お父さんからは、外のにおいがした。この家の中にはないにおい。
僅かに血のにおいが混じっていたけれど、お父さんの血のにおいじゃないことに気付いていたから、何も言わなかった。


「おとうさん、おかあさんがね・・・」

おかあさんが病気なの。わたしがそう言うと、お父さんは寝室へ向かった。
お父さんの姿が寝室に消えてから、わたしはリビングのソファーに腰を下ろした。お父さんには、先に寝なさいと言われたけれど、すっかり冴えきった頭ではすぐに眠ることなんてできない。


お父さんが寝室へ消えてから数十分後。お父さんがリビングに顔を出す。

「あれ?まだ起きてたの?」

わたしの姿を認めて、お父さんはソファーに腰を下ろした。ひとり分の重みが加わって、わたしの体も少し沈む。

「・・・おかあさん、大丈夫かな・・・」

「今は熱が高いけど、ただの風邪だよ。だいじょーぶ」

隣に座るお父さんの顔を見上げる。
わたしと視線が合うと、にこりと笑うお父さん。

「任務は大変だった?」

「んー・・・ま、それなりにね」

お父さんの台詞は軽い口調だった。
長期間に及んだ任務は予定より1カ月も遅い帰還。忍服についた汚れや、破れたあと。わたしが想像しているよりも、苛酷なものだったに違いない。

「・・・おとうさんが無事でよかった」

わたしは心からそう思った。
ありがとう。言いながらお父さんは笑う。わたしの大好きな優しい笑顔で。
その笑顔を見た途端、わたしの体と心から少しだけ、力が抜ける。


「おとうさんがいない間、おかあさんから色々きいたのよ」

「色々?」

「そう。おとうさんと出逢った頃の話とか、プロポーズの話とか」

わたしが言うと、お父さんはちょっと笑ってみせる。

「ハハ・・・ずいぶん懐かしいな」

あ、照れてる。
喜怒哀楽を大きく表現しないお父さんの些細な変化に、わたしは敏感なのだ。


「はじめておかあさんに逢った時のこと、覚えてる?」

「覚えてるよ。母さんは任務先で捕らえられたんだ」

「助けにいったのがおとうさんだったんでしょう?おかあさんは、その時お父さんを好きになったのかもって言ってたわ」

「オレにはミドリがとても強がりに見えたんだよ。拷問を受けて傷だらけだったくせに、自分の脚で里まで帰るんだって、言って聞かなかった」

「そうだったの・・・。なんだかおかあさんらしいけど」

「でしょ?でも結局、途中で歩けなくなっちゃってね。嫌だって言うミドリを無理矢理おぶさって里に戻ったんだ」

お父さんの視線が宙を泳ぐ。思い浮かべているのはきっと、若かりし頃のお母さん。

「おとうさんはおかあさんと再会した時、恋人がいるのを知ってたんでしょう?」

「そんな話まで聞いてたの」

「恋人がいても、それでもおかあさんを好きになったのよね」

「・・・そうだよ。いつも自分を省みずに無茶をするミドリから目が離せなくて、気が付いたら好きになってた」

淀みのない、お父さんの言葉。
気が付いたら好きになってた、そういうのって、わかる気がするわ。わたしが言うと、お父さんは少し目を細める。

「恋人がいたから、おとうさんはおかあさんに気持ちを伝えなかったのよね」

「あの頃はミドリが幸せだったらそれでいいって思ってたからね」

「おかあさんの恋人が死んでしまわなかったら、ふたりは結婚しなかった・・・?」

「どうかなぁ。・・・いずれにしても、オレはミドリに気持ちは伝えただろうな」

「それだけおかあさんのことが好きだったってことね」

「そうだろうね。自分の理性が働かなくなる相手に出逢えるなんて、それまで考えたこともなかったよ」

自分の頭と心が別々に動いてしまう恋は、いったいどんなものだろう。
わたしには想像することしかできないけれど、それはとても苦しいことのように思えた。


「・・・おかあさんの恋人が死んでしまって、悲しかった?」

「オレにとっても大事な仲間だったからね。・・・でもそれ以上に、悲しんでるミドリを見てるほうが辛かったよ」

「でも、おかあさんはおとうさんが苦しみや悲しみごと全部包んでくれたって、そう言ってたわ」

「それはオレも同じだよ。ミドリがいてくれたから、守りたいものがあったから、戦ってこれたんだ」

「だからふたりは結婚したのね」

「ああ。ミドリと結婚して、お前が生まれた。守りたいものがもう1つ増えた時、オレは凄く嬉しかったんだよ」

わたしの頭上に降りてくる、お父さんの暖かくて大きな手。


「おとうさんは、おかあさんのどこが好き?」

わたしの問い掛けに、お父さんは迷うことなく答える。

ミドリのいいところも悪いところも、全部好きだよ」

「・・・きっとおかあさんも、同じように答えるね」

「そうだといいけどね」

夜の深い時刻。辺りは暗闇に包まれて怖いくらいに静かだけれど、今この瞬間、わたしの家だけは暖かい。


「・・・わたしは、おとうさんとおかあさんのような忍になりたい」

大切なひとを守るために、戦える。大切なひとを想っているから、強くなれる。そんな忍になりたい。
わたしが言うと、お父さんは微笑みを浮かべる。
お前ならなれるよ。そう言ってくれるお父さんの声は、とても心地好い。
安らかな眠りへと、誘われてしまいそうなほどに。





蛍光灯のついていない暗い部屋で目が覚めたのは、人の気配を感じたから。
私のためにとお粥を作ってくれた娘。彼女が、もう少しここにいてもいい?と、そう言っていたのを思い出す。
まだここにいるのだろう。眠ってしまっているんだろうか。ぼんやりする頭で、そう思った。


「大丈夫か?ミドリ

静かな室内に響く、低く穏やかな声。私の視線は、声のした方へ向かう。

「・・・カカシ・・・帰ってたの・・・」

「ああ。ついさっきね」

「・・・おかえりなさい」

「ただいま。遅くなって悪かったね」

「任務だもの・・・しょうがないわ」

無事だったのなら、それで充分よ。私の言葉を聴いて、カカシが笑った。空気の動きだけで、それが伝る。

「それよりお前は大丈夫なの?」

「・・・ただの風邪よ。病院に行かずに放っておいたから、こじらせちゃったみたい」

また無茶してる。
カカシの呟きが、遠くで聞こえた。睡魔が私の背後まで迫ってきているみたいだ。

「熱、けっこうあるね」

額にのせられたカカシの、大きくて暖かな手が心地好い。
私はそっと、目を閉じる。

「・・・あの子にも心配かけちゃったわ」

「うん」

「でもね、お粥を作ってくれたのよ」

「そう。美味しかった?」

「ええ。とても」

まだ余ってたら、カカシも食べてみて。私が言うとカカシは、うん、と答える。

「もう休みなよ。ミドリが寝付くまで、傍にいるから」

カカシの声が優しく響く。
子供じゃないんだから。そう言葉にしようとしたのに、口から漏れるのは湿った吐息だけだった。

どうか、ふたりに伝染しませんように。
まるで小さな子供のように、心のなかで願い事を呟きながら、私は深い眠りに落ちていった。




深夜の出来事は、夢ではなかった。カカシが、帰ってきたのだ。
ベッドの上に降り注ぐ太陽の光。硝子を一枚隔ててもその強さを失わず、私を目覚めさせる。
起き上がってみると、体が軽くなっていることに気付く。どうやら熱は下がったらしい。

カカシはリビングで眠ったのだろうか。
まだ温もりの残るダブルベッドをぬけ、リビングへと続くドアを開ける。

予想した通り、リビングにカカシの姿があった。汚れた忍服のままソファーの中央に腰掛け、目をつむっている。
カカシの右隣には、娘がいた。カカシの肩に頭をもたせかけて眠っている。
そんなふたりを見て、私の口元が自然と綻ぶ。
朝日のさしこむ明るいリビングのソファーで、寄り添い合うように眠っているふたり。揃いの銀色の髪が、きらきら輝く。
幸福だと思った。何気なく満ち足りた、私の生活。


「・・・ミドリも座る?」

カカシの右目がそっと開いて、私を見つめる。
少しだけね。私は答えて、カカシの左隣へ腰を下ろした。

「・・・昨夜遅くまで起きてたの?」

ミドリが眠ったあと、ふたりで話してたらいつのまにか眠ってた」

「そう。・・・なんの話してたの?」

「ナイショ」

私がカカシの肩に頭を預けるのと、カカシの腕が私の肩に伸びたのは同時だった。

「・・・この子は、やっぱりカカシに似てるわ」

私がそう口にすると、カカシが、僅かに首を動かす。
娘の寝顔を見ているのだろう。

「優しいところが、カカシ似なの」

「オレはミドリに似てると思うよ。強いところも、強がりなところも」

「私って強がり?」

カカシの顔を覗き込む。カカシは私と視線を合わせると、眉を下げて笑いをもらした。

「強がりでしょーよ」

「・・・私のこと、よく知ってるのね」

「夫婦だからね」

私はそっと、目を閉じた。降り注ぐ朝日が私たち三人を、包み込む。
もう少しだけ、こうしていてもいいだろうか。
大切な家族が揃ったリビングで過ごす、なんでもない、特別な時間。
もう少しだけ、こうしていたい。




「今まで一度も遅刻なんてしたことなかったのに」

リビングと自分の部屋とを慌ただしく往き来している娘が叫んだ。
父親に似て常に冷静な彼女があわてふためく姿は、見ていてとても愛らしい。
自然と綻ぶ口元。笑みを浮かべていた私と視線を合わせ、娘が笑う。

「おかあさんが元気になってよかった」

「ありがとう。あなたが作ってくれたお粥のおかげね」

私が言うと、娘は満足そうに微笑んだ。


少しだけ。そう思ってソファーに腰を下ろしたのに、私はいつの間にか意識を手放していた。
先に目を覚ましたのは娘だった。「アカデミーに遅れる」という彼女の悲痛な叫び声で、私とカカシは目を覚ましたのだ。

慌てて支度をする娘と、急いで朝食の準備に取り掛かる私を尻目に、ひとりのんびりとシャワーを浴びにいくカカシ。
リビングに残された女ふたりは、視線を合わせて苦い笑いを漏らした。


「いってきます」

「いってらっしゃい」

いってらっしゃい。そう言った声が、カカシの声と重なる。
シャワーを終えたカカシは、髪に水気をたっぷり含ませたまま、娘を見送る。

玄関のドアを開けて、駆け出していく娘の背中。
ドアが閉まると、先ほどまでの慌ただしさが嘘のように、時間の流れがゆっくりになる。


「・・・少し見ない間に、急に大人になったね」

小さな声で、カカシが言った。

「・・さみしい?」

「いや、嬉しいよ」

にこりと微笑むカカシの表情を見て、私も笑った。

「好きな子がいるんですって」

「そういう年頃だよね」

「なんだ、もっと動揺するかと思ってたわ」

「これでもそれなりに動揺してるんだけど」

「ふふ、知ってる」

―――目の中に入れても痛くないほど、カカシが娘を可愛がっているのを、知ってるのよ。
私の言葉に、カカシは笑う。

―――だって、オレとミドリの娘だから。
私は、そうね、と答える。誰より愛しいひとの娘だから、愛しく思うのは必然なのね。



「・・ミドリ

「ん?」

「せっかくだから、どこか行こうか」

「どこかって?」

「どこでもいいよ。ミドリの行きたいところなら、どこでも」

「・・行きたいところを考えておくから、カカシはその間に髪を乾かして」

カカシがリビングから出ていく後ろ姿。
行きたいところ。そう問い掛けられて思い浮かんだのは、あの場所だった。ふたりが初めてキスをした、里を見渡せる丘の上。
なぜたか気恥ずかしくて、すぐ口にはできなかったけれど、どこに行くか決めた?と、そう問われたら、言ってみよう。きっとカカシは、微笑んで答えてくれるはずだ。いいよ、と。

太陽の光の下、里には穏やかな時間が流れているだろう。私たちはふたり並んで里を見下ろす。
真昼の広場でキスをするのは恥ずかしいから、代わりに手を繋いだりするかもしれない。

アカデミーから帰った娘には、「今日おとうさんと一緒に、ふたりが初めてキスをした場所に行ったのよ」と話してあげよう。
彼女なら、嬉しそうな顔をして、私の話を聞いてくれる。


「どこに行くか決めた?」

カカシの声が、優しく響く。私は微笑んで、頷いてみせた。


「・・・カカシ」

「うん」

「ありがとう」

「どうしたの、急に」

「わからない。でも、どうしても伝えたかったから」

このひとが私の家族であること。今、生きていること。一緒に生きていること。
なんでもないことがとても特別で、幸せなことだと、私は思う。

「・・・オレのほうこそ、ありがとう」

「え?」

「傍にいてくれて」

優しい声だった。カカシはきっと優しく微笑んでいるのだろう。けれど視界がぼやけてしまって、その表情がよく見えない。


「で、どこに行くの?」

大きな手で私の頭を撫でながら、カカシが言う。髪をすくように撫でる手付き。

「・・・あのね―――」

頬に伝わる涙を拭いながら、私は行き先を告げた。



end

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