アカデミーで行われた、クナイ練習でのことだった。
他の子たちがクナイを放ることに苦戦するなか、ただひとりわたしだけが与えられたクナイの全てを的の中心に収めた。
その時の先生の台詞。
―――さすがだなぁ。
アカデミーに入学する前から、そう言われることがあった。
公園で体術の練習をしていた時、ふいに通りかかった近所のひとに。
荷物を沢山抱えて、道端で立ち往生していたおばあちゃんを家まで送ってあげたときに。
―――さすがカカシさんのお嬢さんね、と。
言われるたび、わたしはくすぐったい気持ちになった。
嬉しかったのだ。
里の誰もが認める、優秀な忍であるお父さんに、近付いている気がしたから。
「・・わたし、おかあさんみたいな髪がよかったな」
昼下がり、お母さんは毎日庭に水を撒く。
ホースから放たれる水が太陽の光の下で、きらきらしている。
お母さんの髪も、きらきらしている。さらさら揺れる、暖かそうな髪。
わたしの髪は銀色で、お母さんの髪は落ち着いた色をしている。クセの強いわたしの髪とは対照的に、お母さんの髪はまっすぐだ。
「私はあなたの髪の方が好きだけど」
「・・・お父さんの髪だから?」
「そうね。それもあるけど、その髪はあなたによく似合ってるから。羨ましいくらいに」
私はおとうさんと同じ髪に憧れたのよ。だから、とても似合うあなたが羨ましいわ。
水撒きホースを手にしたまま、お母さんは言う。
草花についた水滴が太陽の光をうけて、きらきら輝いている。
「・・・おかあさんはおとうさんに恋をした」
「ええ」
「おとうさんも、おかあさんに恋をした」
「そうよ」
「ふたりは恋人同士になった?」
お母さんは黙ってしまった。
わたしが見ると、お母さんは少し切なそうな顔をしていた。
*
心をさらわれてしまったお母さんは、恋人と別れることを決めた。
恋人のことを嫌いになってしまったわけではなかった。だから、辛かったという。
恋人を傷付けてしまうことは明らかだった。
お母さんの胸は痛んだ。
恋人を傷付けてしまうことも、自分の胸が痛むことも、辛かった。
それでもお父さんの姿を思い浮かべるだけで、ときめいてしまうから。
お母さんは、恋人と別れることを決めたのだ。
「私の一番の我が儘だったかもしれないわね」
お母さんは苦っぽい笑いを浮かべながら言う。
「恋人のことが嫌いじゃなかったのなら、おかあさんの胸が痛んだのなら・・・おとうさんへの恋はなかったことにして、恋人と一緒にいることもできたんじゃないの?」
わたしが言うと、お母さんは大きく目を見開いた。
「・・・驚いた。随分ませたこと言うのね」
「一般論よ」
わたしの言い方が可笑しかったのか、お母さんはクスクスと笑いを漏らす。
そんなこと、どこで覚えてくるの?そう言いながら、お母さんは笑う。
「確かにあなたの言うとおり、なかったことにしてしまうのが一番よかったのかもしれないわね」
「・・・・」
「おとうさんも、それを望んでいた」
「えっ―――?」
思わず声を上げてしまったわたしの頭を、お母さんは優しく撫でる。
お母さんが恋人と別れることを決めた時、お母さんの恋人は任務に出ていた。数ヵ月に及ぶ、長い任務。
恋人が不在の中で過ごす日々は、とても長く感じたという。
次に恋人と会う時、お母さんは別れを告げる。お母さんが笑顔で、おかえり、と出迎えてくれることを信じて疑わない恋人に。
恋人のいない里の中で、お母さんは悲しくなった。
お父さんが、お母さんを避けていたのだ。
『・・・アイツ、今任務に出てるんだって?』
不用意に顔を合わせることのない日々が続くなか、その日は任務の手続きの為に訪れた待機所で、たまたまお父さんとふたりきりだった。
次に赴く任務の話や、仲間の近況を言葉少なに交わした。
会話が途切れて、心もとない沈黙がやってくる。沈黙を先に破ったのは、お父さんの方だった。
『・・・もうすぐ戻ってくる予定よ』
『そうか。楽しみでしょ、ミドリ』
お母さんは悲しくなった。
お父さんが浮かべる笑顔に、嘘はなかったから。
『ええ、とても』
お母さんは笑った。嬉しそうに。お父さんにそう見えるよう祈りながら、懸命に笑った。
お母さんの笑顔を見て、お父さんは目を細めた。お母さんの好きな、お父さんの優しい微笑み。
恋人と別れることを、お母さんはお父さんに言えなかった。
お父さんは、お母さんと恋人が別れることを望んでいなかったから。
お母さんが悲しんだり苦しまないことが、お父さんの望みだったから。
お父さんは優しいひとだ。
優しくて、とても寂しい。
お母さんは、お父さんの幸せを願った。
幸せにしてもらうことよりも、幸せになってもらうことのほうが難しい。
「おとうさんを幸せにしたかったのね、おかあさんは」
「幸せにしたかった・・・というより、おとうさんの幸せが私の幸せだと思った。そんな風に思ったのは、生まれて初めてだったのよ」
庭に咲いた花を摘み取って、お母さんは花瓶に生ける。派手さのない素朴な花たちは、優しくて強い。
どことなく、お母さんに似ている気がした。
「だから恋人と別れたのね。おとうさんを幸せにするために。おかあさんの幸せのために」
わたしが言うとお母さんは悲しそうに笑って、首を横に振る。
「別れることを決めた理由は、そうね。おとうさんを幸せにしたかったからだわ。でも、実際の別れは違ったの」
お母さんの恋人は帰ってきた。
無言で。もう二度と目の覚めることのないお母さんの恋人は、共に任務に出た仲間たちに抱えられて帰ってきた。
任務中敵の忍と戦闘になった折、お母さんの恋人は勇敢に闘い、その命を尽くした。忍として、立派な最後だったという。
恋人が里に戻ってきてからお墓での眠りにつくまで、お母さんは涙を流さなかった。
泣いてはいけないと思った。
泣いてしまうのは、ずるいことだと思った。
恋人が亡くなってからというもの、お母さんはふとした瞬間に恋人の存在を感じた。恋人が好きだった食べ物を見たとき、恋人のお気に入りの場所を訪れた時。
お母さんは考えた。恋人に別れを告げぬまま、永遠に会えなくなったことは、よかったことなのだろうか。きちんと「さよなら」をしていたら、今頃自分は、どんな風に思っていたのだろうか。
『ミドリ』
答えを出せないままで日々を過ごしていたお母さんの前に、お父さんが現れた。
『ちょっと付き合ってくれない?』
お父さんに誘われて、出掛けた先は墓地だった。
誰のお墓にいくのだろう。そう思いながら、お母さんはお父さんの背中を追う。
やがて立ち止まったお父さんの前には、お母さんの恋人のお墓があった。
『・・・どうしてここに?』
『謝っておきたかったんだ、アイツに』
『謝る?』
『ああ』
お父さんの視線は、恋人の墓石に向けられていた。
お父さんは、静かに目を閉じた。
お母さんも、恋人の墓石を見詰める。
『・・彼に何を謝ったのか、教えてくれる?』
『知りたいの?』
『ええ。カカシのことなら、なんでも知りたい』
『・・・それ、口説き文句に聞こえるんだけど』
『口説き文句だもの』
お母さんが言うと、お父さんは目を見開いた。
『・・・彼に謝らなきゃいけないのは、私。カカシが謝る必要なんてないわ』
お父さんは少しだけ、悲しそうな顔をする。
『・・・ごめん』
『――・・え?』
『ミドリを好きになってごめん。・・・そう謝った』
お父さんの瞳が、お母さんを捉える。
次の瞬間にはもう、お母さんはお父さんの腕の中にいた。
『・・・カカシが謝ることなんて、ないのに。彼を傷付けたのは、私なんだから』
お父さんの広い背中に、そっと腕を回す。
『カカシを好きになった。それを彼に伝えることができなかった。・・・私は彼を欺いたままだった』
『アイツは最後までミドリの気持ちを知らなかった。でも、それは不幸なことじゃなかったはずだ。・・・アイツは、お前を想っていれたんだから』
お父さんの腕の中で、お母さんは自分が赦された存在であるような気がした。
「おとうさんは私の苦しみも悲しみも、全部包んでくれた。一緒に抱えてくれた」
「・・・優しいね、おとうさんは」
「そうね」
おとうさんも痛みをたくさん知っていた。だから、優しいの。花瓶に生けた花を指先でそっと撫でながら、お母さんは言う。
その花はお母さんが一番好きな花だ。お父さんがお母さんに初めてプレゼントした、思い出の花。
「ねぇ、おかあさん」
「なあに」
「おとうさんとおかあさんの苦しみや悲しみは、癒えた?」
わたしが問い掛けると、お母さんは優しく笑って言う。あなたも優しいのね、と。
「癒えたのかどうか、わからないわ。だって、忘れられないから」
「・・・そう」
「けれど、忘れずに生きていくことが大事だと思えるようになった。おとうさんとあなたに出逢えたから、そう思えるようになったのよ」
そろそろ夕食の支度をしようかしら。そう言って、お母さんが立ち上がる。
わたしはお母さんの後に続いて、キッチンへ向かった。
手伝うよ。わたしが言うと、お母さんは笑う。とても嬉しそうに。
わたしも強く、優しくなりたいと思った。お父さんとお母さんのように。
苦しみや悲しみを受け入れる勇気はまだないけれど、それに立ち向かうとき、わたしはきっと、お父さんとお母さんの姿を思い浮かべるだろう。
暖かな夕日が傾いていく様をキッチンの窓から見つめながら、そんなことを思った。
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