トントントン―――。
お母さんが夕食の支度をしている。わたしはこの音が好きだ。リズミカルに、包丁がまな板を叩く音。
お母さんの作る料理も好きだ。調味料を使いすぎない、やさしい味。食べると身体がぽかぽか暖かくなる味。


「ごはんできたわよ」

お母さんの声が聞こえる。この声を合図にして、わたしは夕食に使う食器をテーブルの上に並べる。
いつのまにかできていた、習慣のひとつ。



「おかあさん、わたしね、好きな人ができたの」

夕食後、わたしとお母さんはお茶を飲む。これも、習慣だ。

わたしはお母さんに秘密をつくらない。もし秘密を持ったとしても、きっと、お母さんには見抜かれてしまうだろう。
お母さんはわたしの『秘密の告白』を聞くと、少し驚いたように目を見開いて、それからすぐに優しい笑みを浮かべた。


「どんな子なの?」

「アカデミーで同じクラスの子なんだけどね、優しくて、笑うと素敵なの」

お母さんが頷くと揺れるさらさらの髪の毛を見詰めながら、わたしは彼の姿を思い出す。

「・・・でも、時々寂しそうな顔をする子」

わたしが言うと、お母さんは笑った。優しく、憂いのある瞳。

「やっぱり親子ね」

お母さんの言葉に「どうして?」と聞き返す。
お母さんは言う。おとうさんも寂しそうな人だったのよ、と。

「おとうさんが?」

「ええ」

わたしには想像できない。
お父さんは、わたしの前ではいつだって優しく笑っていた。全然寂しそうじゃなかったから。


「ねぇ、おとうさんとおかあさんのこと、聞かせて」

お母さんは少し困った顔をした。
少しの間をおいて、「じゃあ少しだけね」と、穏やかな声で言う。
ふたりきりの家のリビングで紡がれる、お父さんとお母さんの、ふたりだけの、恋の話。


*


お父さんとお母さんが出逢った時、ふたりともまだ若かったのだそうだ。
ふたりが出逢ったのは、任務の最中だった。

諜報活動を命じられていたお母さんは、とある国の政治機関に潜入していた。しかし潜入して数週間後、スパイであることが露見してしまった。
お母さんは捕らえられ、拷問を受けた。
辛かったけれど、お母さんは耐えた。絶対に仲間が助けにきてくれるとわかっていたからだ、という。

捕らえられてから数日後。お母さんが信じた通り、木ノ葉から救出部隊がやってきた。
お母さんが閉じ込められていた部屋には見張りの忍が何人かいたけれど、救出部隊の隊員は、たったひとりで彼らを倒し、勢いよくドアを開けた。

犬の面を着けた、銀色の髪の忍。
彼の姿を見た途端、うっかり泣いてしまいそうになったのだと、お母さんは言う。




「もしかしたらあの時すでに、恋に落ちてたのかもしれないわね」

昔を思い出しながら、お母さんは言った。

「でも、その時はまだ知らないひとだったんでしょう?」

「ええ」

「しかも、面を付けてた」

「そう。顔は見えなかったわ」

「だったら、恋に落ちるなんて変よ」

「そうかしら」

でもね、私と視線が合った時、おとうさんが面の奥で優しく目を細めたの。私は、それをちゃんと見ていたのよ。
お母さんは、わたしがちょっとドキドキしてしまうくらい真っ直ぐな瞳をして、そう言った。




里に戻ったお母さんは、傷が充分に癒えると再び任務に出るようになった。

前の任務で助けてくれたひとのことは忘れていなかったし、胸の奥にあったけれど、忙しい日常を送るうちに思い出すこともなくなっていった。
もともと正規部隊と暗殺部隊という、接点のないふたりだったのだ。そう簡単に再会するはずもない。お母さんは、そう思っていた。


ある日、三代目火影に呼ばれ、お母さんは火影邸へ向かった。
任務の依頼だった。他国の重要人物の護衛任務。


『今回はツーマンセル任務だが――』

火影様がそう言った瞬間、部屋のドアがノックされた。
お母さんは振り返る。開いたドアから姿を表したのは、銀色の髪の忍だった。

ああ、このひとは―――。
お母さんは、すぐにわかったという。あの時、自分を助けてくれたひとだと。

『このはたけカカシと共に任務へ出てもらう』

はたけカカシ。
お母さんは、この名前を頭の中で何度も繰り返した。


ミドリです。よろしくお願いします』

お父さんは、もう犬の面を着けてはいなかった。
正規部隊員の忍服を着て、口元はマスクで隠し、左目を額宛で覆っていた。ポケットに両手を入れて、少しだけ猫背気味。
目は初めて会った時と同じように、優しく細められた。

『よろしくね、ミドリ

お父さんに名前を呼ばれただけで、お母さんの心臓はドキドキした。
低い声が、とても心地好かった。




「おかあさんはおとうさんの声が好きなのね」

「ふふ、そうね」

「あと、笑顔も」

「ええ」

あなたはどう?
お母さんにそう問われ、わたしはお父さんの笑顔を思い出す。

「わたしも、おとうさんの笑った顔、好き」

わたしが言うと、お母さんは満足そうに微笑んだ。




お母さんはお父さんと初めての任務に出ることになった。ふたりきりの、初めての任務。
集合場所は木ノ葉の正門だった。集合時間は朝7時。
けれどお父さんは、1時間近く遅れて集合場所に現れた。お母さんは、少し呆れてしまった。

他国へ向かう道すがら、お母さんとお父さんは必要最低限の会話しか交わさなかった。
国の情況や護衛対象の人となり。非常時・緊急時の対処方など、任務に関わる話ばかりだったという。
あまりお喋りを好まないひとなのかな。お母さんはそう思った。

お父さんの纏っている雰囲気は穏やかで、任務に向かう途中だというのに張つめた緊張感はなく、お母さんも良い精神状態で任務に臨むことができた。
お父さんは冷静で、忍としての経験も豊か。リーダーシップもあって、とても頼もしかったから、お母さんに不安はなかった。

滞りなく遂行される任務の一方で、お母さんはずっともやもやしていたのだという。

お母さんは、お礼が言いたかった。
あの時は助けてくれてありがとう、と。たった一言、言いたかった。
たった一言なのに、お母さんは言えなかった。任務が終わるまで、ずっと。




「最後まで言えなかったの?」

「そう。里に戻ってからも言えなかったわ。報告を終えて、火影邸の門の前でおとうさんと別れるまで。ずっと気にかかっていたのにね」

わたしにとって、それは意外だった。
お母さんはいつだって、誰に対しても「ありがとう」や「ごめんなさい」を素直に言えるひとだ。少なくとも、わたしの目には、そう見えていたから。

「どうして言わなかったの?」

わたしが問い掛けると、お母さんは目を少し伏せる(これは考え事をする時のお母さんの癖だ)。
少しの間をとって、お母さんは視線を上げた。

「・・・壊れてしまうものがあったからかもしれないわね」

「壊れてしまうもの?」

首を傾げながら、じっとお母さんの瞳を覗き込んだ。
お母さんは、なぜだか少し申し訳なさそうな顔をした。

「おとうさんと再会した時、おかあさんには恋人がいたのよ」

お母さんの台詞と、壁に掛けた時計の鳴る音が重なった。
お母さんは、「もうこんな時間なのね」と言って、テーブルに載ったふたつのマグカップを手に立ち上がる。

「もう寝る時間よ」

水道の蛇口から勢いよく水が出てくる音がする。
椅子から下りて、キッチンでマグカップを洗うお母さんに「おやすみなさい」と告げた。

「おやすみ」

お母さんは優しく笑う。
お父さんさんの笑顔と同じくらいに、わたしが好きなお母さんの笑顔だ。


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