「もぉー、なんでこう毎日暑いわけ?」

仕事から帰宅し、玄関に靴を脱ぎ散らかしてキッチンに向かう。
昔、父親が「暑い日のビールが最高だ」と言っていたのを聞きながら、どこが旨いんだ、と幼心にそう思った。だけどわたしも大人になり、あの時の父の言葉が本当に理解出来る。
夏の暑さに茹だり、渇ききった喉にビールの苦みが心地いいのだ。

「やだ、ビールがない」

冷蔵庫を開けたわたしはガク然とした。
まだ2、3本はストックがあると思っていたから買って来なかったのに、冷蔵庫内にビールは1本も見当たらない。

「彰・・あんたもしや・・・」

テーブルの上にコーラを載せた彰をギロリと睨む。

「俺?飲まないって」

「じゃあなんでないのよ」

華梨が昨日の夜に飲んでたじゃん」

「え、ウソ」

「ほんと」

わたしは昨夜帰宅してからの一連の行動を頭の中で思い浮かべる。
昨日は帰って来てからソファで眠る彰を起こし、夕食を作ってシャワーを浴びて・・・。あぁ、そうだ、シャワーの後にビールを飲んだんだ。
ちょうどいい具合にアルコールがまわって、ぼんやりした頭でベッドに入ったのを覚えている。

「あは、自分で飲んだんだった」

こりゃ失礼。言って自分の額をぴしゃりと叩いてみせた。彰なら、これで疑ったことを赦してくれる。

「わたしちょっとコンビニ行ってくる。ビール飲みたい」

「俺も行くよ」

「要るものあるならついでに買ってくるわよ?」

「ううん、一緒に行きたいだけ」

椅子から立ち上がり、彰はさっさと玄関でスニーカーを履いていた。
お母さんの行くところには何処にでも付いて行きたいと言う子供のようだ。そう思ったけれど、わたしの胸は暖かかった。





コンビニへ到着すると、わたしはすぐにアルコール類が並んだ大型冷蔵庫へ向かった。
いつも飲んでる馴染みのビールにしようか、最近発売されたばかりのチューハイにすべきか。ちょっと悩んだ末、結局は両方を買い物カゴにほうり込む。
ついでにつまみも買って行こう。くるりと振り返ると、そこに彰の姿はなかった。

「あれ?」

ついさっきまで後ろにいたと思っていた彰が姿を消した。わたしは店内隅々に視線をやる。

雑誌コーナーの隅に、彰の姿がある。
立ち読みでもしてるんだろう。ちょっと脅かしてやろうかな。音を起てない様にそろりそろりと歩き、彰の背後に近づく。
「わっ」と、そう声を出そうとして、わたしは静止した。
彰は一人じゃなかった。隣に、小柄な女の子がいて、何やら話している。
女の子の方も、一度見た事がある顔だった。いつだったか、彰の出る試合を観に行った時、会場で隣の席に座った子。
彰の彼女だ。

わたしは慌てて彰の後ろを離れ、棚の陰に身を潜める。
別にやましい事をした訳じゃないけど、ここで彼女に自己紹介だなんて、ちょっと嫌じゃない。


「・・・なんで?彰引越ししてから家に呼んでくれないよね」

彼女の声がハッキリ聞き取れる。

「・・・ほら、部屋汚ねぇし」

今度は彰の声。
どうやら彰の家に行けない事を彼女は面白く思っていないようだ。
そして彰は何となく言葉を濁している。
やっぱりわたし、出て行かなくてよかったみたい。
多分彰は、彼女にわたしと住んでる事を話してないのだろう。

「もういい。・・・それより、花火大会行くでしょ?」

それまでの不機嫌そうな声を取り繕う様に、明るい声で彼女は言った。

「んー・・気が向いたらね」

「・・・・あ、そ」

それだけ言い残し、彼女はコンビニの自動ドアをくぐっていった。わたしはその背中を見送りながら、何だかいたたまれない気分になる。
小柄でとても可愛いらしい顔立ちをしたいい子じゃないか。それなのに、彰ときたら・・・。


「あ、華梨。買う物決まった?」

わたしに彼女との会話を聞かれていただなんて露ほども思っていないのだろう。彰はわたしを見つけ、暢気に笑っていた。

「・・・なんで彼女と花火観に行ってあげないの?」

「…聞いてたの?」

「うん、バッチリね」

わたしが言うと、彰はいかにも「まいったな」と言いたげな顔をした。

「行ってあげれば?彼女、凄く行きたそうだったじゃない」

「俺人込み苦手なんだよ」

眉尻を下げ、ちょっと情けない笑顔で彰は言った。

「だけど一緒に行ってあげたら彼女喜ぶわよ?」

「うーん・・・」

なおも煮え切らない彰に対して、苛立ちを感じた。

わたしには彼女の気持ちがよくわかる。一度でも恋をしたことがある女なら、夏の大イベントである花火大会を好きな人と一緒にみたいという気持ちが理解出来ないはずがない。
それに、わたしは彰の彼女に対して、少なからず「申し訳ない」と、そう感じていた。
彰の部屋に行きたいと、そう言っていた彼女。彰がそれを拒んだのは、おそらくわたしがあの家で一緒に住んでいるからだろう。
断られても、それでも努めて明るい声で「花火大会に行きたい」と、そう言ったいじらしい彼女に対してわたしがしてあげられることは、彼女の願いが叶うよう、彰を説得することくらいしかないのだ。

「ねえ、行ってあげたら?」

「・・・でもさ」

「うん」

「俺が無理して行ったって、楽しくないだろ。俺も彼女も」

「・・・・うん」

会計してくれば?手に持ったカゴをちらりと見て、彰が言った。促され、カゴをレジの横に載せる。

確かに彰の言うとおりだと思った。相手がちっとも楽しくないのに一緒に行ったってなんの意味もない。
同じものを同じ様に楽しみたい。だから一緒にいるのに、相手に無理強いさせては無意味なのだ。
だからあれ以上は、彰に何も言えなくなってしまった。

ふう、と息を漏らし、レジの奥の壁に貼られたポスターを見つめる。
夜空に咲く大輪の花の写真。花火大会の日程と、場所が下の方に記してあった。

わたしが花火に誘ったら、タツヤは一体どうするんだろう。
無理してでも神奈川まで来てくれるのだろうか。それとも……。

わたしは一か八かの賭け事気分で、メール作成画面を開いた。





「そういえばわたし、ここの花火大会も高校の時に見た以来になるのよね」

「そっか、卒業してから東京行ったんだっけ」

「そう。それにしても懐かしいなー。最後に見たのは高3の時でさ、一緒に見に来たのが当時付き合ってた彼氏だったのよね」

今夜の花火大会に彼氏が来てくれる事が余程嬉しいのか、華梨は朝から饒舌だ。
昼過ぎにはシャワーを浴び、日が暮れる頃になると自分の部屋に篭り、出て来た時には浴衣姿だった。

「ねえ、どう?変なことない?」

この前買った浴衣を身につけ、くるりと一周してみせた。

「うん、大丈夫。すげー可愛い」

俺は華梨に向けて笑顔で言った。
いつもの彼女なら、「またそんなこと言って」と言いながら呆れ顔をするところだろうけど、今日ばかりは嬉しそうにはにかんだ笑いを見せた。
椅子に座ってみたり、はたまた立ち上がってみたり、そわそわと落ち着かない彼女の背中を見ていると、自然と頬が緩む。

「なによ、にやにやして」

窓の外に広がる、海に沈みつつある夕日を見つめていた華梨が、振り返り言った。

華梨って可愛いよなーって思って」

「年上の女性に『可愛い』はないんじゃない?」

口ではそう言っていても、彼女は微笑んでいた。

「ねぇ、もしかしてこの部屋からでも花火見えるんじゃない?」

「うん、多分見えるよ」

「じゃあさ、今からでも彼女呼んだら?わたしはどうせ外に出るんだし」

「考えとく」

俺が答えると、華梨は少し煮え切らないような表情をして、視線を窓の外に戻した。

いつもは下ろしている髪を上げていて、白いうなじが剥きだしの彼女を見つめながら、俺は小さくため息を吐いた。
華梨がそわそわと落ち着きなく彼氏を待っている姿を、はにかむ笑顔を可愛いらしいと思いながらも、心の片隅がチクチク痛んだ。
華梨の落ち着きを無くすのも、あの笑い方をさせるのも、俺じゃない。そう思うと、やり切れないような、もどかしいような、苛立つような、凄く複雑な感情が沸き上がる。
この感情が華梨に伝わればいいと思う反面、俺の内側だけに留めておかなくちゃいけないとも思った。


「そろそろなのにな・・・」

壁に掛けた時計に目をやりながら華梨が呟いた。
彼氏が迎えに来ると約束した時間がもうそろなのだろう。

「焦んなくたってすぐ来てくれるって」

俺が彼女にそう声を掛けたの同時に、テーブルの上に置いてあった華梨の携帯が鳴った。

「もしもし?タツヤ?」

着信音を聞くと同時に、凄まじいスピードで携帯を手に取る華梨

「今どこ?早く行かないといい場所なくなる・・え?・・・・そう。・・・ううん、いいよ。しかたないじゃない」

華梨は俺に背中を向けたけど、どんどん声が小さくなっていく様は隠し切れなかった。

「仕事が入ってこれないんだって」

通話を終え、振り向いてそう言った彼女は、笑っていた。

「なら早く言えっての。そしたらこんな準備万端で浴衣なんか着てなかったのにね」

眉尻を下げてクスリと笑いを漏らす華梨
声だけは努めて明るいのに、その顔には明らかに『がっかり』と書いてあった。
再び彼女が視線を向けた窓の外が、ゆっくりと暗くなっていく。華梨の背中が、いつもより小さく見えた。


華梨、行こう」

「え?行くって…」

俺は彼女の言葉を最後まで聞くことはせず、華梨の手を取るとそのまま引っ張るようにして外に飛び出した。


「ちょっと彰!早・・早いって」

下駄を履いた華梨は浴衣を来ているせいで歩幅が狭い。それをわかっていても彼女の手を引き、ずんずん歩いた。

「彰・・行くって・・・」

「早く行かないと場所なくなるんだろ?」

俺が目指す場所を理解したのか、華梨は黙った。



今夜の花火大会の会場は、近所の浜辺だった。いつもなら人が疎らにしかいないその場所は、今夜ばかりは浜辺だけでなく、堤防にまで人が集まっている。

「うわー。すげえ人」

目的の場所にたどり着いた俺の第一声がこれだった。

華梨、どこで見る?」

振り返り、華梨を見遣ると、彼女は早足で歩いたせいか、肩で息をしていた。

「も・・彰歩くの早い・・・」

「はは、ごめん」

「もう少し気遣いなさいよ…」

ぜぇぜぇ息をする彼女。
その瞬間、ドーン、と激しい音がして、夜空に大輪の花を咲かせた。

「…わ」

さっきまでの会話をよそに、華梨は次々に上がる花火を見入っていた。俺はそんな彼女の横顔をチラリと盗み見る。
早足のせいで紅潮した頬。少し開いた口元。瞳の中には、咲いては消えていく花火を小さく映している。


「・・・人込みは嫌いなんじゃなかったの?」

夜空を見つめていた目をちらと俺に向け、華梨は言った。
イジワルな口ぶりとは裏腹に、その顔は優しく笑っている。

華梨のためだから。人込みくらいなんでもないよ」

俺が言うと、華梨はくすりと小さく笑って、その視線を再び花が舞い散る夜空に戻した。

華梨は俺の言葉を『どうせいつもの冗談だ』くらいにしか思ってないだろう。
だけど、俺は本気だった。
華梨には悲しい顔や寂しい顔より、笑った顔でいてほしい。そのために出来ることがあるなら何だってやるし、何だって出来るような気がする。





タツヤから『今夜は行けなくなった』と電話で報され、楽しみにしていた分だけ、落胆は大きかった。それでも『楽しみにしてたのに』だとか、『さみしい』だとか、そう口にしてしまうと余計に辛くて、惨めっぽいから笑った。
だけど、どうやらわたしはその手の作り笑いが下手らしい。彰はわたしの手を引っ張り、強引に花火を見に連れ出した。

隣に居るのが彰だってのはなんとなく癪だったけど、それでも嬉しかった。花火が見れたことじゃない。彰がわたしを引っ張ってきてくれたことが。
わたしの心中を察して、気に掛けてくれて、行動に移してくれたことが、ただ嬉しかった。
夜空に舞い上がる花火が、何倍にも何十倍にも綺麗に見えるような気がした。


「・・・あのさ、彰」

「うん?」

「手、もういいから」

準備されていたであろう花火が全て打ち終わり、空には雲の様に見える煙が残り、周りの人々が「綺麗だったね」と囁き合ってざわめきだす。
家を出たときから今の今までずっと握られっぱなしだった手を持ち上げ、『もう握ってなくてもいいよ』と、彰にアピールしてみた。
わたしの手をすっぽり包んだ自分の手を見つめ、‘そういえば握りっぱなしだった’と思い出したかのような顔をした彰。

「せっかくだからこのまま帰ろうよ」

「えぇ?」

「嫌?」

「嫌っていうか・・・」

恥ずかしいじゃない。わたしはそう続けようとしたけど、『嫌?』と聞いた彰の表情が寂しそうで、言いそびれてしまった。

「それに華梨迷子になるかもしれないだろ?」

「…なんでわたしなのよ。迷子になるなら彰のほうでしょ」

結局手を離すか離さないかの結論をうやむやにしたまま、ゆっくり歩き始めた。

華梨が迷子になっても、俺すぐ見つけられそうな気がする」

「なんで?」

「愛のチカラで」

「ばぁか。それに見つけるなら絶対わたしのほうが先に彰を見つけるでしょ」

「愛の力で?」

「・・あのね、その長身とその頭をどうやって見逃すのよ」

「ああ、なるほど」

花火大会が終わったにもかかわらず、堤防付近にはまだ人が溢れていた。
小学生くらいの子供をつれた家族や、部活帰りなのか制服を着た女の子達。
カップルの数も多くて、浴衣を着ている人もそうでない人も、自分の恋人と手を繋いで歩いている。

わたしは、急に自分の手を包む彰の手を意識した。
大きくて熱い、ちょっと汗ばんだ手。
こんな風に手を繋いでいるわたしたちは、周りからは恋人同士に見えるんだろうか。そう思うとなんだかちょっと可笑しくて、そして同時に胸がチクリとした。
数日前、コンビニで彰の彼女が花火に行きたがっていたのを思い出す。
本来なら、彰の隣にいるのは彼女のはずだろう。
もしも自分が彼女の立場だったらという思いと、彼女への罪悪感で心臓がギュウっと小さく縮こまる。

隣を歩く彰をちらりと見遣る。
浴衣を着ているせいでいつもより歩くのが遅いわたしの速度にあわせて、ゆっくり歩く彰。
そういえば、彰はいつもこうやってわたしの歩くスピードに合わせてくれるな。
その長い足なら一人でさっさと歩いて行けちゃうはずなのに・・・。

わたしの視線に気づいたのか、目が合うと彼はニコリと微笑んだ。

彼女には申し訳ないと、心からそう思うのに、わたしは彰の大きな手から抜け出すことが出来なかった。


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