ」
「・・・え・・・?」
「帰って」
冷たい瞳だ。
沖田と視線を合わせながら、唄月は思った。
「・・・なんでそないなこと言うん・・?」
「・・・新選組のみんなが今何処にいるか知ってる?」
「へえ。会津に向かってると聞いとります。戦いを続けるために」
「・・・近藤さんのことも?」
沖田の声は落ち着いていたが、瞳は僅かに揺れていた。
隠しきれぬ動揺が、唄月の胸を締め付ける。
それは、松本良順から聞かされた話だった。
江戸にて無血開城をした幕府。新選組は新政府軍に抗うことを止めず、佐幕派の会津藩に戦力を求めるつもりで北上した。しかしその途中、流山の地で近藤が新政府軍に投降したというのだ。
「僕はこれから土方さんたちを追う。近藤さんになにがあったのか知りたいから」
「へえ」
「僕じゃ君を幸せにしてあげられない。・・・僕は最後まで、近藤さんの刀でいたいから」
死ぬことを厭わないのだ。
この男は、刀としてあるために死ぬことさえ厭わない。それが、沖田総司というひとの生きる術。
「・・・沖田はんの言わんしはること、よおわかりました。わての幸せを思って、帰れやなんて言うんですやろ」
「・・・・・」
死ぬことを厭わないひとを想うより、他の生き方があるのだと、沖田は言っているのだ。
「嫌や。わてが江戸までひとりやってきたんは、追い返しはるためではおまへんのどす」
「強情だね」
「好きなひとの傍におるためやったら、なんぼ強情になれます」
自分を射ぬく沖田の視線が痛い。それでも、唄月の気持ちは揺るがない。見返す唄月の視線にその想いが込められている。
沖田はふう、と息を吐いた。
「僕は死ぬかもしれない」
「へえ」
「それに、もうただの人間じゃない。羅刹なんだ」
「身体はそうでも、心は沖田はんのまま。そないでっしゃろ?」
沈黙。月明かりが障子越しに忍び込み、室内を淡く照らす。
「・・・僕は唄月ちゃんの笑った顔が好きだよ。怒った顔も可愛いけど。でも、悲しい顔はさせたくないんだ」
「・・・・・」
「このまま一緒にいても、僕は必ず君を悲しませることになる」
「さかいに、沖田はんのことは忘れて京に戻れと言うんどすな」
「そうだよ」
互いに相手を想っているのは確かなのに、交わることのない気持ち。
切なくて、涙が出そうになるのをぐっと堪え、唄月は言葉を紡いだ。
「・・・人間ではおまへんやなんて沖田はんは言わはるけど、わてだって似たようなもんや・・・」
「・・・・・」
「わては芸妓やったんどす。女子である前に、人間である前に、芸妓やった」
「・・・・・」
「そないわてが変われたんは、沖田はんに出会ったから・・・」
唄月の脳裏によみがえるのは、出会ったばかりの頃の沖田だ。
意思の読めぬ顔をして、自分をはぐらかす沖田。人を殺すことに戸惑いなど見せない、冷たい瞳。
恐ろしい生き物だと思った。刀のように研ぎ澄まされた、冷たいひと。
けれど、彼の心の内にある純粋な想いは、唄月を心を揺さぶった。
「沖田はんは言わはった・・・。新選組の刀として生きるって」
冷たい瞳の裏に潜んでいた、沖田の純粋な想い。
「それは、わてと一緒です。子供の頃から、これしかわての生きる道はあらへん。これ以外に生きていく方法がないと、そない思っとった・・・沖田はんと出会うまでは」
唄月はまっすぐに、沖田を見詰める。
「沖田はんに出会って、初めて芸妓以外の生き方を望んだんどす。沖田はんの傍にいたい・・・ずっと、ずっと」
「・・・唄月ちゃん・・・」
「綺麗な着物も、お客はんからの誉めそやす言葉も、他の芸妓からの敬意も、なんにもいらへんさかい・・・」
沖田はんの傍にいれれば、それで幸せなんや。
唄月の紡いだ言葉がゆっくりと空気に、そして、沖田の心に染み込んでゆく。
「・・・唄月」
沖田に呼ばれ顔を上げる。そこにある眼差しの深さに、唄月は吸い込まれてしまいそうだった。
「京から離れることになった時、もう二度と君に会えないと思った。そんなふうに考えたら、胸がとても痛くなった」
その瞬間を思い出したのだろうか。沖田の顔が苦しそうに歪む。
「唄月が幸せならそれでいいって思った。けど、本当はすごく悲しかったんだ」
「沖田はん・・・」
「新選組の刀であることだけを考えてきた僕が、他者と生きていきたいと思った」
こんな気持ち、初めてなんだよ。沖田が語る言葉が、唄月の心に積もっていく。
唄月は手を伸ばし、沖田の頬に触れる。その手に沖田が自らのそれを重ね、ふたりはじっと見詰めあう。
「わてはこれから、沖田はんのために生きていきます」
誓いをたてるように、唄月は言った。
「さかいに沖田はんも、生きておくれやす」
唄月の真剣な眼差しを受けながら、沖田は小さく頷く。
「僕の命は、君にあげる。僕の命も心も、永遠に君のものだ」
唄月の手を取り、沖田はそれにそっと口付けた。
そのまま唄月を優しく引き寄せ、腕のなかにおさめる。小さく震える唄月の身体を、慈しむように包み込んだ。
*
「それじゃあ行ってくるね」
「へえ」
数日後。沖田の身体の傷も癒えた頃、ふたりは松本良順の隠れ家の前で向き合っていた。
近藤がなぜ投降しなければならなかったのか。なにも知らぬ沖田は、副長である土方のもとへ向かうという。
共に行きたいとせがんだ唄月に、沖田は言った。
―――必ず君のもとに戻るから、待っていてほしい。
「沖田はん」
歩きだそうとした沖田に向かって、唄月は声を掛けた。
なんと言葉にすればよいのか、唄月は迷った。遠くへ行く沖田へ、ひとりで険しい道を行こうとするひとへ、なんと言葉を掛ければその身が軽くなるであろう。
「待っとります・・・沖田はんが戻るまで、ずっと」
切なる願いを込めた唄月の言葉に、沖田は淡い笑みで返した。
「僕と離れるのが、そんなに寂しい?」
聞きなれた、沖田の自分をからかうような台詞。
唄月は深く頷いた。
「・・・えらい寂しい」
唄月の反応が意外だったのか、沖田は目を見開き、やがて困ったように眉尻を下げて笑った。
「そんな可愛いこと言われたら、離れがたくなる」
沖田はそう言いながらも、安全を考え決して同行させてくれないことを、唄月は理解している。
「戻ってきたら、ずっと一緒にいよう。君が嫌だって言っても離してあげないよ」
「そらわての台詞どす」
ふたりは合わせたように笑いを漏らし、沖田は歩みを進めた。
段々遠ざかっていく沖田の背を見詰めながら、唄月は明るい未来の訪れを、強く、強く、願っていた。
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