夜の帳がおりてきた。あたりが闇に包まれた、静かな時間。
家の中で灯りがついているのはリビングだけだった。わたしは、お母さんに問う。

―――おとうさん、帰ってくるかな。

お母さんは笑って答える。

―――もちろんよ。ちょっと任務が長引いてるみたいだけど、おとうさんは帰ってくるわ。

お父さんの任務終了予定は、数ヵ月前に過ぎていた。
わたしはお父さんの帰還を楽しみにしていた。その分、不安も大きかった。
この頃のわたしはまだまだ幼かったけれど、任務に伴う危険は知っていたから。
お母さんの笑顔は、そんなわたしの不安を取り除いてくれる。

―――夜も遅いわ。あなたはもう寝なきゃ。寝てる間におとうさんが帰ってくるかもしれないわね。

にこりと微笑むお母さんに促され、わたしはひとりベッドに潜った。けれどその夜はなかなか寝付くことができなくて、物音をたてないよう注意しながら、ひっそりベッドを抜け出した。
相変わらずリビングにともっている灯りが、ドアの隙間から漏れている。
気配を悟られないようにしながら、わたしはドアを少しだけ開けて、リビングを覗き込んだ。

リビングには、お母さんの姿があった。テーブルに肘をついて、まっすぐに正面を見詰めている。視線の先には、玄関のドアがある。この家の人間を出迎えることなく、冷たく閉じたままの、重々しいドア。
真剣な瞳をしたお母さんの横顔は、不安げで、寂しげだった。

わたしは、見てはいけないものを見てしまった気がして、ドキドキした。
お父さんの任務が長引くことは、そう珍しいことではなかった。お母さんはいつだって、穏やかな笑顔を浮かべていたのに。

わたしの知らないところで、お母さんはこんな顔をしていたんだろうか。そう思うと、胸が痛んだ。
わたしは、そっとリビングのドアを閉じる。
お母さんの不安がどこかへ消え去ってくれることを祈りながら、再びベッドに潜り込んだのだ。



なんだか、他人に起きた出来事のようだ。
アカデミーの帰り道、不意に過った記憶の欠片に集中しながら、わたしは思う。

意識して取り出すことのできる記憶のなかにいるお母さんは、いつだって強く、優しかった。そんなお母さんの頼りなさげな横顔は、なんだか現実離れしている。けれどあれは、小さい頃のわたしが実際に見たお母さんだった。
帰ってこないお父さんの身を案じて、不安げなお母さん。わたしは子供だから、お母さんを助けてあげることができなかった。
歯痒くて、心許ない。この感情をなんて呼べばいいのかわからないけれど、あの時わたしは、強くなりたいと思った。
そして願ったのだ。お父さんが早く帰ってきますようにと。
お母さんの笑顔を取り戻すことができるのは、お父さんだけだとわかっていたから。


「ただいま」

家の中は静かだった。わたしの声だけが響く。
お母さんの気配はたしかにあるのに、姿は何処にも見えない。

「おかあさん?帰ったよ」

いつもなら、お母さんは笑いながら「お帰りなさい」と言って出迎えてくれる。
姿を見せないお母さんを探して、わたしは寝室のドアをノックした。

「・・・お帰りなさい。ごめんね、ちょっとうたた寝しちゃってた」

お母さんはベッドの上で、わたしの姿を認めて薄く微笑む。
弱々しい微笑みと、掠れた声。顔はほのかに青白い。

「大丈夫?おかあさん具合悪いの?」

「平気よ。少し横になったら楽になったから」

強がりなのだとすぐにわかった。それくらい、お母さんの声には張りがない。
夕食の支度をしなくちゃね。そう言いながら起き上がろうとするお母さん。
わたしはお母さんの肩を、優しくベッドへと押し戻す。

「ご飯くらい、わたし自分で用意できるから。おかあさんは休んでて」

「・・・じゃあ、もう少し寝ててもいい?」

「なにか食べたいものはない?」

「今はなにもいらないわ」

「だめよ、なにか口にしておかなきゃ。・・・お粥は?わたし、作ってくるから」

お母さんは小さく頷く。わたしを見詰める湿った瞳が、ゆらゆら揺れていた。



「・・・おいしい?」

「ええ。あなたがこんなに料理上手だなんて知らなかったわ」

わたしの作ったお粥をゆっくり飲み下してから、お母さんは言う。
おいしいという割に、お皿の中身はちっとも減っていないことに気付いた。指摘はしないけれど。

「難しいね、料理って。忍術のほうが簡単かも」

わたしが言うと、お母さんはくすりと小さく笑った。

「・・・結婚したばかりの頃、私も料理には悪戦苦闘したわ。忍術のほうが楽だって、そう思ってばかりで」

「でも、おかあさんの料理は美味しいわ」

「ふふ・・・おとうさんもそう言ってくれたわ。ミドリの料理は美味しいよって」

当時を思い出しているのだろう。お母さんの瞳が宙を見詰める。
力なくひっそりと笑う横顔が、とても切ない。


「ごちそうさま。・・・私のことはもういいから。病気がうつったらたいへん」

「わたしは平気。・・・だから、もう少しここにいてもいい?」

「・・・少しだけよ」

ふたり分の大きさのベッドに、ひとりきりで眠るお母さん。いつもよりか細く見えてしまうのは、わたしの気のせいだろうか。
やがてお母さんは目を閉じる。そうすることで、体を癒せるとでもいうように。
薄く開いた口から漏れる吐息は、弱くて苦しそう。
それでも強がるお母さんは、いじらしい。

こんな時、お父さんがいてくれればと、わたしは思う。弱ってしまったお母さんを前にして、わたしはとても心細い。
お母さんだって、お父さんがいてくれればと思っているはずだ。
お父さんの優しい笑顔はお母さんを励まし、支えてくれる。


「・・・おかあさん」

「・・・・ん?」

「わたしの秘密の話、教えてあげる」


*


あれは、わたしがアカデミーに入るよりももっと前。うんと幼かった頃。
ソファーで本を読んでいたお父さんの膝の上に陣取って、足をぶらぶら揺らしていた。
お父さんは本に視線を向けながら、時折わたしの頭を撫でてくれた。大きくて暖かい、お父さんの手。


『おとうさん』

お父さんの顔を見上げる。視線に気付いたお父さんが、わたしの顔を覗き込む。

『なに?』

『あのね、わたし大きくなったらおとうさんと結婚したいの』

今よりうんと幼かったわたしの描いた将来の夢。当時はこの夢が叶わないはずがないのだと、信じて疑わなかった。
お父さんはそんなわたしの夢を、優しく目を細めて聞いてくれていた。

『ありがとう。凄く嬉しいよ』

言葉通り嬉しそうに笑うお父さんの顔を見て、わたしも嬉しくなった。

『でも、父さんはお前と結婚できないんだ』

とても残念そうな表情をしているお父さんに、どうして?と、問い掛ける。

『オレはミドリとしか結婚できないって思ったから、母さんにプロポーズしたんだ』

お父さんの真っ直ぐな瞳が、わたしを見詰めていた。

『今もこれからも、その気持ちは変わらないから』

でも、お前のことは幸せになってほしいって、一番にそう思ってるよ。
お父さんはわたしの頭を撫でながら、そう言った。


『おかあさんの幸せは願っていないの?』

わたしの幸せを願ってくれるお父さんが、お母さんの幸せを願っていないなんて。
小首を傾げるわたしの顔を見て、お父さんは笑った。

『母さんはオレが幸せにするからいいんだよ』

幼かったわたしの将来の夢は、あっけなく破れてしまった。当時のわたしがそれをどう感じていたのか、よく覚えていない。
覚えているのは、お父さんの優しくて強い声と、暖かな微笑みだ。




「・・・カカシったら・・・大人げないこと言うんだから・・・」

わたしの秘密の話を聴き終えたお母さんの第一声。呆れたような物言いだったけれど、口元が綻んでいるのは見逃さなかった。


「おとうさんはおかあさんのことが大好きなのね・・・」

お母さんから言葉は帰ってこなかった。代わりに聞こえてくる、ぜえぜえという荒い息。

「・・・わたしもおかあさんが大好きよ。だから・・・早く元気になって」

そう口にした途端、泣きそうになってしまった。
まるで小さい子のようだ。不安に押し潰されてしまいそうだなんて。


「ゆっくり休んでね、おかあさん」

わたしは寝室を出て、ひとりリビングに戻る。灯りのついていないリビングは夜の闇に呑み込まれていた。
わたしもこのまま、闇のなかに溶けてしまいそう。そう思うとなんだか怖くて、慌てて蛍光灯のスイッチを入れた。

パッと照らされる室内。白い灯りは他人行儀で、よそよそしく感じる。
わたしはソファーの上で膝を抱えた。
ひとりきりのリビングは、とても寂しい。



わたしはいつの間にか眠ってしまっていたらしい。膝頭に額を乗せる変な態勢のせいで、首が痛い。
時計に目をやると、もう日付は変わっていた。
深い闇が辺りを支配している。家の外からも物音ひとつ聞こえない。


お母さんは大丈夫だろうか。そう思った瞬間だった。

わたしは勢いよくソファーから飛び降りて、一目散に玄関へ向かう。
予感だなんて、そんな不確かなものじゃない。感じたのだ。間違いではないと確信している。

わたしがたどり着いたのと同時に、玄関のドアが静かに開いた。
深夜だということも憚らず、わたしは大きな声を出してしまう。


「おかえりなさい、おとうさん!」

ドアの向こうから現れたお父さんは、わたしの声の大きさに驚いたのか、少し目を見開いた。そしてすぐに笑みを浮かべて、わたしの頭を撫でながら、ただいま、と言う。
こんな、なんでもないやり取りに涙してしまいそうになるなんて、今日のわたしはどこかおかしい。


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