寒い冬が過ぎ、暖かな春がやってきた。
北の冬は厳しい。京の冬とはまた違った冷たさに、唄月はただただ戸惑うばかりで。厳しい冬が過ぎたことは、唄月にとって喜ばしいことであった。
またひとつ、新たな季節を迎えられたことが、何よりも嬉しい。


「春と言うても夜はまだ冷えます。そろそろ部屋に戻っておくれやす」

縁側に腰を下ろし、月光に照らされた桜を見詰める男の背に向かって、唄月は声を掛けた。

「綺麗な桜だと思って。せっかくだから唄月も一緒にお花見しようよ」

唄月に声を掛けられ、振り返った男―――沖田総司は、微笑みを浮かべていた。
唄月は小さなため息を漏らしながらも沖田の笑みに促され、彼の隣に腰を下ろす。

「夜桜なんて、風流どすなぁ」

まるで京の公卿のようだと、冗談めかした唄月の顔を見ながら、沖田は笑う。

「京が恋しくなったの?」

どことなく漂う悪戯めいた雰囲気に気付きながらも、唄月は素知らぬふりで言葉を続けた。

「わての居場所は総司はんの傍どす 。わてがあんさんの傍にいないことに耐えられへんのは、総司はんが一番よお知っとるはず」

唄月の言葉を聞き、沖田は満足そうに笑う。
このひとの望む言葉へと誘導させられた。そうわかっていても、沖田の顔を見てしまったら、文句など言えなくなってしまう。




明治2年、4月。
唄月と沖田は、人も疎らな北の奥地でひっそりと暮らしていた。
かつて京を震撼させた、悪名高い新選組の幹部。男たちを虜にし、大きく期待されながらも掟を破り突如姿をくらました島原芸妓。そんなふたりが、まるで何かから逃れるように奥地に暮らしている。
当の本人たちは、ただふたりで過ごせる時間を慈しむために他者の手の届かぬ奥地を選んだにすぎなかった。


新選組の行方を追う。そう言った沖田と、江戸にある松本良順の隠れ家で別れてからというもの、唄月は不安な日々を過ごしていた。
今頃、沖田は無事であろうか。いつ戻ってくるのだろうか。その約束は、本当に果たされるのであろうか・・・。
不安に押し潰されそうになるたび、唄月は自らに言い聞かせた。
―――沖田は約束を反故にはしない。必ず、自分のもとに戻ってきてくれる。

不安と信頼の間を往き来しながら、幾ばくかの夜を越え、沖田は唄月のもとに戻ってきた。

新選組は、戦い続けるため北を目指すと、土方は言った。近藤は流山にて投降した後、松本良順らの嘆願も虚しく斬首されている。
近藤のいない新選組で戦い続けることはできなかった。まして自分には、待っているひとがいる。沖田は、そう思ったのだ。

戻ってきた沖田から、見聞きした出来事のすべてをきき終えた唄月は、思わず彼を抱き締めていた。
唄月は、沖田の新選組に対する思いを知っている。
新選組のため、近藤のために刀であろうとした沖田。しかし、彼がそこまで思った近藤は、もういなくなってしまったのだ。
沖田の悲しみ、やるせなさを思うと、唄月の胸は潰れそうなほどに痛んだ。

―――沖田は、生きる意味さえ失ってしまったのではないだろうか。

唄月は、不安になった。
そんな彼女の不安を拭ったのは、沖田自身だった。彼は唄月を抱き締め返し、言った。

『僕はもう、新選組の刀としては生きられない。でも、悲しくはないんだよ』

優しく響く沖田の声に、唄月は彼の顔を覗き込む。

『僕には君がいるから』

沖田の真剣な眼差しを、唄月はその言葉と共に受け止めたのだった。




「どうしたの、唄月

沖田に声を掛けられ、唄月は我に返った。沖田と並んで夜桜を見ていたのに、いつの間にかぼんやりと、思い出の中に耽っていたのだ。
隣に座る沖田は、心ここにあらずといった様子の苗字を、じっと見詰めている。

「なんでもあらしまへん。ただ、ちょっと思い出しただけで」

「何を?」

「・・――戻って来てくれはった総司はんが、わてに言うてくれた言葉」

唄月は甘えるように、頼りきるように、沖田の肩に身体を預けた。
膝の上に載せられた沖田の手に、自らのそれをそっと重ねる。すると、沖田は手繰り寄せるようにして、彼女の手をぎゅっと握った。

沖田が戻り、ふたりはこの北の奥地で暮らすようになった。
艶やかな着物やきらびやかな簪。世話をしてくれる禿や男たちからの思慕のこもった視線。京にいたころ常に側にあったものは何もない、慎ましやかで平凡な暮らし。
だが唄月にとって、今が何よりも幸せであった。
かつて手にしていたものは何もいらない。何よりも大切に思ったものが、傍にあるのだから。


唄月

「へえ」

「君が好きだよ」

月夜に舞う桜を見上げていた沖田が、そっと囁く。
それはとても優しく、切ない響きであった。

「わても、総司はんを好いとります。・・なによりも」

互いの気持ちを確かめあうように、ふたりは言葉を紡ぐ。
唄月の心は深く満たされながら、不意によぎる不安の影に苛まれていた。

かつて沖田が口にした変若水という薬。人間離れした体力と快復力をもたらすその薬の効力は、沖田自身の生命を削ることによってもたらされたものである。
世話になった松本良順から薬の効力について聞かされたのはつい最近の出来事で、その事実を知った唄月は、ただ途方に暮れるばかりであった。

北の奥地に住まうようになり、薬の作用は薄れているのか、血を欲するという羅刹特有の発作は治まっている。
しかし、今までの戦いで沖田が削ってきた生命力までは、きっと癒せない。それは、紛れもない事実なのだ。

限りある命。それも、酷く短いであろう沖田を前にして、唄月は、胸の奥に鈍い痛みを覚えた。
沖田のために、なにができるだろう。唄月は悩み、苦しんだ。
そんな彼女の不安な心を、沖田は見逃さなかった。

不安定に揺れる心を抱えた唄月に向けて、沖田はいつもと変わらぬ微笑みを浮かべた。優しく、愛情の籠った瞳で彼女を見詰める。
唄月は沖田の愛情を受け止めながら、思うのだった。
自分にできることは、沖田を愛し続けることだけなのだ、と。



「不思議どすなぁ」

唄月の隣に座る沖田が、不意に言葉を紡ぐ。

「何が?」

「桜は昼間に見ると儚げなのに、夜にみると力強く見えるんどす」

唄月の視線は月に照らされた桜に向けられている。沖田は彼女に倣うようにして、花弁を散らす桜を見詰めた。
青白い月明かりに照らされた桜は、自分たちを見守るような、励ましているような。唄月には、そんな風に感じられたのだ。


「ほんまに綺麗・・・」

「確かに桜もいいけど・・・でも、僕には唄月の方が綺麗に見える」

独り言のように呟いた唄月の声を聞き、沖田は言う。
また自分をからかっているのだろうか。唄月は恥ずかしさを堪えながら、隣の沖田の顔を見た。
彼の瞳のなかに宿る優しさと愛情の色と優しい頬笑みが浮かんでいるのを見て、唄月の心臓が大きく跳ねる。

「またそないに、わてをおちょくるるんどすな」

「からかってるわけじゃないよ。本当にそう思ってるんだから」

「・・・・」

「日の下の桜よりも綺麗で、月明かりの下の桜よりも、強くて誇り高い。君は初めて出逢った頃から、そういう女の子だった」

唄月と視線を合わせて、沖田は微笑んだ。
沖田が自分に向ける瞳の中に、深い愛情がこもっている。唄月はそのことに気付いて、視線を逸らすことができない。

「そんな君だから・・・強くて優しい唄月だから、僕は君を好きになったんだ」

沖田の真っ直ぐな瞳のなかに、自分の姿があるのを、唄月は認めた。

「愛してるよ。・・・どれだけ時間が流れても、たとえ、僕が君の傍にいられなくってしまっても」

僕の全ては、君のものだから。
そう言った沖田に、唄月は深く頷く。


「―――総司はん」

「ん?」

「わては、ずっと芸妓として生きてきました。それ以外の生き方はないと思っとった。それが、自分にとって一番の道やと」

「うん」

「せやけど、総司はんに出逢ってはじめて、ちゃう生き方を望んだ。総司はんと一緒に生きたいって」

「・・・唄月・・・」

「それがわてにとって、なにより幸せなことやと思った・・・。さかいにわては、今こうしていられることがなにより幸せ」

「・・・・・」

「いつの日かふたりが離れてまうことになっても、わてはずっと、総司はんと一緒におります。総司はんのために、生きます」

唄月が沖田を見詰めるその視線は、強い意思のこもった眼差しだった。
沖田は口許に淡い笑みを浮かべて言った。ありがとう、と。

沖田の声が散りゆく桜の花弁に紛れてしまった頃、ふたりは唇を重ねていた。
誓いをたてるようなふたりの口付けを見守っていた桜の木々が風に揺れ、美しい花弁を一斉に散らした。






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