「‘唄月’。これが今日からあんたの名や」
菊乃屋に引き取られたその日に、女将は幼い唄月にそう言った。
「今までのあんたの名は捨てなあかん。これからは島原の芸妓として、唄月として生きるんえ」
真剣な顔でそう言った女将の言葉に、唄月は幼いながらもこれから自分が生きていかねばならぬ世界の厳しさを垣間見た気がした。
*
このところ日のある時間も大分短くなってきたものだ。夜になれば座敷に上がり、昼間は歌や舞等の稽古に勤しむ唄月は、この日お茶の手解きを受け、菊乃屋への帰り道に本格的な秋の訪れを感じていた。
緑から紅へと色を変えようとする木々を眺めながら歩く唄月。彼女の足は菊乃屋ではなく、とある寺へと向かっていた。
寺の前までやってきた唄月は、敷地内をぐるりと見渡す。そこはがらんと静まり返っていて、ひとっこひとり見当たらない。
『遊びたくなったらいつでもおいで』
壬生浪士組の座敷に上がった夜に再会した沖田の言った台詞が唄月の脳裏を過る。
そう、この寺は唄月が初めて沖田という男と出会った場所だった。
子供たちと遊ぶ沖田と、それを見ていた唄月。
羨ましそうな顔をしていたと、そう言った沖田。
だが唄月は遊びたくなったからこの寺に足を運んだ訳ではない。
壬生浪士組の座敷に上がった翌日に桜田太夫から聞かされた話が唄月の頭から離れなかった。
桜田は彼ら壬生狼士組が、彼らの仲間であるはずの芹沢鴨を暗殺し、その場にたまたま居合わせただけの芹沢の女も斬り殺したのだと唄月に語った。
唄月は、それが俄かには信じられなかった。あんなに楽しそうに酒を煽っていた男たちが、子供らと楽しそうに遊び、自分に微笑みかけた沖田が仲間を暗殺するなどと、現実味がなかったのだ。
だから唄月は、それを確かめにこの寺にやってきた。沖田自身にそれを問うてみたいと思ったのだ。
勿論それは、壬生浪士組などという恐ろしい集団に身を置く沖田への好意でもなんでもない。
人の生死などどこか遠くに感じる唄月の、若さ故の好奇心だった。
しかし静まり返った寺は唄月に何の返答をくれる訳でもない。
『いつでもおいで』などと言われたものだから、この寺にくれば当然沖田がいるものだと思っていた唄月は、自分でも気付かなかった幼さに一人苦笑いを洩らした。
「何してるの?」
そろそろ戻って座敷に上がる支度をせねば。そう思った唄月は、不意に背後から掛けられた声にビクリと体を揺らした。
恐る恐る振り向けば、そこには浅葱色の羽織を纏った男がいた。
「・・沖田はん」
「こんにちは、唄月ちゃん」
面食らった唄月を見て、沖田は機嫌良さそうににこにこ笑う。
「・・・今日は子供らもおらへんし、えらい静かや思うとったんどす」
「もうすぐ日も暮れるから。みんな帰っちゃったんじゃないかな」
言いながら寺の境内に目をやる沖田。
静かになった寺の境内が紅く染まるその様を慈しんでいる様だと、唄月にはそう見えた。
途切れた会話は紡がれること無く、沈黙が訪れる。
唄月には沖田に問いたい事があるのだが、『人を殺したのか?』などと不躾に聞いてしまうほど彼女は思慮浅くはない。
「ねぇ、どうしてこんなとこに来たの?」
話を切り出すか否か思案していた唄月に声を掛けたのは沖田だった。
沈黙が破られ、本題を切り出すべく口を開こうとした唄月よりも早く、沖田は続けた。
「遊びたくなった?それとも、僕に会いたくなった?」
口元に微笑みを称えたまま、沖田はわざわざ顔を近付けて唄月の顔を覗き込む。
そんな沖田の行動に、唄月は自分の顔がカッと熱を持つのを感じた。
芸妓として男の視線を浴びる事に慣れているはずだが、化粧を落とした素顔をこんな至近距離で見つめられたのは初めてだったからなのだと、唄月は自分のうぶな反応への言い訳を頭の中に巡らせた。
沖田は沖田で、唄月の反応を見て愉快そうに肩を揺らす。
「・・・いけずやわ沖田はん。そない笑わんといておくれやす」
拗ねた様に頬を膨らませる唄月の子供っぽい反応に、沖田は益々上機嫌に笑う。
沖田が自分を子供だと、そう思っている事が悔しい唄月は、取り繕う様に別の話題を振った。
「その浅葱色の羽織・・・壬生浪士組の隊服どすか?」
「そうだよ。今日は僕らが巡察の当番だったから」
ああ、そういえば。沖田はふと思い出した様に呟いた。
「僕ら、壬生浪士組じゃなくなったんだ」
「・・・・・?」
「‘新選組’っていう名前になったんだよ」
壬生狼って言われるの、結構気に入ってたんだけどな。沖田は笑ってそう言った。
『壬生狼』などという呼び方は、彼ら壬生浪士組を恐れ、そして浪士集団であることを皮肉った京の人々の、謂わば陰口であった。
それを気に入っていた等と言う沖田の心境は、唄月には理解出来ない。
「近藤さん凄く喜んでたんだ。『会津公から立派な名を頂いた』ってね」
沖田はそう言って、遠くの方へ目を向けた。
唄月から見るその顔は、ひどく優しい。
沖田はきっと、‘新選組’という名を歓ぶ近藤の顔を思い出しているのだろうと、唄月は思った。
沖田の優しい顔から彼が近藤を慕っていることは、沖田や近藤の事などよく知らない唄月でもわかった。
「偉い人から新しい名貰うやなんて、そら沖田はんもさぞ嬉しかったんどすやろ?」
唄月が問い掛けると、沖田の顔から先程まで浮かんでいた優しさがそっと影を潜めた。
「近藤さんが喜んでたのは嬉しいけど、僕はどんな名前だろうと、誰から貰った名前だろうと、どうだっていいんだ」
沖田は唄月を見る。
その瞳の中にある確固たる信念を、唄月には読み取れない。
「僕らの名前が壬生浪士組だろうが新選組だろうが、僕がやる事は変わらない。僕らがどんな名前になろうと、僕は僕のやらなきゃならいことをやるだけだから」
そう言った沖田の言葉に、唄月は菊乃屋に引き取られたばかりの頃の事を思い出した。
島原で生きていく事を強いられたあの日、与えられたのは新しい名前だった。親に貰った名前を、それまでの自分を捨て、唄月という島原の女として生きろと、女将は厳しい目で言った。
幼くして親を亡くし、縁者をたらい回しにされ、虐げられた彼女は、常に死が隣り合わせだった。それ故生きることへの貪欲さを、その幼さには釣り合わぬ程持ち合わせていた。
だから、新しい名を与えられた日、感傷に浸るような事は無かった。
唄月は決めていたからだ。親に貰った名前を捨てようと、島原という厳しい世界に身を置こうとも、生き抜いてみせる、と。
「・・・わても、沖田はんと同じどす」
呟く様に、唄月は言う。
「どないな名になろうと、わてはわてのやらなあかん事をやるだけどす」
ただ、生き抜くのみ。
唄月は歌でも歌うように穏やかに言った。
そんな唄月の瞳に確固たる信念が浮かんでいるのを、彼女は気付かない。
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