おかあさん、きれいだね。
友達にそう言われると、わたしは嬉しい。
わたしのお母さんはきれいだ。わたしもそう思っているから、他のひとに認められると、とても嬉しい。


「おかあさん」

「なあに?」

お母さんは、野菜を見詰めている。色とりどりの野菜たちが並んだ、八百屋さんの店先で。

「なんでもない」

「そう?」

お母さんは、再び野菜選びに戻った。
今夜の食卓に並ぶ夕食の材料たちが、お母さんが提げている袋の中に詰まっている。

真剣な横顔もきれいなお母さんを見詰めながら、わたしは考える。わたしが生まれる前のお母さんを。
考えると、とても不思議な気持ちになる。
わたしはお母さんをよく知っているのに、知らないお母さんがたくさんあるのだ。

わたしが知っているお母さん。
わたしの話を聞く時、口角を持ち上げて、柔らかい笑みを浮かべる。
おとうさんの話をする時、瞳をきらきらさせる。
そして言うのだ。おとうさんがいない今だから言えるんだけどね、と。

―――おとうさんさんがいない今だから言えるんだけどね、あなたが赤ん坊だった頃、いつもあなたの傍にいたのよ。

いつだったか、お母さんが教えてくれた。
わたしの知らない(覚えていないというべきかな)、お父さんの話。

―――ベビーベッドで眠るあなたの傍で、ずっと本を読んでた。時々顔を上げて、あなたの寝顔を見ては微笑んでいた。

お母さんは思い出しながら、ゆっくりと言葉にした。口元に、笑みを浮かべて。



「おかあさんには恋人がいたのに、おとうさんを好きになったの?」

八百屋さんで買い物を済ませて、わたしとお母さんは家路についた。
昨日の夜聞いた、わたしの知らないお父さんとお母さんの、恋の話。問い掛けると、お母さんは困った顔をする。そして、少し目を伏せる。

「・・・おとうさんと再会した時私には恋人がいて、おとうさんに対して感じたときめきは恋じゃないと思った」

「恋じゃなかったの?」

「おとうさんは優秀な忍だから憧れてるだけ。当時はそう思ったけれど、今思えばあの時すでに、私はおとうさんを好きだった」

「・・・なんだか複雑ね」

お母さんは、そうね、と言った。
恋って単純なのに、どこかで複雑になるのね、と。


*


お母さんとお父さんは再会して以来、時々顔を合わせるようになった。里の通りの一角で、待機所で。時には同じ任務に就くこともあったそうだ。
顔を合わせるたび、ふたりは言葉を交わした。合う回数が増えるたびに、交わす言葉も増えていく。


『怪我したんだって?』

任務中、お母さんは怪我をした。単独任務でのことだった。
怪我を負ったことは、火影様以外には誰にも言わなかった。当時付き合っていた恋人にさえも。
それなのにお父さんはどこから聞いてきたのか、お母さんの怪我を知っていた。

『どうして知ってるの?私が怪我したこと』

『どうしてだろうね』

『・・・三代目に聞いたのね?』

『三代目も心配してるんだよ。ミドリが無理してるんじゃないかってね』

『無理なんかしてないわ』

『本当に?』

『もちろん』

『じゃあ、コレは?』

お父さんは、お母さんの右腕を握った。ぎゅっと、ほんの少し力を込めて。

『―――っつ!』

お父さんの握ったお母さんの右腕は、敵の忍術を受け、深い傷を負っていた。

『この腕で次の任務に出るつもり?』

『他に動ける忍はいないっていうし、任務に出れるのは私くらいしか・・・』

『あのねぇ・・・火影様がミドリに任務を与えたのは、お前の怪我は軽傷だっていう報告を受けたからなんだよ』

『ええ、軽傷だもの』

お父さんは、ため息を吐いた。それはそれは、深いため息を。

『偽証報告なんじゃない?この腕、クナイも的に当てられないんじゃないの』

『それは・・・』

言い淀むお母さんと、厳しい目をしたお父さん。ふたりは暫しの間、無言で睨み合っていた。
やがて、お父さんはお母さんの腕を解放する。

『次の任務、オレが行くよ』

『え?』

『そんな腕で任務に出ても、危ないだけでしょ』

『でも・・・カカシだって、任務明けで戻ってきたばかりでしょう?』

『平気だよ。チャクラも残ってるしね』

『・・・・・』

『ま、お前はオレが任務に行ってる間、その怪我をちゃんと治しておいてちょーだい』

お父さんは笑った。優しい微笑みだった。
お母さんは、遠ざかっていくお父さんの背中を見ていることしかできなかった。




「じゃあ、また言いそびれちゃったの。ありがとう、って」

「そうね、言いそびれちゃったのね」

昔は少しだけ意地っ張りで、あまり素直じゃなかったの、私。
お母さんは照れ臭そうに言う。

「本当は嬉しかった。おとうさんが私を気に掛けてくれたこと」

「おとうさんは優しいね」

「ええ。だからあなたも優しいわ」

なんたって、おとうさんの子だもの。
お母さんは言いながら、わたしの頭を優しく撫でる。


「それで?」

「それでって?」

「おかあさんの恋人よ。別れたの?」

お母さんは薄く微笑んで、首を横に振る。
わたしはなんだか、やきもきしてしまう。はやくお父さんと幸せになってくれればいいのに、と。
お母さんが語ってくれる恋の話は過去の出来事で、わたしがやきもきしてもどうしようもないのに。




お母さんに恋人がいることを、お父さんは知っていたのだという。

お母さんの恋人は忍で、強く真っ直ぐなひとだったのだそうだ。
お父さんも、お母さんの恋人とは知り合いだった。お母さんと顔を合わせては、アイツは元気?、なんて聞いてきたらしい。
聞かれるたびに、お母さんは笑みを浮かべて答えた。元気よ、と。
お父さんはお母さんの表情を見て、優しく笑って言うのだ。ならよかった、と。

お父さんは優しいひとだ。お母さんにも、里の仲間にも。
お母さんは、お父さんの笑った顔が好きだった。昔から。
お父さんに優しくされると、とても嬉しかった。


『お前は自分を省みずに無茶をするから心配だよ』

ある日、お父さんはそう言った。
お母さんには、言われたことがいまいちわからなかった。無茶をしてるつもりなんて、これっぽちもなかったから。

『そういうところが心配なんだよ』

ま、それもミドリのいいところなんだけどね。
お父さんは、ぽん、とお母さんの頭に手を伸せた。
お父さんの手は、大きく、暖かかった。

『それは私じゃなくて、カカシのことだわ』

お父さんの手が離れると同時、お母さんは言った。

『オレ?』

『そうよ。仲間の為に無茶をする。自分の命さえも省みない』

私は、カカシのそういうところが心配。
お母さんが言うと、お父さんは優しく目を細めた。

『お前はオレのことなんて心配しなくていいんだよ』

お母さんは、悲しくなった。胸が詰まってしまいそうなくらい。
お父さんとお母さん、ふたりの世界が交わらない気がした。
お父さんがとても、寂しそうに見えた。


『・・・・優しいのね、カカシ』

その時のお母さんには、そう言うのが精一杯だった。

『優しい・・・ね』

『ええ。私に・・・みんなに。カカシは優しい』

お父さんはちょっと視線を外して、それからまた、お母さんの目を見た。

『誰にでも優しいわけじゃない』

お父さんの目は真剣だった。お母さんは、お父さんの瞳に吸い込まれてしまうような気がした。

ミドリだけは、特別なんだよ』

そう言ってから、お父さんは少し目を見開く。
自分が口にした台詞に対して、自分自身が驚いた。そんな表情をしていた。

『・・・なーんてね。じょーだん』

次の瞬間にはもう、いつものお父さんだった。にこりと優しく笑う、いつものお父さん。
お父さんがそんな冗談を言うようなひとではないことを、お母さんはとっくに知っていた。

お母さんはこの時、自分の心がさらわれてしまっていることに気付いた。
もう、誤魔化しも効かない。
ただの憧れではない気持ちが胸の中にあることを、お母さんは、気付いてしまった。




「・・・お父さんは、お母さんに恋人がいても好きだったんだ」

はぁ。深い息と一緒にわたしの口から溢れた言葉。
お母さんは薄く微笑んで、ゆっくりと頷く。

「お父さんにとって、お母さんはそれだけ魅力的だったってことね」

「どうかしら」

そう言ったお母さんの声が、ほんのり弾んで聞こえる。


「・・・お父さんに会いたいな」

お父さんに会って、聞いてみたい。
お母さんのどこを好きになったの?いつから惹かれていたの?
お父さんも、心をさらわれてしまったの?

「めずらしいわね。あなたがそんな風に言うなんて」

お母さんがそう言ったのは、わたしが滅多に「お父さんに会いたい」と口にすることがないからだ。
会いたいと思った時、それはいつだって叶わない。それならばはじめから言葉にしない方がいい。淋しくなってしまうから。
お母さんだって、そうなんでしょう?


「ねぇ、鍵を開をあけて」

気が付けば、家はもう目の前だった。
お母さんと買い物にいった時、鍵の開閉はわたしの役目だ。
鍵を差し込んでドアを開く。誰もいない家の中はとても静かだ。
どことなく、よそよそしいくらいに。


「入らないの?」

わたしの背中にそっと手を添えて、お母さんは言った。
お母さんの手に促されて、わたしは一歩足を踏み出す。

よかった。
わたしは、ひとりぼっちではない。


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