華梨って料理上手いよね」

「なによ、突然」

キッチンに立ち夕食の支度をする華梨の背中を眺めていた。
彼女の背中に向かって声を掛けると、華梨は訝しげな視線を投げ付け、再び手を動かし始める。

違うんだよなあ。華梨が刻む包丁のリズムを聞きながら、俺は思った。
彼女に伝えたいのは‘料理が上手い’とかじゃない。それなのに口を開くとなぜか伝えたいことから逸れた言葉が出てくる。
華梨が本当にエスパーだったらいいのに。そしたら俺の気持ちなんて口にしなくたって、彼女が読みとってくれただろう。

「・・・きら、彰ってば」

非現実的過ぎる考えを頭の中で巡らせていた俺の顔を華梨が覗き込んでいた。

「変なの。ボケーっとしちゃって」

「いや、ちょっと考え事してて」

「珍しいじゃない。・・・もしかして悩み事?」

眉尻を下げ、真っすぐに俺を見つめる彼女の顔には、‘心配だ’と、そう書いてあった。

「そんなんじゃないよ。ただ・・・」

「ただ?」

華梨がエスパーならいいのになあって思って」

俺がそう言うと、彼女は‘さっぱり訳がわからない’と言いたげな顔をした。

「わたしが本当にエスパーだったら大変よ?」

「なんで?」

「わたしに頭の中が丸わかりなら、あんた絶対悪いコト出来ないじゃない」

華梨は言って、ニヤリと笑う。
俺は自分で思い付く限りの‘悪いコト’を頭の中で並べた。・・・確かに、彼女に知られたくないことも多々あるかも。

「やっぱり華梨は普通がいいな」

「さてはすでになんかやらかしたな?」

華梨は可笑しそうにクスクスと笑いを漏らす。
彼女は何も知らないだろうけど、華梨が笑顔を見せる度に、俺の心臓は鷲掴みされたみたいにぎゅうっと縮まる。
全て、華梨次第だ。





1ヶ月以上もある夏休みは長い。そう思っていても、終わりはあっという間にやってくる。
気付けば今日が夏休みの最終日で、俺は夏休み中一切手をつけていなかった宿題に取り掛かっていた。
・・・いや、取り組まされていた。



「今日が8月31日ってことは・・・彰、あんた学校明日からなんじゃないの?」

「うん、そうだよ」

夏休み最後のバスケ部の練習を終えて帰宅し、エアコンの吐き出す冷たい空気を浴びていた俺に、華梨が声を掛けた。

「一応聞くけど・・宿題は全部済んでるのよね?」

嫌な質問が来た。そう思った俺は、彼女の言葉が聞こえなかったふりをした。
それが何を意味するのかを察した華梨は、大きなため息を吐いた。

「・・・やっぱりやってないんだ」

「ほら、俺部活で忙しかったし」

「そのわりにはよく釣りしてたわよね?」

「でも昨年も宿題やってかなかったからさ、先生も諦めてるって」

「昨年もやらなかったわけ!?」

信じられない。そう言いたげに目を見開く華梨

「今年はちゃんとやっていきなさいよ」

「え?今日一日で全部やるの?」

「当たり前でしょう。ほら、さっさとやっちゃいなさいよ」

華梨は俺の背中をぐいぐい押して、部屋の中に押し込めた。強制的に自分の部屋に入れられた俺は、諦めて夏休みの宿題をテーブルの上に広げる。
あまりの量に途方に暮れながらも、簡単そうな教科から手を付ける。
当然サクサク終わるはずもなく、リビングに居た華梨に助けを求めると、大きなため息を吐きながらも、俺の宿題を手伝ってくれた。

「まったく・・・。いい?宿題ってのはね、計画性を持って取り組むものなの。わかった?」

数学の問題集を開きながら、華梨は言った。

「でも華梨が手伝ってくれるし」

「あんたがやらないからでしょ」

言いながら、握ったペンを動かし続ける華梨

「俺、華梨のそういうとこ、すげー好き」

俺がそう言うと、華梨は問題集との睨めっこを止めて顔を上げた。

「なんだかんだ言いながらいつも俺の事助けてくれるだろ?それが凄い嬉しい」

そう、華梨はいつも「面倒臭いなあ」と呟きながらも俺を助けてくれて、俺の事を気にかけてくれる。
放っておかれるほうが気楽だし、その方がいいと思ってた。
だけど華梨がバスケ部の成績を知って喜ぶ顔も、勉強の出来なさ具合に呆れる顔も、全部が好きだ。
誰でもいいわけじゃない。
華梨だから、嬉しいんだ。俺は、強くそう思った。
だけど次の華梨の言葉で、その想いは見事に崩れ落ちる。

「わたしが彰を助けるなんて当然でしょ?今はわたしがあんたの保護者みたいなものなんだから」

そんなことより早く宿題終わらせてよ。華梨はそう言って再び問題集に視線を下ろした。

彼女の長い睫毛を見ながら、ああ、そうなんだ、と俺は思った。
華梨が俺を気にかけるのは、俺の事が好きだからとか、大事だからとか、そんなんじゃない。
ただ単に、俺が子供だからだ。
彼女は大人として、子供の世話を焼いている。ただ、それだけに過ぎないんだ。
始めから判りきったことだったのに、俺の気分は沈んでいく。

「どうかした?」

急に黙り込んだ俺の顔を、華梨が覗き込んでいた。

「なんでもないよ」

華梨の言葉に落ち込まされたなんて知られてくなくて、笑顔を作ってそう答えた。

「そういや俺、2学期が始まったらすぐ修学旅行なんだよ」

暗い所に落ちてしまった気分を持ち上げる為、話題を変える事にした。
そんな俺の口から出てきたのは、今日部活の練習で越野と植草が話していた内容だった。

「いいわね、修学旅行。どこに行くの?」

俺の気分が落ち込んでることには全く気付いていない彼女は、旅行先に興味津々だ。

「どこだったかな・・・。たしか北の方」

1学期にも修学旅行先の話は出ていたけど、俺はぼんやりとしか聞いてなかったし、越野と植草の会話も、途切れ途切れにしか耳に入ってこなかったからなぁ・・・。

「ほら、いっつもぼけーっとしてるから大事な話聞き逃すんじゃないの」

「何泊するのかは覚えてるよ」

「ふーん・・・。で、何泊なの?」

「4泊5日だって」

「へー、結構長いんだ」

持っているペンを唇に押し当てながら華梨は言った。

「俺が留守にしたらさ、華梨寂しい?」

なるべく重たくならないように、いつもみたいに冗談めかして彼女に問いかけた。
『寂しい』と、軽い感じでもいいからそう返して欲しかった。そうすれば落ち込んだ気持ちもまた浮上してくる。
華梨の表情や言動の一つ一つに俺は大きく左右される。そのことを俺自身、もう理解していたから。

「寂しいわけないでしょ。むしろ清々するわ。宿題手伝わなくていいし」

華梨は軽い口調でそう言った。
彼女にしてみれば冗談めかしたセリフでも、俺にとっては大ダメージ。
それに、少なからず本音も混じってるんじゃないだろうか。
俺と居ることで彼女は俺の世話を焼き、うんざりしてたりするんじゃないだろうか。
そう思ったら、宿題なんかまるで手につかなかった。





夏があっという間に過ぎるのは、大人になっても変わらないみたいだ。
つい先日彰が夏休みに入り、長い夏が始まるなぁ・・などと思ったのもつかの間、毎日暑い暑いと言いながら過ごしてるうちに、9月が来ていた。


「ほら、さっさと食べないと遅刻よ?」

「うーん…」

昨夜、溜めに溜めていた夏休みの宿題を二人して片付け、わたしも彰も、今朝は欠伸の回数がいつもより多い。彰の手が途中から止まってしまって、かなり時間が掛かってしまったのだ。
全く・・・9月の始めから遅刻なんて、彰みたいなことごめんだわ。今日から新学期の彰にも、その辺は心を入れ替えてもらいたい。

「今年の夏休みは楽しかったな」

朝食をのんびり口に運んでいた彰が、懐かしむような口調でそう言った。

「なんかジジくさいわよ、あんた」

「そう?でもホントにそう思うんだよな」

言って、彰は窓の外・・朝日を反射してキラキラ輝く海に目を遣った。その視線を追いかけて、わたしも同じ様に海を見つめる。
今年の夏・・・わたしにとってはどうだったんだろう。

数年ぶりに神奈川で過ごした。職場が変わって初めての夏。
タツヤとはあまり会えなかった夏・・・。
でもこの部屋にはいつも彰がいて、釣りに付き合ったり、夕涼みの散歩に出たり、近所の祭りに行ったり・・・。そういえば、花火大会にも行ったっけ。
タツヤとなかなか会えなかったことが寂しくなかったとは言わないけど、それでもこの部屋にはいつも彰が居て、寂しいと感じる時間は少なかったかもしれない。

「来年の夏も楽しいといいね」

海に目を向けたまま、独り言の様に呟いた。
彰が‘楽しかった’と感じる夏が、わたしと共用した夏なのか、わたしの知らないところで過ごした彼だけの夏なのかは判らないけれど、彰には来年も再来年も‘楽しい夏だった’と、そう感じてもらいたい。

華梨と一緒なら楽しいよ」

わたしの胸中を知ってか知らずか、彰は微笑んでそう言った。




「お土産期待してるからね」

「何がいい?」

「そうね・・・名物のお菓子とかかな」

「やっぱり」

彰は靴を履き終え立ち上がると、わたしの方を向いてクスリを笑いを漏らした。
どうせわたしは食い意地張ってますよ。思いっきり拗ねた真似をしてそう言うと、彰は「ゴメンゴメン」と眉尻を下げて笑った。

夏休み最後の日の夜に、『2学期に入ったらすぐに修学旅行に行く』と彰は言っていた。その修学旅行は本当に2学期に入ってまもなく実施され、今日から4泊5日、彰は家を留守にする。

「ほら、早く行かないと集合時間に間に合わないわよ?」

立ち上がっても荷物を持たず、ドアを開ける様子を見せない彰にそう言った。彼は声を掛けても動こうとせず、ただ黙ってわたしの顔を見つめている。
やがて彰が、ぽつりと呟く。

華梨

「ん?」

「俺が居なくて寂しい?」

彰は真面目な顔で、そう言った。
そういえばこの問いは、前にもされたな。夏休み最後の夜・・・彰の宿題を手伝ってる時だったっけ。


「そうね・・・寂しいかもね」

わたしは肩を竦め、微笑む。
この前同じ事を聞かれた時は、『むしろ清々する』と答えた。だけど今、実際に彰を見送るために玄関に立ち、今日から数日彰がこの家に居ないと思うと、少し寂しく感じる。
昔、家族の誰かが家を空けると、いつもは居ても何にも感じない・・寧ろウザったく感じることさえあるのに、居なくなると急に家が広く、静かに感じた。今のわたしの心境は、まさにその感覚なのだろう。

「まぁ、たかが4泊だし、わたしも大人だし・・・」

寂しいのなんてなんでもないわよ。そう続けようとしたのに、出来なかった。
彰の顔が近づいて、わたしの唇に彼の唇を重ねられたから。

「・・・は?」

そっと触れて、すぐに離れた彰の唇。意味が全くわからなくて、わたしは彰の顔を食い入る様に見つめながら、そう口にしていた。
予測不可能な行動を取った彰本人と言えば、わたしの顔を見てふっ、と笑いを漏らした。

「いってきます」

にこりと笑い、彰はドアを開けて、修学旅行へと旅立った。
わたしはその背中を、そして彰が出て行った後の閉じたドアを、ただぼんやり見つめることしかできなかった。


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